【so.】井上 真[5時間目]
「いまからホームルームを始める」
三条先生がそう言って、全校集会のあとにすぐホームルームが始まった。
「せんせー昼ご飯は?」
新藤さんが気になっていたことを聞いてくれた。
「このあと5時間目をその時間にする」
「ハセベのおばちゃんが帰っちゃうよ!」
「ハセベさんにはさっき5時間目が終わるまで待っていてくれるよう頼んでおいたから安心しろ」
「マジか~。じゃあ5分でおわろ!」
「そうはいかない。君たちに聞きたいことがあるからだ」
聞きたいこと。面談で聞いてきたこととは違うのかな。
「こないだ面談やったじゃないっすかー」
和泉さんがそれを尋ねてくれた。
「年末の件はもういいんだ」
「いいってどういうことですか」
埋田さんが聞き返す。郷さんのことじゃないんだな。体育館から戻ってきたら、郷さんはいつも通り自分の席に座っていた。
「…えっとな、さっき人体模型が落ちてきたな」
やっぱりそっちの話になるよね。
「山浦が犯人ー?」
和泉さんがいきなり尋ねて、そういえば山浦さんの姿を見ていないなと思った。
「…まだ分からない」
「三条先生、でも、山浦さんだけいません」
堀川さんもそう言うから、山浦さんが人体模型を落としたのかなと想像した。でも、なんでそんなことをしたのかさっぱり分からない。郷さんと仲の良かった山浦さん。それ以上のことは接点のないわたしには分からない。
「…そうか」
「山浦さん、面談のあと、怒って帰ってきましたけど」
埋田さんが怒ったように言う。わたしもこの間、面談したけれど、何も怒るようなことはなかったと思ったけどなぁ。
「えっとな、山浦の件はあとで説明するから、まず俺の話を聞いてくれ。君たちの中で、裏サイトってものを知ってるのは何人くらいいる?」
「何それー」
新藤さんが声を上げる。わたしも知らない。聞いたこともない。
「匿名で誰でも書き込めるネットの掲示板のことなんだが、このクラスの掲示板もあってだな」
「先生」
誰かが病人みたいな声を出した。
「なんだ」
「もう、郷さんのことがあって、さっきの人体模型落とすような酷いことがあって、これ以上、刺激の強いこと、やめてください…」
「いや、なんというか」
「先生、先生、ほんと、ワタシ、つらい…。さっきから気持ち悪くて吐きそうなんです」
そして後ろの方でオエッと聞こえた。振り向くと、細田さんだった。本当に吐いたわけではなかったみたいで安心した。
「大丈夫か。ちょっと隣の席だから悪いけど、伊村な、細田を保健室まで連れて行ってくれないか」
「…わかりました」
伊村さんが細田さんを連れて出て行った。
「他の者も気分が悪くなったりしたら、遠慮せず言うように。それで…どこまで話をしたか…」
「このクラスの裏サイトについてです」
堀川さんが言って、話が元に戻った。
「そうだ。えー、実は先生は前から裏サイトの存在を知っていたんだけれど、取り立てて問題視はしていなかった。でもな、今日の書き込みの中に、看過できないような物があったんだ」
「カンカってなんですか?」
岡崎さんが聞いてくれて良かった。
「殺害予告じみたものがあったんだ」
殺害予告のことをカンカっていうのか。
「ひっ」
つぐちゃんが小さな悲鳴を上げた。細田さんの次に気分が悪くなるのは、つぐちゃんかもしれない。そしたら今度は隣の橋本さんが、つぐちゃんを保健室に連れて行くことになるのかな。
「いいか、ちょっと気分を悪くする者もいるかもしれないけれど、読み上げるぞ。…やってやるやってやるやってやるよ見とけよ。この書き込みが午前中の最後の書き込みだ。そして人体模型が落ちた」
「じゃあ山浦が書き込んだんだ!」
和泉さんが声を上げる。
「…あくまで可能性が高い、推測の話だ」
「推測で犯人扱いするんですか」
「決まりじゃん」
なんだかモメてるなと思う。モメごとは嫌だなと思う。
「大事なのはな、この後なんだ」
まだあるんだ。このクラスにそんな怖いこと書き込んでる人がいるんだって、なんだか信じられなかった。
「先生ソレどうやって見んの?」
福岡さんが尋ねる。
「わざわざ見なくてもいいぞ。今から読み上げる。…えーと、田口、お前の名前が出てくるからな」
「は? ワタシ?」
「えー、行くぞ。…田口もたまにはいいこと言うわ。ホント死ねば良かったのに」
「何だよそれ! ふざけんな! 誰だよ!」
田口さんが大きな声で怒鳴って、睨みをきかせた。
「落ち着いてくれ。次にもうひとつ書き込みがあって終わってるんだが…読むぞ。…それじゃあまずあんたから殺してやるよ。特定したぞ」
「きゃああ!!」
近くでつぐちゃんが叫ぶから、わたしまでビックリしてしまう。細田さんじゃないけれど、刺激の強い話はやめて欲しい。
「せんせーもうやめよう。怖いよ」
もじゃも言った。
「書き込みはここまでだ。俺だって全員を集めてこんなの読みたくなかったけどな、殺害予告があったらもう事件になるんだ」
「じゃあ、今から犯人捜しをするんですか?」
堀川さんが変なことを言う。
「別に魔女狩りをするんじゃないんだ。ただ、起こるかもしれない事件を阻止したいだけなんだ。だからみんなには衝撃的だったかもしれないが、明らかにした。それで聞きたいんだが、この書き込みに心当たりはないか?」
そんなこと急に聞かれても、知らないし。困ったな。
「まあ、自分が書き込んだとは名乗り出たりしないよな。じゃあ、その一つ前の書き込みのことが分かる者は?」
「ジョーさー、すっげ気分悪いんだけど」
田口さんが不満げに言う。
「保健室行くか?」
「そういうのじゃねーんだよ!」
「この発言に心当たりは?」
田口さんは先生を無視した。
「ヨシミちゃんごめん。先生、これは、さっきの体育館からの帰りの廊下での発言です」
神保さんが代わりに口を開いた。
「ついさっきじゃないか。何があったんだ」
「もういいって!」
田口さんが声を上げたけれど、福岡さんが解説を始めた。
「山浦だけがいなかったから、人体模型を落としたのが山浦じゃね?って話になったら、ヨシミが言ったんす。ホントに死ねば良かったって」
ひどい。さすがにひどいと思う。
「そしたら埋田さんが来て、ヨシミにビンタして」
そんなことがあったんだ。体育館から帰ってくるとき、後ろの方がざわざわしてるなとは思っていたけれど。
「本当か埋田」
「言いたくありません」
「しただろうがよ!」
田口さん、機嫌が悪いな-。やっぱりお昼ご飯を食べてからホームルームをやった方がいいんじゃないのかなあ。
「それでだな」
三条先生が何か言いかけると、左隣の橋本さんが口を開いた。
「ねえ先生、この書き込みした人は、あの場で、会話が聞こえる位置にいた人ですよね。私は離れたところ歩いていたから、埋田さんの言ったことしか聞こえなかったです」
橋本さんは頭がいいな。社会に出てもきっと、こういう一握りの頭のいい人が、世の中を動かしていくんだろうな。
「じゃあ、その時、田口の周りに誰がいたか、誰か覚えてるか?」
福岡さんがまず答えた。
「あたし、つだまる、やまち」
次に神保さん。
「私と、細田さんもいました」
それから中島さん。
「私とさっちんはいたし、他にも何人か歩いてたよ」
「私覚えてねーけど」
新藤さんがそう返すと、中島さんはツッコミを入れた。
「おめーはパンのこと考えてたからだろ!」
仲が良いなあ、あのふたりは。
「他にこの会話を聞いてたっていう者は?」
見回したら、埋田さんだけが手を挙げていた。
「せんせーさー、最後の書き込みしたやつを特定しないといけないんじゃないの?」
和泉さんが今のやり取りに興味がないのか、投げやりに言った。
「それが難しいから、狙われそうな方を特定した方が防げるってことじゃない?」
橋本さんが説明してあげて、わたしもやっと理解が出来た。
「ああ、そうだ。だから今、田口の発言を聞いていた者を探してるんだ」
先生がそう言うと、新藤さんが適当なことを言った。
「えーじゃあジンさんが殺されるかもしれないってこと?」
「嫌っ!」
誰? 思わず振り返ったけれど、誰がそう叫んだのかは分からなかった。
「好き勝手に発言するなー。いまこうやって全員集めているからそんなことはさせない」
「山浦が殺しに来るんでしょー?」
「黙れ!」
和泉さんの質の悪い冗談が、ついに三条先生の怒りに触れた。つぐちゃんはめそめそ泣いているように見える。
「…悪い。ちょっと先生も初めての事態で焦ってる」
先生が珍しく弱音を吐いた。
「三条先生。この、殺害予告をした人物は、郷さんも殺したって事は考えられないんですか?」
今度は堀川さんが尋ねる。
「郷は自殺なんだ」
「何故そう言い切れるんですか?」
先生はなんだか面倒くさそうに堀川さんに言った。
「理由がない」
「理由なら、終業式の前の日に、郷さんのヘアピンがなくなる騒ぎがあったじゃないですか」
埋田さんが、初めて聞く話をした。
「何それ。そんな話、初めて聞いた」
「えっ、ヘアピンって…何? どゆこと?」
堀川さんと岡崎さんが、次々に困惑の声を漏らす。
「終業式の前の日のね、4時間目の体育の後、サトミちゃんがね、ヘアピンがなくなったってパニックになったの」
大和さんが、ぽつりぽつりと語った。
「初めて聞いたんだけど。えっ、みんな知ってたん!?」
「私も知らなかった」
岡崎さんが声を上げると、月山さんも同調した。
「その時教室に残ってた者だけが知っていることだ」
そうか、わたしもすぐに部室へ行ってしまったから知らなかったのかな。
「ちょっとワタシも知らないんだけど!」
田口さんがまた怒ったように言う。
「あのね、サトミちゃんが、あの日休んでたヨシミちゃんには黙っててって、何回も言うから、みんな言えなかったんだよ」
大和さんがゆっくりと言った。
「じゃあ、郷さんそれが理由で自殺したわけ!? 盗まれたってこと?」
岡崎さんが慌てたように言うと、先生が諫めるように言った。
「落ち着けって。みんなも知ってるように、次の日の朝に大和が、郷を発見して俺に知らせてくれた。それで警察を呼んで遺体を調べたら、制服のポケットにヘアピンが入っていたのが分かったんだ。それは葬式の時に、田口にも確認してもらったよな?」
三条先生が田口さんに尋ねると、田口さんはこう呟いた。
「だからいきなり聞いてきたのか…」
「え。っていうことは、盗まれてなかったってことですか?」
もじゃも訳が分からないみたいで質問する。
「だからな、みんなに面談で話を聞いたけれど、いじめがあったわけじゃない。郷の遺書が残っているわけでもないから理由は分からないけれど、ヘアピンを盗まれたのが理由じゃないってことは、確かだ。ご家庭の事情のことまでは踏み込めないけれど、それが理由なんじゃないのか」
「せんせーこのホームルームいつ終わる? もう腹がぺっこぺこなんだけど!」
新藤さんが空腹を訴える。わたしも賛成。
「もうちょっと我慢しろ。まだ5時間目の最初だろ」
「もーむりー」
「みんな協力してくれ。そしたら早く終われる。他に何か、思い当たることはないか?」
福岡さんが尋ねる。
「サトミのこと?」
「いや、書き込みのことだ」
ああ、殺害予告…。
「先生。あの」
「なんだ、津田?」
「さっき、体育館の裏で、猫が死んでて…」
「それ何の関係があんだよ」
和泉さんが苛立って言う。
「あたしも一緒だったけど、猫が殺されてたっぽい」
福岡さんも口を開くと、堀川さんは津田さんに尋ねた。
「どうして分かるの?」
「誰かが猫を拾ってきて、体育館の裏に段ボールで家を作って飼いだしたの。で、みんなで餌をやったりしてたから」
「ちょっとそれ顧問の先生が許可したの?」
え、そこ?
「今そんな話じゃないっしょ委員長。その猫が、変な物食べさせられて死んでたのを、さっきあたしとつだまるで見つけたの」
福岡さんもさすがにおかしいと思ったらしい。
「それはいつの話だ?」
先生が聞く。
「昼休みの前」
「昨日の放課後は猫ちゃん元気にしてたのに…」
津田さんはなんだか泣き出しそうな声で言った。
「だからさあ、猫と殺害予告と何の関係が」
和泉さんがウンザリした様子で言うと、橋本さんが分かりやすく解説した。
「あのね、猫を殺した人間って、だいたい次に人間を狙うの」
「もうやめてよぉぉぉぉ」
つぐちゃんが大声で言って、両耳を塞いでしまった。そうか、ああすれば聞こえなくて良いな。真似する勇気はないけれど。
「待って、体育館の裏?」
そねちゃんの声だ。
「うん、バスケ部の部室の裏」
「…あの、何の確証もない、ただ見かけただけの情報でもいいんですか?」
「それは聞いて判断する」
「朝に、体育館裏から伊村さんが一人で歩いてくるの見たんです」
伊村さん? 弓道部だから別におかしくはないんじゃないかな。
「伊村は弓道部だろう? 部室から出てきたんじゃないのか?」
「だって私、弓道部の部室から出てきて見かけたんです」
うわあ。昨日の放課後は元気だった猫が、お昼前には死んでて、そこの場所から朝に伊村さんが出てきたって、それは…。
「先生さー。この写真、おかしくない?」
今度は岡崎さんが声を上げる。
「何か撮ってあるのか?」
「私、卒業式前日の、体育の授業の前に、適当に写真撮ってたんだけど」
そう言うと岡崎さんは目の前の教卓まで歩いてやって来た。田口さんと埋田さん、それから郷さんも近寄ってきてカメラを覗き込む。
「…なんだこれは」
三条先生が呟いた。
「だから体育の前だって。ナオがヘアピンをポケットに入れる所が写ってるんだけど、これサトミちゃんの机なんだよ。私も今朝、栗原がこの写真をパソコンに表示するまで気がつかなかった」
「ナオがやってんじゃん!」
「盗んでたんだ!」
田口さんと埋田さんが声を上げた。郷さんは驚いたような表情で覗き込んでいる。細田さんが、郷さんのヘアピンを盗んでたって証拠…でも、次の日にポケットに入っていたんじゃなかったっけ?
「…いや、でも、首吊った時のポケットには、入っていたんだぞ? 何かの間違いだろ」
先生もそれを指摘する。
「先生。郷さんの遺体の第一発見者なんですけれど、大和さんだけじゃないでしょう」
橋本さんが、何か知っているみたいな言い方で言った。
「…何を言ってるんだ?」
三条先生に聞き返された橋本さんは、後ろを振り向いて尋ねた。
「ねえ、そうなんでしょ?」
ため息と共に語り出したのは大和さんだった。
「…ハァ。そう。わたし、終業式の朝、下駄箱で出会ったナオと一緒に教室に入ったんで、ふたりでサトミちゃんを見つけたんです」
「おい! なんでそんな大事なこと黙ってたんだ!」
先生が大きな声を出すと、田口さんも大きな声を上げた。
「あんただってヘアピンのこと黙ってただろ!」
「うるせえっ!」
もう、嫌だ。なんでこんなみんな怒ってるの。
「先生。怒鳴るのはやめてください。それで大和さん、だったら終業式の朝、あなたが先生に知らせに行っている間、細田さんはどうしてたの?」
冷静じゃない先生に代わって、堀川さんが大和さんに尋ねた。
「え、考えたことなかったけど…。なんか、わたしの手柄にしたらいいじゃんって言うから、わたしが先生に知らせに行って、先生と戻ってきた後に、初めて見る感じでナオが教室に入ってきた」
それを聞いていた橋本さんが、前へ振り返って言った。
「…つまり、大和さんが先生に知らせに行っている間に、細田さんは前の日に盗んだヘアピンを、郷さんの遺体のポケットに戻すことだって出来たわけですよね?」
「じゃーナオがサトミ殺したってことじゃん!」
和泉さんが驚いたように言う。
「さっきからうるせーんだよおめーはよ! じゃあなんでワタシがサトミを殺したって噂をあんたが流したことになってんだよ!」
田口さんがまた大声を出して、ああ、もう、ほんと、嫌。わたしもつぐちゃんみたいに耳を塞げば良かったなと思う。和泉さんと田口さんの言い合いは、体育の時間で終わったもんだと思っていたから、第2ラウンドが始まったことにうんざりする。
そうだ、お弁当のことを考えよう。ごはんにかけたふりかけが何だったかな。おかずはコロッケがいい。でも温かいままお弁当箱に入れてたら、冷めて妙にしっとりしてしまうから美味しくない。さくさくした歯ごたえのままお弁当に入れるってのはやっぱり難しいんだろうなあ。
お弁当のことを考えていたら、田口さんと和泉さんのバトルに何故か荘司さんが参戦したみたいで、それが終わったらしい。まともに聞いていても疲れるだけだし、わたしは無関係だからよく分からないし。
「静かに。仮にそうだとしよう。俺がいま問題にしているのは、裏サイトで殺害予告がされたことだ」
ああ、またそこへ戻るんだ。ちらっとつぐちゃんを見ると、まだ両耳を塞いでいる。いいなあ、あれ。
「先生、この、ヨシミについて書き込んだのって、ナオなんじゃない?」
津田さんが言う。ナオって、誰だっけ。わたしの知らない呼び名だから、わたしと別に親しくない人のことなんだろうなとは思う。わたしは友だちが少ない。それでも別に困ってはいないから気にしたこともない。郷さんとは、それほど親しいわけではなかった。けれど年明けから、他に誰もいない時だけ、話をするようになったんだ。
「狙われるのは、細田ってことか!」
先生が声を上げた。ああ、細田さんのことか。やっぱり親しくはない人だったなと思った。
「先生! 伊村さんが細田さんを保健室に連れて行って、どれくらい経ちますか!」
堀川さんが焦ったように言う。橋本さんと神保さん、福岡さん、他にも何人か席を立って教室を出て行った。
「堀川! みんなを教室から出すな!」
そう言いつけて先生も教室を出て行く。堀川さんはいそいそと教卓に立った。
「委員長! もう昼にしよう!」
新藤さんが訴える。
「だめです! みんなを教室から出さないように言われたので」
真面目だなと思う。
「じゃあ何するの」
中島さんもイライラしたように言った。
「先生が戻るのを待ちます」
「もうむり。今からパン買いに行く!」
新藤さんは立ち上がった。
「だめ!」
「私以外にこの空腹を救える者はありえない!」
すごい、かっこいいな。思わず振り向いてみると、新藤さんが英雄のように見えた。
「委員長、これもう止まらないよ。諦めて」
そう言って中島さんも席を立った。
「お願いだから!」
「パンを求める者は私について来いっ!」
新藤さんが呼びかけると、もじゃと岡崎さんが席を立った。
「いえい!」
「ごめん委員長、私ももうおなかが限界」
そねちゃんも黙って立ち上がるのが見える。5人は次々に教室を出て行った。
「どうしてみんな私の言うこと聞いてくれないのよぉ…」
堀川さんが突っ伏して言った。
「いいんちょう、大丈夫。まだ大勢残ってるよ」
つぐちゃんが優しい言葉をかける。
「パン買ったら戻ってくるでしょ」
田口さんもそれなりの言葉をかけた。
「部長ー、みんなでお弁当食べよー」
タイラーが暢気に言う。
「さんせー!」
津田さんも嬉しそうに言う。わたしも賛成だな。
「それは」
「部長、いま最善の指示は何?」
橘さんがそう言って、やっと堀川さんは折れた。
「それじゃあ…みんな…お弁当にしましょうか」
やれやれ。やっとお昼が食べられる。わたしはカバンからお弁当を取り出して机の上に置いた。お弁当の蓋を外してがっかり、ごはんにかかっていたふりかけは、たらこだった。さけが良かったなと思いながらご飯を口へ入れる。それでもほっとする。
「結局さ、ナオの自業自得よね」
田口さんが大きな声で喋っている。わたしの右隣はもじゃの席だけど、さっきパンを買いに行ってしまったから空いている。そこへ津田さんがやって来て、その右隣の田口さんと話しながらお昼を食べ始めた。細田さんはたしかに色々と暗躍していたかもしれないけれど、あんまり人の悪口って聞きたくないなって思いながら、わたしはお弁当のおかずを口へ入れた。
「なによりワタシを犯人に仕立てようとしたのが許せない」
「うん、それは酷いよね」
津田さんも気のない返事を返している。目の前に誰かが立ったので顔を上げると、郷さんがこちらを見つめている。どうしたんだろう。
「ナオなんか」
田口さんの強めの言葉が耳に入ったとき、目の前に立っていた郷さんは「ごめんね」と言って、わたしに向かって体当たりをしてきた。
「えっ、ちょっと待っ」
そこまで言ったところで、郷さんはわたしの体の中へ入ってしまった。抗いがたい、眠気とも違うふわふわした感覚に包まれて、わたしは体の自由を失った。
オレンジ色のもやの中を漂っている。そういう視界はあるものの、それ以外には何も感じられない。映画館で配られた3Dメガネをかけて見る映画のような、臨場感はあるんだけど自分は何も作用できない感じ。もやがさーっと晴れて現れたのは、橘中央駅の前。でも、なんだかわたしの知っているのとは違う雰囲気だ。
「きみ、モデルをしてみない?」
カメラを抱えたおじさんが声をかけてくる。すぐに名刺を出して、怪しい者じゃないとアピールする。月刊ハナス編集部の人らしい。ぱっとフラッシュが炊かれたと思うと、カメラがこちらへ向かい、シャッターを何度も切っている。もう橘中央駅ではなく、どこかのお店の中にいる。
「サトちゃん目線こっちー」
声が掛かって視界がそちらへ向く。これは、郷さんの記憶? またフラッシュが明滅して、場面は学校の教室だ。お弁当が机に乗っている所を見ると、これからお昼ご飯らしい。右手が視界に入り込む。綺麗な手。間違いなく郷さんの手だ。お弁当の蓋を外すと、えっ、何これ…。ごはんやおかずに砂がまぶしてある。慌てて蓋を被せて上を向いた視界には、遠くでこちらを見てクスクス笑う何人もの姿。いじめだ。それもかなり酷いやつ。まばたきとともにまた場面が切り替わる。トイレの個室の中らしい。便器には教科書やらノートやらが無造作に放り込まれている。それをひとつずつ掬い上げている。酷い。何でこんな酷いことを。また視界が暗転する。校内のどこかの個室で、見たことのない先生と向かい合って座っている。
「雑誌のモデルをしている生徒がいるが学校の許可を得ているのか、ってPTAの方から指摘があったんですが、郷さん、あなたですね」
その先生の手には、郷さんが載った雑誌が握られている。視界がじわっと滲んでいる。泣いているらしい。にじみが深くなって真っ白になったと思ったら、視聴覚室に移動している。
「もう教室で話しかけてこないで。私までいじめられちゃうから」
こちらへそう言ってきた生徒の顔は、なんだか見覚えがある。これは、演劇部だろうか。こちらへ言ってきた生徒の胸の名札には「宮本」と書いてある。その宮本さんは、後輩を引き連れて出て行ってしまった。つらい。こんなの、つらすぎるよ。
視界が切り替わると、教室で机の上から見下ろすような視点。目の前には輪っかになったロープ。ああ、もう、やめて、お願いだから。オレンジ色のもやが視界を埋め尽くしていく。これが、郷さんの自殺の真相…。
「井上さん、どうもありがとう!」
郷さんの声がする。
「なにが?」
わたしは尋ねた。けれどその答えは返ってこない。
「郷さん、どうしたの?」
「私ね、幸せだった」
「えっ」
あんなえげつないいじめを受けて亡くなったのに、なぜ幸せだったと言えるのだろう。郷さん、あなたは13年もの間、何のためにあの教室へいたの?
「バイバイ!」
その疑問をぶつける間もなく、郷さんは旅立ってしまった。
「待って」
オレンジ色のもやがどんどん消えていって、真っ暗になった。わたしは誰かにもたれ掛かっている。急に体の重みを感じる。目が開く。誰かの肩だ。そして、誰かに抱きしめられている。頭をゆっくり持ち上げると、視界に入った堀川さんや埋田さんが泣いている。
「あれ? みんなどうしたの?」
教室のドアがガラッと開いて、和泉さんと岡崎さんが入ってきて、こちらを見つめてぎょっとした表情をしている。和泉さんがためらいがちに言った。
「ヨシミもつだまるも、そんなに井上と仲良かったっけ?」
郷さんは、みんなの中から消えてしまった。だけど、わたしは知っている。教室の一番後ろの真ん中に、彼女の席があったことを。最後に「幸せだった」と彼女は言った。何が、いつが、それを尋ねる術はもうない。
急に受験勉強を始めた田口さんは、よくヘアピンを付けるようになった。あまり似合ってないって和泉さんたちが陰口を叩いていたけど、それが郷さんの付けていたヘアピンだったってことを、わたしは知っている。
「よかったね」
郷さんの席があったあたりの空間に声をかけてみたら、いつの間にか側にいた堀川さんが尋ねてきた。
「何が?」
「さあ、なんだろう?」
わたしが答えると、堀川さんはまた呆れて言った。
「まことは本当にボーッとしてるんだから。そんなんじゃ、肝心なときに肝心なことが見えないわよ」
心配ないよ。わたしはずっと、見えないはずのものを見てきたんだから。