ピンク コンプレックス
「大好きなピンクが似合わへん」
いつも胸を痛めていた小さな私。
海辺の町で生まれ育ち、太陽と潮風は私の相棒。
夏は毎日、海水浴。冬は野山を駆け回る健康優良児。
その為、夏はもちろんの事、冬も真っ黒。
それを実証するカラー写真がアルバムの中にあります。
写真の下には、昭和41年幼稚園入園式と書き込みがあり、
一般にもカラー写真が普及し始めた頃です。
真っ黒な丸顔の上にベレー帽を被り、ニコニコ嬉しそうな私。
私の隣には、それも又、際立って色白の男の子が写っています。
そんな訳で、私の色黒さが恐ろしく目立つのです。
私の色黒を母が嘆く時がありました。
2人で私の洋服を買いに行くと、母が情けなそうにつぶやきます。
「あんたは、色が黒いさかい、ほんまにピンクが似合わへんなぁ」
私自身は、さほど色黒に強いコンプレックスは無かったのですが、女の子らしいピンクが似合わない事が悲しくて悔しくて。
ピンクが似合う可憐な女の子に、どれだけ憧れた事でしょう。
「ピンクが似合う私にして下さい」
心の中で神様に願い続けた幼い日々。
現代、女の子色の代表カラーと言えば、真っ先に「ピンク」が思い浮かびます。
しかし、かつて欧米では女の子を表す色はブルーがお決まりでした。
何故ならブルーは聖母マリアを象徴し、女性の神聖さを表す色だったからです。
それを表すかのように物語の中で、主人公の女の子達は皆ブルーを着ています。
オズの魔法使い、美女と野獣、不思議の国のアリスなども。
女の子色が、ブルーからピンクに変わる転機が訪れたのは1953年の事です。
きっかけとなった出来事がありました。
アメリカ大統領にアイゼンハワーが就任し、就任式典の舞踏会に、ファーストレディとなったマミー アイゼンハワーが、ラインストーン煌めく、飛び切り素敵なピンクのドレスを着て登場したのです。
マミーは、その大切な舞踏会にだけピンクを選んだ訳ではありません。
彼女は元々、ピンクが大好きだったのです。
それからも、様々な場面でピンクを好んで身につけ、マミーのピンクラブはメディアに載ってアメリカ中に広まりました。
ネットで写真を見ても、そのキュートさセンスの良さは、
とても魅力的。
実物を見たいと思ってしまう
位に。
そして又、マミーが着こなす数々のピンクは、女が手に出来る最高の幸せを掴んだムードを醸し出しています。
それに便乗したメディアやデパートが、ピンクを女の子色として売り出したのも、自然の流れに思える程です。
時は大戦が終わって8年。
女性達が、自由にファッションを謳歌出来るようになった時代と重なり、ピンクは女の子を象徴する色となり、世界に広まりその価値観が今へと続いています。
さて、
「神様は私の願いを聞いて下さったでしょうか?」
答えは、なんと「はい」
なんですよ。
短大生になった頃から、どう言う訳か色白気味になり、
余り日焼けをしなくなったせいでもあるでしょうが、全身が白くなって自分でもびっくりでした。
色白の遺伝子を持っているとホルモンが関係し、年頃になると色が抜けるとか。
故に娘時代は、ピンクにはもうコンプレックスを抱いていませんでしたが、それなのに好んで着た記憶がありません。
ラブリーなピンクは眼中に無く、少しでも大人に見えるような、シックな色の洋服が好みでした。
それを覆したのは50代。
写真で振り返ると、私は驚く程、沢山のピンクを着ているのです。
サーモンピンク。
スモーキーピンク。
ショッキングピンク。
今振り返ると、ピンクを身につけ、失いつつある若さを追いかけていたように思います。
ピンクが表わす私の心模様。
少女時代は女の子らしさへの憧れ。
娘時代はピンクを拒み、早く大人になりたかった私。
ピンクを着て若さを惜しんだ50代。
迎えた60代のピンク。
私はピンクに何を託すのでしょう。
朽ちゆく薔薇に一抹の華があるように、
そんな夢を委ねましょうか。
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