映画『クレヨンしんちゃん 新婚旅行ハリケーン』野原みさえを考える
本作は2019年のクレヨンしんちゃんの27作目の映画。タイトルが『インディ・ジョーンズ』のパロディになっている。
私はテレビアニメのクレヨンしんちゃんはまあ好きで最近よく見ているのだけど、テレビのほうが好きなので映画はほとんど見てない。
あらすじは、
みさえとひろしが遅い新婚旅行をしている時に、野原ひろしが何者かに誘拐されてしまう…というもの。
ここで珍しいなと思うのはひろしが不在で野原みさえがメインになっているということ。
『オトナ帝国の逆襲』でも、有名なのは野原ひろしの回想シーンだし、最近クレヨンしんちゃんに限らず色々な作品をジェンダー、フェミニズム的に見ることが多いので、「あれ、みさえは?しんちゃんの親ってなんで野原ひろしだけに焦点当ててるんだ?」って思った。
それに限らず、野原ひろしは世間から「いいお父さん」「妻を支える夫の鏡」みたいなイメージを持たれており、YouTube公式で公開されているみさえメインの回でも、「妻を支えるひろしっていい人」みたいな形で集約されてしまい、モヤモヤしていた。
野原ひろしはどう描かれてきたか?
クレヨンしんちゃんは原作どおりではなく、テレビアニメで脚本を担当する人もそれぞれ違うと思うので、キャラクターのブレは多少あると考える。
『母ちゃんが家出したゾ』みたいなタイトルの回では、ひろしとみさえがケンカしてみさえが家出するのだが、ひろしはチャーハン、焼き飯しか作れずお皿も洗わず台所がグチャグチャ、
しんちゃんはみさえの家出先のむさえのアパートまで行って朝ごはんを食べに行く、という内容だった。
タイトル忘れたけど、みさえが知り合いの結婚式で何日か帰ってこられない回では、ひろしが朝しんちゃんを送り、掃除と洗濯をし、ひまわりの世話をするのだが、なかなかうまくできない。帰ってきたみさえに「あんたすごいよ…」的なことを言って終わる回がある。つまり、あんまり家事とか積極的にしてないのでは…
その他にも、休日にみさえからひまわりの世話や、家事や買い物を頼まれるとけっこうな頻度で文句を言ったりしてるし…最近の放送ではよくわからないけど、少し前だと「おい、メシまだか?」ってセリフも多い。
みさえもひろしも、良いところも悪いところもあって人間らしくて良いけど、上記諸々ふくめてみさえが透明化され、ひろしだけ「良い父親」扱いなのは疑問が残る。
映画『クレヨンしんちゃん 新婚旅行ハリケーン』でのみさえ
「ひろしの妻」「しんのすけの母」というポジション、肩書きで進められていて、みさえ自身に焦点を当ててほしかったとは多少思うが、それでも野原みさえというキャラクターを、シスターフッドも交えて真剣に描いていて、そこが良かった。
今度は誰かの〇〇という肩書きではなく母や妻という役割から離れたみさえも見れたら良いなとは思っている。
時代と共に変わっていくのは必然なこと。クレヨンしんちゃんのギャグについて
クレヨンしんちゃんといえば、しんちゃんが大人をおちょくるギャグだが、昔は普通に見ていたみさえの体型いじりや容姿いじり、グータラ主婦とか、わたしはそのようなギャグはもう笑えないし、面白くない。
ひろしとしんちゃんの「新しい妻は若くて優しくて〜」みたいなギャグもね。
よく考えればそういったいじりがなくても面白いクレヨンしんちゃんは作れると思う。
最近のクレヨンしんちゃんでは、主婦がやっている「見えない家事」についても取り上げてくれているし、あんまり「新しいクレヨンしんちゃん」と身構えないで、こういう感じなんだ〜と楽しんで見るのもいいと思う
みさえの話と離れるが、いちばん最悪なのは、「今の時代になって、表現の自由がなくなった!」と言ってマイノリティの人たちを攻撃することだ。
さいごに
クレヨンしんちゃん、または他の作品をフェミニズム的に読み解くのも面白いし、やっぱり大事なことだと思う。頭ごなしに否定しているのではなく、色々な問題点や分析をすることで見えてくるものもあると思う。
私あんまりアニメとか子供向け作品に詳しくないけど、大人になって見返すと、テーマが設定されているとか、ここが新しいとか発見がある。