東急目黒線西高島平行き(前編)

「気持ちが、なくなっちゃいました。」
3カ月ちょっと付き合った彼女から電話で言われた、少しも迷いのない言葉だった。ちょうど1カ月くらい距離を置いていた彼女に向けて「そろそろ久しぶりに会いたいな」と言った僕の言葉に対する、シンプルな回答だった。真っ直ぐな声だった。

武蔵小杉のタワマンが綺麗に見えるこの武蔵中原のマンションには2022年11月に引っ越してきた。駅から少し離れた閑静な住宅街にある立地も、少し洒落た壁紙が張ってある内装も、僕のお気に入りだ。ただその日だけは、リビングの窓から見えるタワマンの明かりが、いつもより滲んで見えた。

社会人になるまで千葉県市川市の実家に住んでいた。他県出身の人に説明するときは、東京ディズニーランドがある浦安市の隣の市だよ、と言うとなんとなく伝わる。実際、市川市の中でも江戸川と旧江戸川にはさまれた行徳エリアだけは、浦安市に接している。行徳エリアは東西線が通っており都心へのアクセスがいい反面、埋め立て地という背景から家賃相場が安く、中国や東南アジアから移住してきた外国人が多く住んでいる。自分の実家は総武線沿線で、市川市の中でも内地のため家賃相場が高く外国人も少ない。行徳エリアとの民度の差は歴然だ。

小学生の頃から頭は良かった。学校のテストは100点が当たり前だったから、親にいちいち見せることもなくゴミ箱に捨てていた。毎年正月に親戚が集まる場では「末は博士か大臣か」とおじいちゃんが僕に向けて嬉しそう喋っていた。この言葉の意味が理解できたのはおじいちゃんが亡くなった小学4年生の頃だったと思う。
小学校1年生から3年生までは学研教室に通っていた。3年生の終わりに「簡単すぎてつまらないから学研やめたい」とお母さんに言ったら、4年生から栄光ゼミナールに通わせてくれた。自分が知らないうちに”お受験”が始まっていた。
栄光ゼミナールでは常に偏差値60以上をキープしていた。6年生になってからは、1学期に理科の”銀本”をすべて解ききったSくんに負けたくない一心で、寝る間も惜しんで勉強をした。毎日めまいがして、給食の後は毎日昼休みにトイレで戻していたが、当時は何もおかしいと感じていなかった。
結局、中学受験は慶應義塾中等部、筑波大学附属中学校、渋谷教育学園幕張中学校などに合格した。第一志望だった駒場東邦中学校を除いてほぼ全勝だ。どの学校も偏差値が70を超えるような豪華すぎるカードではあったが、第一志望以外の学校の志望順位は決め切れていなかった。両親をはじめ、塾の先生にもアドバイスを聞いて、最終的には家族会議で筑附に進学することに決めた。両親も塾の先生もみな口を揃えてこう言った。「この時点で慶應に人生を決めるのはもったいないよ。東大にいける素質があるんだから。」

中学に入って最初の自己紹介では、小学5年生の頃に市川市の相撲大会で個人戦3位になった話を自慢げに話した。中学でいじめられないように、とお父さんが考えてくれた自己紹介だ。本当に個人戦3位ではあったが、個人戦は団体戦に出られないサブメンバーが出る、いわば2軍戦みたいなものだった。
自己紹介でインパクトを残したお陰かわからないが、友達はすぐに増え、中学1年生の前期から学級委員を務めた。小学校の時に地域の野球チームでキャプテンをしていたこともあり、特に深く考えずに中学も野球部に入った。進学校だったため部活は週に3日か4日ほどで、残りの平日は「Z会の教室」という進学塾に通っていた。野球部でショートを守っていたOくんに勧められて一緒に入ることにした塾で、中学1年生から高校3年生までが通っている。浪人生は少ない進学塾だった。
筑附は国立だったこともあり、難関校とはいえ学習速度は普通の公立校と変わらなかった。そのため、クラスのほぼ全員が進学塾に通っていた。この頃の僕は、中学受験時のような勉強熱心さはなくなっていた。ほとんど勉強をしなくても、普通に定期テストで平均点は取れた。自分は頭の良い中学校でも通用するんだなと、口には出さないが、心の中では優越感に浸っていた。ただ中学の勉強は前評判通り小学校ほど甘くはなく、中学3年にもなると成績は全体で下から数えた方が早くなった。真面目に勉強をしていなかったのだから当たり前だ。
筑附は中高一貫校ではあるものの、中学から高校への内部進学時に成績下位20%が不合格になる。これは内申点と内部受験テストの合計点で争うことになるので、内申が悪い生徒はあらかじめ先生に個別に声をかけられ、私立の推薦受験の準備を進める仕組みになっていた。「せっかく優秀な中学に入ったのに内部進学できないなんて…」僕は、その人たちのことを心からかわいそうだなと思って憐れんでいた。野球部でファーストを守っていたAくんにも声が掛かったらしい。結果、彼は筑附の高校には進学していなかった。どこの高校に進学したかは聞いていない。

僕は無事に内部受験に合格し、そのまま筑附の高校に進んだ。中学と同じように何も深いことを考えずに野球部に入った。言われるがまま、何も考えずに坊主にした。高校の野球部は中学と違い週5日ほどの練習や朝練があった。朝が早いぶん授業中に睡眠できるよう、大きめのタオルを毎日持って行って折りたたんで枕にしていた。
野球部の練習には休まずに参加していたが、ノルマになっていた毎日の素振りはほとんどしていなかった。守備の器用さが買われて、2年生の夏にはセカンドのスタメンをとった。もちろん打順は下位だった。
高校生活では部活以外にも充実した学生生活を送っていた。男6人でアカペラチームを組んで文化祭で披露したり、クラスの男女4人で夏の花火大会を見に行ったり、クラスのみんなには秘密にしようねと約束をして女の子と付き合ってみたり、まるでマーガレットに連載されている青春漫画のようなキラキラした毎日を送っていた。誰よりも高校生を楽しんでいた自信がある。

勉強面はというと、土日も部活が忙しいことを言い訳にほとんど模試などは受けていなかった。高3の夏の部活引退を機に、中学受験以来となる全国模試を受けてみた。偏差値は43だった。大学受験まではあと半年しかない。どうしてこうなってしまったのかと心の中で自問自答しながら、この先どうするか両親と家族会議を行った。結論はこうだ。文系科目の勉強をやめて、数学と理科と英語だけを勉強し、私立理系大学の進学を目指す。もちろん(当時の名前でいう)センター試験も受けない方針となった。
僕はよくわからなくなっていた。私立理系大学って慶應より頭の良い大学あるんだっけ。あれ、慶應って蹴った学校だけど進学する意味あるんだっけ。僕は何のために中学受験して筑附に入ったんだっけ。今も答えがわかっていない。

幸か不幸か、滑り止めだった東京理科大学にだけ合格してしまった。もちろん慶應も早稲田も落ちた。進学するか浪人するか、半年前と同じように家族会議をした。お父さんはこう言った。「あと一年勉強するのはすごく大変だと思う。もちろん文系科目の勉強もゼロから始めないといけない。現役で大学に進学することは誇れることだぞ。」自分でも一年浪人をしたところでまともな国立大学に受かるとは思っていなかった。かといって、一回しかキャンパスに足を運んでいない片田舎の偏差値55の大学に進むという事実も、頭で理解ができなかった。どっちの選択も地獄だ。最後は当時付き合っていた彼女が現役で大学に進学すると言っていたことを決め手に、自分も現役で大学進学をすることにした。
中学の時に一緒に部活をしていたショートのOくんは現役で早稲田政経にセンター試験利用で合格した。後から聞いたが、ファーストのAくんも慶應経済に現役で進学できたらしい。どうして?

市川の実家から東京理科大学の野田キャンパスまでは、市川駅から総武線で船橋駅まで行き、東武アーバンパークライン線に乗り換えて運河駅まで行く。ドアトゥドアで1時間半ほどでつく距離だ。どうでもいいが、アーバンパークラインってなんだ?さすがに命名した人のセンスを疑う。
入学ガイダンスの日は入学試験日以来、久しぶりに野田キャンパスに行った。斜め後ろに座っていたTくんに教えてもらったが、どうやら神楽坂にもキャンパスがあるらしい。市川駅から30分以内でつく距離じゃないか。全然知らなかったな。

入学直後は、浪人をして入学をした1個上の同級生と、どうコミュニケーションをとるかかなり気を使った。Fくんもその一人で、北海道の立命館慶祥高校では野球一筋だったらしく、現役ではあまり良い大学に受からなかったらしい。Fくんとは大学の野球サークルで知り合って、すぐに仲良くなった。フレンドリーないいやつだった。僕は仲良くなった彼に対してシンプルな疑問をぶつけてみた。「てか、浪人して一年間なにしてたの?笑」Fくんはまじめな顔で質問に質問で返してきた。「どういう意味?一年ちゃんと勉強してたよ。」質問した自分の理解が間違っていることが分かった。そうだった。ここは”そういう人"が集まるところだった。

大学は全く馴染めなかった。というか僕が常に斜に構えていたので、最初は毎日話していた友達たちも、全員ヨッ友になった。定期試験の直前だけ妙に親しく接してきた。わかったわかった、ノートコピーさせてやるよ。
基本的には授業に出席していた僕だったが、所詮大学生なので、サボることも時々あった。自分は大体ノートを貸す側だったので、借りることは容易だった。大学1年生の後期だっただろうか、借りたノートがあまりにも見づらく、中学や高校の友達にしかフォローされていないTwitterのアカウントで「ほんとに他人の書いたノートは読めたもんじゃねえな」と呟いた。次の日、大学に行って気づいたが、大学の友達(のような人たち)にあからさまに避けられていた。フォローもしないでツイートを見ていたのかと思うと心底気持ちが悪かった。ノートを貸してくれた人へはありがとう、と言ってノートを返した。その日からTwitterは鍵アカにした。

東京理科大学は圧倒的に男性比率が高い。特に電気電子工学科は120人中女性は3人だけらしい。僕が所属していた情報科学科はかろうじて女性が15人ほどいた。とはいえチェックシャツを着た面々は、男女で旅行に行くようなことはもちろん、金曜に飲み会をしたり、休日にラウンドワンに行ったり、といった、いかにも大学生のようなことは何もしていなかった。今となっては全員名前も顔も思い出せない。
そんな”普通の”大学生活とはかけ離れた生活を野田市の僻地で送っていたわけだが、唯一、麻雀だけは”普通の”大学生と同じようにハマっていた。授業が終わればバイトがない人をかき集めて、雀荘に足しげく通った。流山おおたかの森にある紀伊国屋書店の麻雀戦略本コーナーの本は半分以上買ったと思う。新たに学んだ戦法をノートに書き留め、授業が終わったら雀荘に行き実践。夜遅くに帰ってきた後、新しい戦法の有効性についてノートに結果を追記してからベッドに潜った。麻雀の様々な戦法の全てが、僕が東京理科大学で学んでいることだった。麻雀で強くなることこそが、僕が大学生活を送っていることの証明だった。

ろくに勉強もせず麻雀に明け暮れている間に、気づけば大学3年生の秋になっていた。どうやら就活というものが始まっているらしい。僕はこの学歴では大した企業に就職できないと思い、消去法で大学院に進むことを考えた。両親もこの考えには賛同してくれた。
大学4年生になると、学部生は各研究室に配属される。自分が行きたい研究室を投票し、学科の中で優秀な学生から順番に希望の研究室に配属されていくシステムだ。僕はどの研究室にも興味がなかったが、優秀(?)な人が集まるらしいT研究室に配属となった。
配属初日に初めて研究室に入り、愕然とした。研究室の先輩たちのデスクトップがみんなアニメの女の子の画像だった。気持ち悪すぎて吐き気がした。研究室に馴染めなかったことは言うまでもないが、研究自体も自分に不向きだと分かってきたのが大学4年生の秋頃だった。その頃には学部で卒業しようとしていた人たちは、みなそこそこの企業からの内定を得ていた。自分は修士に進学して、あと2年半もこの苦行に耐えきることができるのだろうか。押しつぶされそうな不安に耐えながら学部論文は提出したが、限界を感じていた。

大学院にはなんとか合格することができたが、進学して早々にこれ以上研究を続けることは無理だという結論に至った。両親にも相談したが、家での荒れようを見ていたこともあってか、反対はされなかった。
バイトで貯めていたお金でリクルートスーツと革靴を買い、第二新卒採用や中途採用のリクルートイベントを回ってみることにした。企業ブースでは、よれよれのスーツを着た企業のおじさんの話を、死んだ魚のような目をした小汚いの若者が、等間隔に並べられたパイプ椅子に座って聞いていた。自分はこれからこういう世界で生きていかなければならないんだという覚悟をした。多分、僕も死んだ魚のような目をしていただろう。等間隔に並んでいる一人だ。
幸いにも2社から最終面接のお誘いがあり、いよいよ大学院を中退する決意をした。その日の夜に、数十分も推敲したメールをM先生に送った。

2015/07/24 21:29

いつもお世話になっております。
M1のKです。

初めに、ゼミで発表の回であったのにも関わらず、急に欠席をしてしまいご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。
欠席の理由を率直に申し上げますと、前回発表した際、質疑応答の最後にM澤先生から「何を研究したいのかしっかり考えるように」と言われ、自分の中でその答えを探しているうちに「研究したいと思えない」という答えに行き着きました。
(中略)
このようなことから、私は前期限りで大学院を中退しようと考えています。
重要な話であるにも関わらず、メールでのご報告になってしまい申し訳ありません。また、ゼミにも迷惑をかけることになってしまい、重ねてお詫び致します。大変申し訳ありませんでした。

以上、よろしくお願い致します。

(中編に続く)


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