22歳の大失恋と、手袋を探す
大失恋をした22歳の冬。
故郷の町から仕事先までは、
車で1時間ほどかかり、
県境の峠を越えて通う毎日だった。
大雪が降った2月のある日、
急遽、バスと電車を乗り継いで出勤せざるを得なくなり、慣れぬ雪に心は急くばかり。
やっと駅に着いて、各駅停車に乗り込むと、意外にも乗車客が少なく、長いシートに
ゆったりと座れた事でひと息着き、降りる駅までの30分は、昨夜の続きが気掛かりだった文庫本を読もうと、
バックの中から取り出した。
向田邦子作、「手袋を探す」
と言うエッセイである。
向田さんが亡くなってから
2年が過ぎた頃だった。
作家になる前の向田さんは
O L勤めをしていたが、どんな寒い日でも手袋をはめなかったそうである。
今にも風邪をひきそうな、
彼女をみかねた男性の上司が、こう声を掛けてくれたのだ。
「それは手袋だけの問題ではなく、君の生き方にも当てはまるだろう。
小さな幸せは、直ぐにでも、手に入れられそうなのに、
自ずから、手に入れようと
してしない。」と。
上司の真摯な助言は、向田さんの心に突き刺さり、小さな幸せに満足出来ない自分であるのなら、徹底的に我が道を
貫こうと、覚悟を決めたのだ。
例えを綴ってある。
(その頃はまだ、終戦後の復興期だった)
どうしても欲しい外国製の
水着が給料の三分のニだとしても、他の物を諦め、水着を手に入れる生き方を選びたいと。
電車はのろのろ峠を越えて行く。雪は降りやみ、窓の外の
雪景色が眩く目に沁みる。
それを見ているうちに、抑えていた感情が堰を切るように溢れだし、涙に変わってゆく。
人に気づかれたくないと、
思えば思うほど、反比例し、流れる涙は止まってくれない。
私が青年期を過ごした1975年辺りから、80年代初頭までは、フォークソング、「22歳の別れ」の大ヒットが象徴するように、23、4歳頃が結婚適齢期だったように思う。
故に、22歳は岐路であり、
恋人がいたとしても、結婚への道が開けるか否で、勝ち組となるか、負け組になってしまうかの暗黙のルールが、
女の子達を焦らせた。
私を狂わせたのは、その焦りだった。
友人達が次々と嫁ぐ中での
失恋は追い討ちをかけ、
私をお見合いへと駆り立てた。
失恋直後に、お見合いで
好みの人に巡り合えるなど、
夢物語だとはわかっていても、私はその夢に縋りついてしまったのだ。
幸いにもお見合い相手は、
私を気に入ってくれ、求婚してくれたのだが、私の願望に私の心が追いつかない。
お詫びし、破談となったが、
失恋の痛みに加え、お相手を傷つけてしまった己の愚かさが、ボロボロの心に留めを刺し、自分が巻いた種とは言えど、行き場の無い思いを抱えて、私は彷徨い続けていた。
心に猛吹雪が吹く中で、読んだ「手袋を探す」は、私に鮮烈な印象を与え、希望を無くした心に一筋の光となって射し込んだ。
向田さんのように、正直に
生きてみたい。
手に入る幸せに、満足出来ない私なら、私も私を貫こうと、自分を見つめ直すきっかけをくれた。
それからも、以前と変わらずO Lを続ける平凡な日常だったが、恋愛や結婚にだけにしか、夢を抱けなかった私が、
好きな事は何?と、
自分と向き合い続ける日々が
始まった。
新たな私になる為に。
新しい私のスタートは、
当時、流行り始めていたフラワーアレンジメントが皮切り となった。花を生ける事に魅力され、生まれて初めて夢中になれるものが見つかり、
熱心に稽古に励んだものだ。
いやいやだった仕事も、これで給料を貰っているのだからと本腰を入れると、周囲の評価が上がり、又、英会話も習い、拙い言葉で外国にも旅をし、新しい経験を重ね、
私は少しづつ私になっていった。
当時は足りないところばかり数えて、不満だらけだったが、今、振り返ってみると、
充実した青春の日々を過ごしていた事に、驚く程である。
失恋後に学んだ知識や経験は、私の礎となり今の私へと続いている。
あの大雪の日から40年。
向田さんのように真正直に、己を貫く生き方に憧れはしたが、凡人の私は自分を騙し騙し生きて来た。
けれども、今も心の片隅に、手袋を探し続ける私がいる。
きっと命尽きるまで。
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