「人生が変わったこの曲、この演奏」、3回目は(フローレスが歌う)「セヴィリアの理髪師」です。
「人生が変わったこの曲、この演奏」。今日はロッシーニの「セヴィリアの理髪師」について書きたいと思いますが、今回のテーマは、作品より「歌手」です。だからそういう意味では、「演奏」ですね。
ファン・ディエゴ・フローレス。不世出のベルカント・テノールです。私のなかで「セヴィリアの理髪師」という作品は、正直ものすごく好きかと聞かれるとそうでもないのですが、フローレスが本作のアルマヴィーヴァ伯爵の役を歌った公演に接して、「セヴィリアの理髪師」という作品の印象ががらりと変わってしまったからです。まあ、後から思えば変わって当然、ではあるのですが。今日はそのことを書いていきたいと思います。
ジョアキーノ・ロッシーニといえば、「ベルカント」を極めた作曲家として知られます。バロック時代から続いてきた、装飾や即興も含め「声」の美を極める歌唱法を開拓し尽くした作曲家。
近年では、生地ペーザロでのロッシーニ・フェスティバルを震源地とした「ロッシーニ・ルネッサンス」の結果、オペラ・セリアの評価が高くなり、劇的表現の面でも先進的だったことも言われるようになりましたが、やはり、ドラマとは別の、自律した「歌」の美が、ロッシーニの醍醐味のように思います。
「ロッシーニの神様」と呼ばれた故アルベルト・ゼッダ氏が、日本での講演会で語った言葉に、「ロッシーニは抽象的、ヴェルディはリアリスティック、モーツアルトには両方の面がある」という内容の言葉がありましたが、我が意を得たり、でした。
最近は「ロッシーニ・ルネッサンス」の影響で様々な作品がオペラハウスのレパートリー入りしているロッシーニですが、「セヴィリアの理髪師」はやはり定番中の定番。物語は、昨日ご紹介した「フィガロの結婚」の前日譚ですが、物語は繋がっていても音楽は全然違う。モーツアルトは、ヴェルディのような劇的な感情移入とは違うものの、音楽で人物の心のひだを細やかに描きますが、ロッシーニは(それがないとは言いませんが)、基本的には「音楽」の面白さです。夫の心が離れたことを嘆く「フィガロ」の伯爵夫人には心打たれますが、恋人と結ばれるために手管と機智を駆使する「セヴィリア」のロジーナは、チャーミングな女性ながら、共感するというのとはちょっと違う。それより、彼女の歌に聴き惚れる。そこが、ロッシーニであり、ベルカントの美学、愉しみだと感じます。
おとといご紹介した「イル・トロヴァトーレ」もそうですが、ベルカントオペラの場合、歌手(本当は指揮者も)が揃わないと、その醍醐味はなかなか味わえません。
で、この「セヴィリアの理髪師」の醍醐味、というか、この場合「真価」という方が適切なのですが、それを思い知らせてくれた公演が、ファン・ディエゴ・フローレスが出演していた、ボローニャ歌劇場の来日公演だったのです。(2002年)。
共演者も素晴らしかった。タイトルロールの「セヴィリアの理髪師」ことフィガロに、この役をデビュー当時から十八番にしているレオ・ヌッチ、ロジーナに、当時全盛期だったヴェッセリーナ・カサロヴァ。それぞれ声も存在感もブリリアントでしたが、何と言っても輝いていたのが、アルマヴィーヴァ伯爵役のフローレスでした。当時はまだ歌われることが珍しかった、フィナーレ近くの超絶技巧を駆使した大アリア「もう、やめるのだ」を、輝かしくかつ繊細に、そして何より完璧に歌い上げ、会場を呆然とさせてしまったのですから。会場があっけにとられた、キラキラした10数分。
今でこそ、オペラファンの間では随分知られるようになりましたが、「セヴィリアの理髪師」は初演の時、「アルマヴィーヴァ」と名付けられていました。ロッシーニは初演でアルマヴィーヴァの役を歌ったスペインの大テノール、マヌエル・ガルシアの力量を見込んで、フィナーレ近くに10数分の大アリアを書いたのです。けれどガルシアが出なくなったり、他にも様々な理由で、このアリアは間もなく歌われなくなり(「ラ・チェネレントラ」のアリア・フィナーレに一部転用されたりもしました)、タイトルも「セヴィリアの理髪師」になって、ずっと上演されてきたわけです。
「ロッシーニ・ルネッサンス」はそれを変えました。優れた歌手が輩出され、このアリアを歌える歌手もどんどん増えて、今では新国立劇場で「セヴィリアの理髪師」が上演されるとなると、熱心なファンが「アルマヴィーヴァの大アリアは聴けるのですか」と劇場に問い合わせるまでになっています(2月の同劇場の公演でも、同役を歌ったルネ・バルベラが大アリアを披露していました)。新国立劇場では1990年代にも、アントニーノ・シラクーザがアルマヴィーヴァを歌って大アリアを披露し、しかも確かアンコールまでやってのけて客席を興奮させまるという大事件がありましたが(シラクーザは今でもこの役を素晴らしく歌い、それもすごいことだと思います)、フローレスは輝かしさ、スター性、という点で、やはりひときわ際立つアルマヴィーヴァでした(ヴィジュアルもいいですしね)。誤解を恐れずにいえば、「輝かしい」という形容が似合うという点では、かつての大スターテノール、マリオ・デル=モナコに通じるものがあると思うのです。声質とレパートリーは「まったく」違いますが。
フローレスは、やはりオペラ歌手の歴史を変えたテノールだと思います。半世紀くらい前までのオペラ歌手は、ヴェルディやプッチーニ、あるいはヘルデンテノールだとワーグナー、が歌えないとやっていけませんでした。輝かしい一方で軽やかで繊細で、そして何よりベルカントのテクニックが完璧なフローレスは、ロッシーニをレパートリーの核として、初めて「スター」になったテノールではないでしょうか(彼が半世紀前に生まれていたら、スターにならなかったかも)。「カルメン」も「ラ・ボエーム」も「椿姫」もレパートリーにない(なかった。「椿姫」は昨年METで歌い、「ボエーム」ももうレパートリーにするようです)のに、アルマヴィーヴァや「チェネレントラ」の王子や「オリー伯爵」のタイトルロールでスターになるなんて、多分二十世紀の半ばだったら無理でしょう。だいたい「オリー伯爵」をはじめ、彼のレパートリーのかなりの部分が半世紀前は上演されていませんでしたから。
フローレスの「セヴィリア」ならぬ「アルマヴィーヴァ」、映像もいくつか出ています。これまで見た映像の中で満足度が高かったのは、METライブビューイングでディドナートと共演したもので、残念ながらこれ自体はDVDにはなっていないのですが、ロイヤルオペラで2人が共演した映像があるので、ご紹介しておきます。
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