東急目黒線西高島平行き(中編)

夜の9時半にメールを送信し、いよいよ引き戻れないところまで来てしまった、と半ば抜け殻の状態になっている時に、M先生からすぐに返信が来た。

K君:
Mです.

最近見かけていなかったので心配していたところですが,
色々お悩みだったようですね.
(中略)
もともとK君が取り扱っていた分野はテーマが見つけにくい
(やり尽くされている部分が多い)というハンデもありましたので,
とりあえずのテーマをいくつか与えても良かったなと反省しております.

もし,まだ悩んでいる途中であるならば,一度相談に来てみてください.

M先生の言葉に対して、僕は藁にも縋るような気持ちになって、すぐに返信した。「お言葉に甘えて一度相談に伺ってもよろしいでしょうか.」

カーテンの閉まった薄暗い部屋で相談に乗ってくれたM先生は、迷える子羊を諭すように僕に向かって優しく話してくれた。君の能力なら修士課程を修了する事はできると思うから一緒に頑張ろう、と。
手を差し伸べてもらって安心した反面、何カ月も悩んで導き出した自分の決意はこんなにも簡単に変わってしまうものなのだなと、意志の弱さを痛感した。この意志の弱さが、自分の人生を滅茶苦茶にしかけた元凶なのではないかと感じ、やるせない気持ちになった。

・・・

時間は少しさかのぼるが、大学4年生の秋頃から、僕には彼女がいた。高校の同級生に紹介してもらった青山学院大学に通っているメイちゃん(仮名)だ。実家は茗荷谷駅と新大塚駅の間あたりにある一軒家で、4人家族の長女だった。中高は都内の千代田区にある女子高に通い、現役で青学に合格していた。誰に写真を見せても可愛いといわれるような、きれいな顔立ちの女の子だった。趣味は小学生の頃から続けているクラリネットで、出会った当時も習い事として続けていた。いつ見ても背筋がすっと伸びていて、彼女のどこを切り取っても”育ちが良い子”そのものだった。

メイちゃんとの初めてのデートは、当時オープンから3年くらいが経ち、少し落ち着きを見せはじめていたソラマチの散策デートだった。お互いアルバイトをしており自由に使えるお金はそこそこ蓄えてはいたが、変に背伸びをすることもなく、池袋のサンシャイン通りにでもありそうな何の変哲もないビュッフェ形式のレストランに入った。
大きなプレートを二人でそれぞれ持ち、思い思いのものを取って、事前に案内されたテーブルに戻った。僕は飲み物を取ってくるのを忘れたことに気づき、メイちゃんに一声かけてドリンクバーに向かった。飲み物を持って帰ってくると、大きなプレートの右脇に、紙ナプキンとナイフとフォークが置かれていた。その綺麗に並べられた食器を見た瞬間、僕は恋に落ちた。
2回目のデートで、僕から思いを伝えて、付き合うことになった。

メイちゃんは大学を学部で卒業し、某銀行の一般職として働きだした。僕は前述のとおり紆余曲折ありながらも、常に精神状態がギリギリのところでモラトリアムの延長戦を戦っていた。メイちゃんは社会人として貴重な休日のうちの片方を、僕のために毎週空けてくれた(当時はそのありがたさが理解できていなかったが)。

行ったことのない東京の観光スポットを片っ端から二人で散策した。平日にどちらかが行きたいお店を見つけては、週末に一緒に行った。
関東近辺の温泉にもたくさん旅行をした。いろは坂に紅葉を見に行ったとき、下り坂で後ろの車に煽られて焦っているメイちゃんの横顔が今でも鮮明に思い出される。
大学生協の安いプランを使って、沖縄のホテル日航アリビラに3泊4日の旅行をしたこともあった。沖縄旅行ではめずらしく4日とも晴天で、フォトスポットを巡っては二人で写真を撮ったり、ホテルに帰ってきたら併設されたプライベートビーチで優雅な時間を過ごしたりした。
真冬の北海道へさっぽろ雪まつりを見に行ったこともあった。いつもは手を繋いで歩いている僕たちも、ありえないほどの寒さでお互い両手をポケットに入れていた。写真を撮る時だけ、二人で頬をくっつけた。

僕の誕生日には、サプライズで東京湾のディナークルーズを予約してくれていた。誕生日の前日に「明日は竹芝駅に18時に集合ね」と言われたものだから、なんとなく予想はできた。そんなちょっと抜けているところもすごく可愛らしかった。東京湾の真ん中でディナーの最後のコーヒーを飲んでいる時「この色が似合うと思ったんだ」と言ってFENDIの綺麗な水色のネクタイをプレゼントしてくれた。
一緒にいる時間のすべてが、幸せだった。今でも東京のデートスポットに行くと、大抵の場所でメイちゃんとの記憶が思い出される。過去の思い出として美化されていることも相まって、現実の方が”美しい”ということは稀だ。沖縄の海が、当時の写真より”美しい”ことは、もうこの先の人生ではないだろう。
当時の僕を認めてくれる(両親を除いたら)ただ一人のかけがえのない存在だった。僕はメイちゃんと過ごす時間のために、頑張って生きていた。

・・・

大学院1年生として、なんとかM先生が与えてくれたテーマについて手を動かし始めていたころ(ちょうど梅雨の時期だろうか)、中途採用の面接で着ていたリクルートスーツを着て、夏のインターンの面接を受け始めた。
というのも、中途採用の企業説明会や、各社の面接で”こんな自分でも社会から必要とされている”ということに気づき、就職活動を前向きに取り組もうという気持ちになれていたからだ。
情報系の研究室にいるとはいえ、プログラミングはほとんどできず(勉強していないので当たり前だ)、研究室の他のメンバーに勝てるスキルは何もなかった。技術的なスキルがなくても勝負ができそうな、SIerやITコンサルといった企業群を中心に見ていた。
結局、夏のインターンはIBMとPwCに参加した。どちらもそこそこの評価されて早期選考には呼ばれたものの、前者は選考の過程で辞退し、後者は早期選考の一次面接でお祈りされた。
インターンの結果や面接の結果は逐一メイちゃんに報告していたが、最近まで大学院をやめようとしていた彼氏がイキイキと就活の報告をしてくることに対して、とても嬉しそうにしていた。ことあるごとに一緒にお祝いをしてくれて、その度に愛に溢れる手紙を書いてくれた。

たくさんの企業の選考にチャレンジした結果、D社をはじめとして4社ほどで最終選考まで進んだ。D社はIT系の中でも大手の企業で、福利厚生が充実しながら、給料もそこそこ高い。就活生の中では人気企業の一つだ。
D社の最終面接では他の企業では聞かれないような、少し変わった質問をされた。
「Kさんの最近の嬉しかった出来事を教えてください。」
僕は間を置かずにこう答えた。
「誕生日プレゼントで1週間前に彼女からもらった”この”ネクタイをして、今日御社の最終面接に臨めたことです。」
数日後、D社の人事担当者から内々定通知の電話がかかってきた。

D社の内定者は本当にみんな気が合って、一緒にいて居心地がよく、楽しい人ばかりだった。僕の知っている理系大学生は、みなチェックシャツを着て、目を合わせて話してくれなかったが、D社の内定者にはそんな人は一人もいなかった。やっと自分がいるべき”フィールド”に戻ってくることができたんだ、と思わせてくれるような同期たちだった。
自分のこれまでの人生が、全て肯定された気がした。

大学院2年の10月の内定式以降、平日は同期と遊び、休日はメイちゃんとデートをし、気が向いた時に少しだけ研究をする、そんな日々を過ごしていた。
僕は、浮かれていた。
いままでの大学生活で失っていたものをすべて取り返そう、ここからが僕の人生のスタートだ、とすら思っていた。

メイちゃんとは穏やかで何気ない時間を過ごすようになっていた。付き合って2年以上経っていたこともあり、都内のデートスポットは行きつくし、ちょっと小洒落たカフェでまったり過ごすようなデートをよくしていた。同期との楽しかった話を、いつも向かいでニコニコ聞いてくれていた。
特に大きな不満はなかった。強いて言えば、だが、とても芯の強い子だった事もあり、僕が苦しんでいる理由が分かってもらえないことが時々あった。知らず知らずのうちに、そういった自分の弱い面をメイちゃんに見せることができなくなっていた。すべてがキラキラしていて、誰にでも自慢できる立派な彼女に対して、隣で少し背伸びをしながら生きている自分がいることに気付いてしまっていた。

年末。僕は仲の良い同期に誘われて、スノボ合宿に参加した。いつも通り”大学生”全開だった。大声でコールをかけてお酒を飲み、バカみたいに騒いで、夜を明かした。半分以上知らない同期だったが、一晩で意気投合できた。
高校時代の友達とスノボに行くことはあったが、大学以降にできた知り合いと、しかも男女でスノボに行くのは初めてだった。帰りの高速バスの中で、これが大学生か、と思っていた。

夜の22時を過ぎて、同期20人を乗せた高速バスは、年末で人通りが少ない新宿西口のバスターミナルに到着した。みな疲れ切った顔で「楽しかったねーまた遊ぼうなー」と言いながら、それぞれの帰路についた。僕は新宿から中央線で市川へ帰ろうとしていたが、一緒の方面に住んでいる人はいなかった。
それを見た同期の一人であるアサミちゃん(仮名)が「一緒に帰ってあげようかな!」といって僕の方に駆け寄ってきてくれた。飲み会でも帰りのバスでも、たくさんお喋りしていた同期だ。
彼女は春日部市に住んでいたため、湘南新宿ラインで帰るのが一番早いはずだったが、錦糸町から半蔵門線乗れば一本で帰れるんだよね、と言って同じ電車に乗ってくれた。半蔵門線は東武スカイツリーラインと直通運転しているらしい。俺、学校行くとき東武アーバンパークライン使ってるんだよね、なんで東武ってこんな名前ダサくしたんだろうね、と二人で笑いあった。
それから、僕はアサミちゃんと毎日のようにLINEのやりとりをした。お互いの大学の話や、4月から始まる仕事の話や将来の話、それ以外にも本当に他愛もない話も含めて、毎日たくさんのやりとりした。理由はわからないが、メイちゃんに話せないような自分の弱い面も、アサミちゃんになら全て等身大でさらけ出すことができた。日に日にアサミちゃんのことが気になってしまっている自分自身にも、気が付いていた。

年が明けて、例年のように親族で集まっておせちを食べている時だった。お母さんが「今度彼女のメイちゃんって子がうちに来るんだって」と少し僕を茶化すように、それでも嬉しそうに、おばあちゃんに向かって話した。メイちゃんとは、年が明けてから入社するまでの間に、一度実家に遊びに来る計画を立てていた。
「あら、そろそろ結婚かしらね」とおばあちゃんは言った。
それを聞いた僕は、言葉では形容できないような居心地の悪さと、気持ち悪さを感じた。僕の人生はたった数カ月前に始まったばかりなのに、もうゴールしてしまうのか?そんな感覚が、お正月のお笑い番組を見ながら、ずっと頭の中で渦巻いた。

それから3週間後の土曜日、僕は錦糸町駅北口にあるカラオケビッグエコーの一室で、メイちゃんに別れを告げた。
最近自分が背伸びをしてしまっているように感じること、これから先つらいことがあったときに頼れなくなりそうだということ、そんな事を大義名分として並べて、最後に”自分勝手な理由”を付け加えながら、別れようと言った。
まだ遊びたい、という最低な本心にも自分自身で気付いていたが、もちろん口には出さなかった。

帰り際に渡された、メイちゃんからの最後の手紙の冒頭には、こう書いてあった。

「あなたは私のことを急に遠ざけようとしているから、これが最後になるかもしれないと思っています。私はあなたと過ごした時間が何よりも楽しかったです。本当にありがとう。二人で過ごした楽しかった時間が、黒く塗りつぶされないことだけを、願っています。」

(後編に続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?