魂に手のひらをべったりつけられる名作〜METライブビューイング「デッドマン・ウォーキング」

 これは、本当にすごい作品です。
 鑑賞中、一瞬も目が離せませんでした。

 METライブビューイング、シーズンオプニング(現地でも)を飾ったオペラ「デッドマン・ウォーキング」。アメリカの作曲家ジェイク・ヘギーの作品で、サンフランシスコオペラの委嘱で作曲、2000年に初演。以来、世界中で70プロダクション!上演されているという。現代オペラで最も上演回数が多い、というのも頷けます。

 「デッドマン・ウォーキング」は、もともと、死刑囚と交流して、無罪を主張していた彼が処刑前に告白し、心の重荷を解く、という実話がもと。体験したヘレン修道女が回顧録を書き、ベストセラーになって、1995年にはスーザン・サランドンとショーン・ペンの主演で映画になりました。これは大ヒットし、アカデミー賞も受賞しています。その、オペラ化なのです。
 映画は見ましたし、感動的な作品でしたが、今回オペラ版を見て、映画とは全然違う、まさにオペラでしかなしえない作品になっていると感じました。

 まず台本(テレンス・マクナリー)が素晴らしい。小室敬幸さんの「見どころレポート」でも紹介されていますが、マクナリーはオペラ化にあたり、映画ではなく原作の回顧録をベースにしたといいます。この作品は、殺人罪を否定していた死刑囚ジョゼフが、ヘレンとの交流によって、死の間際になって罪を告白し、被害者の親に赦しを乞い、重荷をおろすという「癒し」が重要なテーマなのですが、それがよりはっきりしていた。彼が罪を否定し続けたのは、死刑に対する恐怖からなのだ、ということも、映画よりずっとよくわかりました。あと、宗教性も映画よりはっきりしています。ヘレンはジョゼフに何度も、「あなたも神の赤児」「神が見守っている」「神は赦してくれる」と伝え続けるのです。
 マクナリーは演劇界の重鎮で、オペラはこれが初めてだそうですが、うーん、やっぱり天才ですね。オペラに何が必要かわかっているような気がします。前奏曲から始まり、伝統的なオペラでは必ずある開幕の合唱もある(開幕の合唱が讃美歌なのが、修道女が主役の本作ならでは)。アリアも二重唱もたくさんあるし、映画でも重要なページになっている、ジョゼフに殺された二人の若者の両親とヘレンとの衝突は、見事な五重唱で描かれます。とてもオペラティックなのです。台本は本当に大事。
 そして、セリフがうまい。一つ一つの言葉に無駄がなく、内容が詰まっている。後半が「ラブストーリー」になるという展開も大変感動的でした。

 幕間のインタビューでは、作曲家のヘギーも出てきましたが、当時まだ無名の若手作曲家で、歌ものなどを書いていた彼に、サンフランシスコオペラが新作を委嘱した、というのも本人にとっても驚きだったようですし、台本作家がマクナリーだ、と聞かされたのも本人にとっては奇跡のような出来事。そしてマクナリーからいくつか案がある、と言われて、「デッドマン・ウォーキング」を提示された時は、全身に鳥肌が立ったそうです。すごい。運命的な傑作が生まれる瞬間、ですね。

 へギーの音楽も聴きやすい。映画音楽、ジャズなどの要素もありますが、美しいメロディも顔を出します。「許し」「真実」といった重要な言葉には美しいライトモティフがついていて、こちらの心をハッとさせて、寄り添ってくれるのです。

 イヴォ・ヴァン・ホーヴェの演出もとてもダイナミック。前奏曲の間は映像で犯行を見せ、劇中も舞台上にカメラを置いて、登場人物の表情を上方のスクリーンに投影します。それを通して、彼らの今の気持ちがより伝わってくるのです。
 舞台はシンプルですが、場面に合わせていろいろな大道具が出入りし、スピード感いっぱい。照明やスモークも効果的です。刑務所の雰囲気を表す受刑者たちの合唱では、彼らが演技しながら舞台を歩き回り、ヘレンの「なんと恐ろしいところ」というセリフが肌感覚として実感されました。

 けれど、何よりすごいな、と思ったのは、この作品を実現させたいろいろな人物の「人間力」、その結果生まれた作品の内容の密度の濃さ、スケールの大きさです。これは、アメリカだから生まれたドラマでしょう。日本では無理です。
 死刑囚の救済という重いテーマ。まずこういうことを、映画とかオペラとか、開かれた(あえていいますが)大衆向けの作品として出し、ヒットするアメリカ社会。社会性もあるけれど、心のドラマでもある。キリスト教という背景もある(これも日本にはない背景)。周囲にとめられながらも冒険を敢行したヘレンの献身と、それに応えたジョゼフ。ヘレン(これは原作者そのもののことですが)の「愛」の大きさ。ジョゼフの母もジョゼフを愛していたけれど、母の愛ではジョゼフの心を開くことができなかった。ヘレンの「愛」は異なる次元のものだった。「愛」とは何か。そして人は人を殺すことができるのか(今世界各地で起きている戦争を思うと、なんと野蛮なことかと改めて思わされました)。いろいろなテーマが積み重なり、こちらに押し寄せ、考えさせられますが、決して辛いものではありません。
 人に魂があるなら、この体験は、魂に手のひらを押し当てられるようなものだ、そう思いました。
 そして、今回のMET上演のキャストたちの人間力。特に修道女ヘレンを歌ったジョイス・ディドナートの人間力にはつくづく感嘆してしまいました。彼女は原作者のヘレン修道女と親しいそうですが、なんとなくわかる気がします。ディドナートは、世界を変えることができる人かもしれない。だって、この作品を実際に刑務所に持っていって上演したのです。もちろん、他のキャスト〜ジョゼフの母役のスーザン・グラハムや、仲間の修道女役のラトニア・ムーア、ジョゼフを演じたライアン・マキニーらも。そして原作者のヘレン修道女もその場に立ち会っていたのです。上演には受刑者も合唱団として加わり、そして観客として150名からの受刑者が来たという。
 彼ら、特にディドナートの姿からは、芸術家は社会に責任を持つもの、というありようが伝わってきました。そういう風土も、日本はアメリカに到底敵わないように思います。
 個々の歌手の歌だ演技だについてくどくど書くことは、あまり必要ないような気がします。とにかくまず彼らは俳優であり、ステージ上で過酷にして感動的なドラマを生ききっていました。けれど、歌も素晴らしかった。ディドナートの表情豊かで人間的な温もりのある声、グラハムの、大ベテランにも関わらず透明感を失っていない若々しい声をはじめ、皆、適材適所だったと思います。

 MET総裁ピーター・ゲルブ氏は、今の時代の観客は、心に刺さる共感できるストーリーを求めているのだ、といっていましたが、本作はまさにそれだ、と思いました。ドラマが重要なのです。
 今のオペラは、映画ととても近いと思いますが、それもまた20世紀、21世紀的です。18,19世紀の伝統的なオペラと全く違うものになるのは、当然です。

 オペラは、かくも間口が広いのです。
 オペラ万歳!

「デッドマン・ウォーキング」は14日の木曜日までですが、東劇ではもう1週間、21日まで上映中です。
https://www.shochiku.co.jp/met/program/5425/

小室敬幸さんの「見どころレポート」を貼っておきます。鑑賞の参考になります。
https://www.shochiku.co.jp/met/news/5683/

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