東急目黒線西高島平行き(後編)
それからほどなくして、僕はアサミちゃんと付き合うことになった。
卒業旅行で行っていたカナダのイエローナイフから帰ってきた日に、羽田空港の到着ターミナルで告白した。綺麗なオーロラの写真を見せながら、たくさんのお土産話をしてくれた。気付いたら到着ロビーのベンチで1時間も話していた。
お互いバイトのない日はほとんど一緒に時間を過ごしていた。2日に1回くらいは、東京のどこかで会っていた。
会社の同期に対しては、アサミちゃんと付き合っていることは秘密にしていた。その方が同じコミュニティで遊んだり、旅行をしたりするときに、変に同期に気を遣わせることがないと考えていたからだ。その目論見通りかわからないが、同じコミュニティの同期としても一緒にたくさん旅行をした。隙を見て二人でツーショットを撮る遊びをよくしていた。
4月が近づくにつれ、お互いの配属先の話になることが増えてきた。僕たちが入社するD社では全国転勤があり、入社してから短ければ半年、長ければ3年、地方で勤務する可能性があった。新幹線で行き来できる距離だったらいいね、と期待を込めて話していた。
大学院も無事に修了することができた。M先生のアドバイスのとおりにプログラムを実装し、アドバイスのとおりに修士論文を書いた。
卒業式の日、人生の大きな転換点を与えてくれたM先生に対して、僕は直接お礼を言うことができなかった。この地獄のような6年間を、どこか認めることになりそうで怖かったからだ。恩師に対しても、最後まで真っ直ぐになれなかった。
経歴だけ見ると、そこそこの大学に現役で進学し、留年することもなく修士までストレートで卒業することができている。立派なもんだ。会社に提出する履歴書には、僕が経験した”地獄”について記述する欄はない。
・・・
4月、晴れて社会人になった僕たちに試練が訪れた。配属先の発表だ。
僕は半年間の熊本勤務、アサミちゃんは3年間の長野勤務(しかも半年間は松本市)だった。
この半年の期間は、熊本に来てもらったり、お互いの中間点の神戸や大阪に旅行しに行ったり、上高地のペンションに泊まりに行ったりして、定期的に会えるようにお互い予定を合わせた。
入社前までのペースとは違い、ふた月に一度程度しか会えなくなった分、お互いに寂しさを埋め合わせるように、会社から自宅に帰ってきたら毎日遅くまで電話した。
半年が経って、僕は都内の本社勤務になった。
割り当てられた社宅は、なんと行徳にある社宅だった。「行徳は市川市だけど”市川”ではない」と思っていた過去の自分に、後ろから刺されたような気がした。前言撤回。とても住みやすい街です。ディズニーランドも近いです。でもやっぱり東西線はクソだった。
アサミちゃんは勤務地が松本市から長野市に変わっていた。そのおかげで東京駅から北陸新幹線に乗れば、だいたい1時間半ほどで会いに行けるようになった。しかし、当時社会人1年目の僕たちにとって往復の新幹線代も馬鹿にならず、距離が近くなったとはいえ、行き来して会うのは1カ月に1回が限度だった。
この頃から、あと2年半も同じ生活を続けることができるのだろうか、という漠然とした不安を抱えるようになった。2年半後、アサミちゃんの異動先が本社とは限らないし、僕が地方へ異動になる可能性だってある。
不安な気持ちを抱えながらも、1カ月ぶりに会うときは毎回心から楽しかった。夏は長野でぶどう狩りをしたり、冬は二人でスノボに行ったりした。1カ月に一度会っている時間だけは、将来の不安を忘れられた。
2年目の春、新入社員の看板を下ろし、仕事ぶりも少しずつ板についてきた。
アサミちゃんとは変わらず毎日連絡を取っていたが、些細なすれ違いでちょっとした喧嘩をすることが多くなった。将来に向けた貯蓄に関する価値観、結婚相手に求める姿勢、思い描いているキャリアプランなど、様々な事について話し合った。
しかしその度に小さな亀裂が生じ、二人の雰囲気が悪くなった。毎月これくらい貯金してほしいとか、休日は英会話とか何でもいいから将来に向けて頑張ってほしいとか、僕にとっては少しハードルが高い要求が続くようになった。
そんなやり取りを続けているうちに、僕は少し疲れてしまっていた。夏の東京駅で、新幹線に乗って会いに行くのがめんどくさい、とすら思うようになってしまっている自分がいた。
夏が過ぎ、秋に差し掛かろうかという頃、僕はまた、別れを告げた。
アサミちゃんがちょうど春日部の実家に帰省しているタイミングだった。北千住の改札の外で、終電間際まで二人のこれからについて話したが、結局僕は付き合い続けるという結論には至れなかった。最後には”自分勝手な理由”を添えて、別れようと言った。
この時ばかりは、二人の間の”距離”を恨んだ。顔を見て話せれば、ここまですれ違うこともなかったかもしれない。タイミングという言葉だけで片付けるのは、少し残酷すぎるなと感じた。
・・・
それから4年ほどの月日が経って、コロナが収束に向かってきた2022年の秋、僕はいまの彼女と付き合うことになった。
一緒にいるとお腹が痛くなるくらい笑わせてくれて、仕事については誰よりも頑張っている。本当にいろんな面で尊敬できる人だ。
今までの恋人は外に出かけてデートをすることが多かったが、どちらかというと、お互いの家でまったり時間を過ごしていることが多かった。特に料理が上手で、調味料の使い方などを教えてもらいながら、よく一緒に夜ご飯を作った。
付き合い始めてから2カ月ほど経ったある日、「今週は体調が悪くて会いたい気分じゃないから、それぞれの週末を過ごさない?」と言われた。
確かに付き合ってから毎週末ずっと一緒にいたこともあったし、何より体調が心配だったので、僕はそれに同意した。
しかし、それからはLINEの返信もなかなか返ってこなくなり、次の週にも「まだ会える気分じゃないからしばらく会いたくない」と言われ、ひとりぼっちの週末が続いた。
そんな状況から1カ月ほど経った金曜日の夜、突然、電話で別れを告げられた。
「気持ちが、なくなっちゃいました。」
僕は正直、別れたい理由が、まったく理解ができなかった。
一カ月前は二人で楽しくクリスマスと年末年始を過ごしたし、二人の関係性には何も違和感を感じていなかった。順調だと思っていた。
何か嫌なところを指摘されたこともなかった。いつも二人で、ただただ楽しい日常を過ごしていた。この幸せがずっと続くものだと思っていた。
最後にバイバイをした武蔵小杉駅の改札では、また来週ね、といつもの明るい声と幸せそうな笑顔だった。
なのに、僕の目の前から、僕の知っている彼女は突然いなくなってしまった。
・・・
翌日は、入社前から仲の良かった同期3人と、目黒にあるお洒落なバルで昼から飲み会をする予定だった。”大学生”の頃とは違い、新宿や池袋で飲むことは少なくなっていた。
前日に振られたことで、メンタル的には参ってしまっていたが、友達と会った方が精神的に良いのではないかと思い、予定通り参加することにした。何より、久しく会ってなかった同期と会って、他愛もない話がしたかった。
午前11時過ぎ、僕は武蔵中原のマンションから武蔵小杉駅に向かって歩き始めた。夜はきれいに光る武蔵小杉のタワマンだが、日中に見ると思ったほどインパクトはない。そのタワマンのふもとを目指して歩くと、20分ほどで武蔵小杉駅に到着する。
武蔵小杉駅からは東急目黒線急行の西高島平行きに乗って、15分ほどぼーっと昨晩の電話のことを考えていたら、すぐ目黒駅に到着した。
目黒のバルについた時は自分が一番乗りだったが、10分もしないうちに懐かしい面々が集まった。どうやら僕の目が少し腫れていることは、久しぶりに会った同期には分からなかったようだ。
仕事の話、これからのキャリアの話、最近生まれた子供の話などで一通り盛り上がった後、まだ結婚していない人の恋愛の話が始まった。
Iくんが何の気なしに「Kは最近どーなん?」と聞いてきた。
僕は「今は彼女いない、けど昨日はいた。」と、ひとまず事実だけ伝えると、驚きと疑問の声で、場が一瞬にして盛り上がった。
いろいろと根掘り葉掘り質問されたが、そんなに嫌な気分はしなかった。聞かれた質問に対して自分の口で話しているうちに、頭の中でごちゃごちゃしていた思考が、少しずつ整理できている気がしていたからだ。
ひとりきりの質問に答え終わった後、Iくんがちょっと角度を変えた質問をぶつけてきた。
「Kは、今までの彼女と別れるとき、振る方と振られる方、どっちが多かったん?」
メイちゃんや、アサミちゃんの顔が、すぐ脳裏によぎった。1,2秒だろうか。記憶を辿って、僕はIくんにこう答えた。
「うーん、いつも振る側が多かったかな。色々あったけど、最後は ”気持ちが離れちゃったから別れたい” って言ってることが多いかな。」
僕は、そう話した後すぐに、昨日彼女から言われた言葉を思い出した。
(完)
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