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ケリー・ライカート監督とミニマリスト映画について学んだこと

「FIRST COW」を観て、ちゃんと理解が出来ていない気がして気持ち悪かった私。世間の評価と自分の感想との齟齬を埋めるために、もっとケリー・ライカート監督について知ろうと思い至りました。

「FIRST COW」の感想記事

ということで、この記事では自分なりにwikiや記事を読んだり、インタビュー動画を観たりして知ったことなどを書いておきます。

話しているライカート監督はこんな感じ。


経歴とインデペンデント女性監督の苦悩


ライカート監督は、”アメリカのインディペンデント映画作家として最も高い評価を受ける一人”と言われる女性監督。

1964年マイアミ生まれの60歳。

ボストンのthe School of the Museum of Fine ArtsMFA(Master of Fine Arts 芸術修士)を取得。
ニューヨーク大学、コロンビア大学、そして現在もバード大学で教鞭をとる。(←ライカート曰く、映画製作に安定した収入が必要だから)

映画製作には興味を持っていた彼女が、どうやって映画界に入っていったのか?師匠となるような監督がいたのか?wikiにも載っていない。
過去記事によると、映画製作に関わったのはトッド・ヘインズ監督(「キャロル」の監督)のデビュー作「Poison」という1991年の映画かららしい。ヘインズ監督は師匠というより3つ年上で同年代の頼れる友人、制作仲間という感じで、その後もライカート監督と深く関わり(原作者を紹介したり、ロケハンに付き合ったり)、プロデューサーとしても彼女の作品に関わったりしている。(オレゴンが舞台の映画が多いのも、オレゴン在住の彼の影響)

初監督作品が1994年「River of Grass」。かれこれ30年近くのキャリア。この作品がインデペンデント映画の祭典サンダンス映画祭(ロバート・レッドフォードが設立した映画祭ですね)で賞を獲る。しかし、その後もなかなか資金繰り等は難しかったらしく、「River of Grass」の後が2006年の「OLD JOY」なので、その間10年以上間が空く(この間にNYで暮らしたり、ショート・フィルムの制作などをしている)。そして現在までにも長編は8本くらいしか撮ってない。

これだけ評価されてる監督でもインデペンデントで映画を撮るのは、映画産業が盛んなアメリカといえどやはりなかなか難しい部分があるのでしょうね。インタビュー記事でも、全ての決定権を自分が持つため、外部からの影響を受けないためにインデペンデントを貫いていると言ってました。カッコいい!!(日本の映画とかドラマとかは、芸能事務所やスポンサー、テレビ局の思惑に影響されまくりの作品ばかりですもんねぇ…)

それにハリウッド大作みたいに分業制で監督が監督だけすればいいわけでなく、脚本も原作者と話し合い、共作したり自分で書いたりしているし、ロケハンも自分であちこち行って探してる。編集もお金がないから自分で自分を雇うのよ、なんて言って全て行っているので、必然的に時間がかかる。「OLD JOY」では撮影が6人ぐらいで6日間で撮った様な事を言ってましたが、あのシンプルな作品の中にも色んな要素を詰め込んでいることから、事前準備はかなり緻密にしていたことは想像に難くない。

そして、ヘインズ監督のこの言葉がなかなか興味深いです。
Kelly was unfortunate not to have “a film school background, a calling-card short, some connection to money, or a penis.”
(ケリーは残念ながら映画学校出身という背景もなく、(a calling-card shortの意味がイマイチわからないのですが)映画関係者の名刺も全然持ってない(ということかなと)、お金(出資者)とのコネもないし、ペニスもない(男ではない=映画界にはまだまだ女性差別があるということ))

学閥なし、映画界への強力なコネなし、出資者なし、男性じゃない…ナイナイづくしで女性監督がインデペンデント映画をやることの大変さを端的に表現している言葉だと思います。

ライカート監督も映画界の女性差別についてこう言っている。
「90年代からの10年間映画が作れなかった。それは私が女だったからだと思っている。それがお金を集めることが難しかった絶対的な要因。何も出来な過ぎて「FUCK YOU!」と叫んだこともあるわ。だから8ミリで短編ばかり撮っていた。「ハート・ロッカー」(2009)でキャスリン・ビグローがオスカーを獲得以降も何かが変わったとは思わない。メジャーな映画産業界の外にいるからわからないけど、賞レースとかを観ていると、トッド・ヘインズやガス・ヴァン・サント、ウェス・アンダーソン、その他の男性監督のように、女性監督が個人的な映画を作りながらキャリアを築けていないことは明らか。私は生活の為に教鞭をとり、出来るときに映画を作っている。そして映画でお金を儲けたことは全くない」

ビグローもジェームス・キャメロンの元妻ですし、映画界でのコネはあったのかな?とは思います。言ってもアカデミー賞はアメリカ映画産業界での仲間内での評価ですから。色んなパワーゲームも働いていますもんね。でもこの記事が2011年のもの。そこから10年ほど経ち、2021年が「ノマドランド」のクロエ・ジャオ、翌年2022年が「The Power of the Dog」のジェーン・カンピオンが監督賞を受賞しているので(ジェーン・カンピオンは「ピアノ・レッスン」ノミネートから約30年経っての受賞)、ようやくビグロー受賞からの変化が浸透し始めてきたのかもしれません。

日本の女性監督だと、オリンピック映画や万博にも関わって、最近あんまり私的にはイメージよくない河瀨直美監督とか、「かもめ食堂」以来コンスタントに作品出してるイメージの荻上直子監督とか、あと西川美和監督なんかが浮かびますかね。でも彼女たちは日本アカデミー賞で監督賞も受賞したことないし、調べてみたら作品賞も監督賞も女性監督が関わっている物が一切なかった(苦笑)。さすがホモソーシャルガチガチの日本。日本アカデミー賞も映画会社のお偉いさん方が決めてる談合箔付け出来レースなんだとは思っているけど…さて女性監督が監督賞を受賞するのはいつになることやら。アニメ監督も女性監督が出てきてもおかしくないのに、やはり男性監督ばかりですよね。テレビアニメではチラホラ女性監督もいるけど、作家性のあるオリジナル作品作れる(出資を得られる)土壌はまだまだないんでしょうね。

ケリー・ライカート作品の特徴(ミニマリスト映画とスローシネマ)


wikiに書かれている彼女の特徴としては…
作品の多くはごく少数の登場人物の感情を精密にたどろうとする会話劇”

登場人物達についてはこう言っている。
“My films are about people who don’t have a safety net,”
(私の映画はセーフティ・ネットを持たない人たちについてのものなの)
これは前述したライカート監督自身、学閥、コネなし、出資者無し、男じゃないのないない尽くしの状況と重なる気もします。こういう人たちを撮りたいから、あくまでもインデペンデントを貫いているのかもしれませんね。

映画評論家のSam Littman氏のライカート評も端的に表していてわかりやすい。

彼女の映画は暴力的でも境界を押し上げるような(ギリギリを攻めるような)ものではない。カンヌやアカデミー賞の候補になったこともない。きらびやかなセリフやショッキングな展開などもない。確かに政治的だが、マイケル・ムーア監督のような煽動的な人物によって占められている政治的なジャンルに属していると思われるほど認知もされていない。彼女の映画はショックを与えたり揺さぶったりするものでもなく、劇場公開された物にはセックス・シーンさえ含まれていない。しかし、今世紀にインデペンデント映画の分野で活躍するアメリカ人監督の中で、ライハルト以上の評価を集めた人はほとんどいない。ライハルト監督は、より良い生活を求めて旅をする、社会から疎外された人物たちの描写を鋭く観察し、限られた公開作品数に関わらず、この国で最も影響力のある批評家、出版物、観客を常に魅了してきた。

英語版wikiでは、
”She is known for her minimalist films closely associated with slow cinema, many of which deal with working-class characters in small, rural communities.”
(地方の小さいコミュニティにおける、労働者階級の人々を扱ったスローシネマに密接に関連付けされるミニマリスト映画の制作者として知られている)

ミニマリスト映画スローシネマという言葉を初めて知りました。そういうジャンルがあるのですね。
ということで、次はその辺りを少し深掘り。

ミニマリスト映画とスローシネマについて

ミニマリストという言葉は知っているけど、ミニマリスト映画とはどういったものか?余計なものを取り除いた映画ってことでしょうか?

調べてみると、

ミニマリズム:完成度を追求するために、装飾的趣向を凝らすのではなく、むしろそれらを必要最小限まで省略する表現スタイル。「最小限主義」

ミニマリスト・フィルム:Their films typically tell a simple story with straightforward camera usage and minimal use of score.
(通常、単純なカメラワーク最小限のスコアの使用でシンプルなストーリーを伝える)

代表的な監督として小津安二郎「東京物語」がミニマリスト映画の代表作TOP10に入っていたりする。あ~、ああいう感じの映画がミニマリスト映画なんだなと、少し理解できた気がしました。しかしwikiのミニマリスト映画作品リスト(上のリンク先参照)に「マッドマックス」があったりするので、やっぱりわかったようなわからないような…😅。


もう一つ言及されているスローシネマについての部分をwiki から抜粋すると、

*映画における傾向の一種。長回しの多用最小限に抑えられたショットのつなぎ演劇的な内容におけるミニマリズム物語要素の欠如などが特徴である。ときに「スローシネマ」という用語とともに、「瞑想的映画」という用語が使用されることもある。

*「スロー」シネマ(2003年のミシェル・シマンの分類によると、"cinema of slowness")は、思考する芸術の比類なき一種として理解されるようになった。そこでは形式や時間的な性質がそのまま豊かな感情的表現となって現れる。一方、緩やかなテンポは物語の論理において衝動を取り除くための役割を担っている

*特に重要な特徴として、ショットの長さが挙げられる。スローシネマの平均的なワンショットの長さは30秒程度だという

*物語という観点では、スローシネマではニュートラルな出来事にこそ注意が向けられるべきである。そうした出来事は、極めて些細なディテールの中で描かれており、観客の前で現実の時間に呼応した形で再生される。

「時間」の概念と強く結びついた志向であり、現実における時間を可能なかぎりそのままの状態でショット内に留め、観客の時間の中で再現するための試みともいえる。

*映画研究者のデヴィッド・ボードウェルとクリスティン・トンプソンが結論付けたところによれば、「映画文化は二極化しており、大衆市場向けの速くてアグレッシブな映画と、映画祭やアートハウス系のスローでより厳粛な映画に分かれる

*スローシネマの芸術性を支持する意見もある一方で、その過剰なまでの長回しの使用や物語性の欠如について批判する意見も多い。スローシネマは「気取っているうえに非常に退屈で、映画を突き動かすものが何かについて根本的に誤解」しており、「観客に対して無関心どころか、敵対的ですらある」といった批判も聞かれる

なるほど、なるほど。ようやくライカート監督の作風が理解できるようになってきました。最後のスローシネマに対する批判的意見にあるように、劇的なドラマ性というか、物語性の欠如、派手な演出などを極力削ぎ落としている作品であったりするんですね。

「FIRST COW」のクッキーとルーの再会シーンも、もし映画的な派手な演出にしようと思えば、「南極物語」の高倉健とタロとジロの再会シーンのように(ヴァンゲリスの)劇的な音楽が流れ、走り寄るところはスローモーションみたいにできる訳です。

こういうドラマチックな見せ方を悉く排除した、対極にあるのがライカート作品のようなミニマリスト映画、スローシネマなんでしょうね。「東京物語」も淡々と会話劇が続き、ラスト間近の母親の死、原節子演じる次男の嫁の泣くシーンはある意味劇的な場面ですけど、劇判などで必要以上に盛り上げる演出はなかったです。カメラも傍観者、リアリストな視線で眺めてる感じ。

映画内の時間の流れは観客の時間の流れと同質。より作品内に同期する感覚が得られるのかもしれない一方、上記の説明にあるブロックバスターのような大衆映画のスピードと刺激に慣れている感覚からすれば、テンポの遅さに違和感を感じたりするのだと思います。

ということは、私が「FIRST COW」で感じた違和感、物足りなさの正体は、普段見慣れている大衆作品の大仰なドラマチック性とはかけ離れた演出、現実味を重視したある種のテンポの悪さ、余計な説明セリフなど完全にそぎ落とした脚本などで、言い換えると自分が物凄く大衆映画の手法に毒されていたということを浮き彫りにされた感じ😅。

ライカート作品の特徴抜粋

wikiのライカート監督作品の特徴として記されている部分の重要そうな箇所も抜粋してみます。重複部分もありますが自分の為の備忘録として。


ミニマリストであり、リアリスト(現実主義)である。映画評論家は彼女の作風を「ネオ・ネオ・リアリズム」だとも呼ぶ。

*彼女自身は作品のことを"just glimpses of people passing through"と言及。(通り過ぎる人々の(人生の)一瞬の切り取り

*「映画とは基本的に(情報の)暴露の連続。だから鑑賞後に、あれら全ては何を意味したのかと(私が)話すなんてことは、私が映画の中でしてきたことを無意味にするし、総括なんてする気はない。全ては映画内で語られているから」と言っている。←レビュー記事などを読んでいると、キャラ設定やキャラ造形なども、ちょっとした周りの情報などから理解できるように巧妙に作られているらしい。

*長いカット、最小限のセリフ、最低限のアクションはスローシネマの特徴で、それによって観客に熟考する余韻を与える

*スローシネマとはメインストリームの商業主義映画に対する返答(対峙するような存在)。彼女は「映画館に行き、予告を観ていると、まるで暴行を受けたような気分になる」と言っている。

*彼女の映画に出てくるキャラクターは、メインストリーム映画では扱われないような、社会の端の方で生きていて、よりよい場所、よりよい生活を探し求めているような人達。セーフティネットを持っておらず、くしゃみをするだけで彼らの世界が崩れ落ちてしまうような、そんな人たち。
より良いものを求めている労働者階級の人々の、日々の生活の中にある孤独。偉大になれるという神話と暗い現実における自己限界の間で、もがき苦しむ人々に関心を持っている。

*ライカート監督はアメリカの世相を切り取り記録する年代記編者である。*彼女の映画では、当時の社会情勢や政治的イベントが反映されていることが多い。(例えばイラク戦争とブッシュ大統領を想起させるものだったり。または「FIRST COW」のように開拓時代を描きながら現在の世相を切っていたりする)

*ライカート作品のエンディングは大抵曖昧で、観客を宙ぶらりんにし、満足させないままにする傾向がある。観客に、この後どうなるのだろうと脳内で続きを想像させるように仕向けている。
彼女は言う「私は絶対というものを信じていない。勿論映画の最後に「The End」と出れば満足するでしょう。でも私の映画はとても短く、映画内で切り取った部分以前も以後もキャラたちの様子がわからないのに(彼らの人生のほんの一瞬しか切りとっていないのに)「The End」なんて出るのは(何も終わってないのに)おかしいことだと。
*観客自身で映画に入り込んでもらって、それぞれの結論を出してくれることを楽しみにしている。

*彼女の作品スタイル、内容にはフェミニスト思想が見受けられる。メインストリーム商業映画の手法を拒絶し、ジェンダーにフォーカスしているが、「フェミニスト・フィルムメーカー」と呼ばれることは拒否している。

*少ない予算、ロケでの撮影(大抵はオレゴン州で)。
*キャラクターや彼らの葛藤を敢えて理想的なものとしては描かない

ライカート作品の特徴、監督の考え方を理解していくと、「FIRST COW」で私が感じたものも案外的外れでもなかったんだなという気もする。

”作品に時代を反映”という部分、開拓時代の暴力性と資本主義社会の萌芽に翻弄される、社会の片隅に生きる主人公たちを描いていると一応は理解できていたし。結末も曖昧で、決してキャラたちを理想化しないということは、二人が並んで死んだけども、だからと言って素晴らしい友情物語として描きたかったわけでもなかったということ。ウン、それに対しても懐疑的でした。ある意味、私みたいに「これ何を意味してるんだろう?」と、直接的でない映画の画面やセリフにある文脈を読もうとしたりするのが好きな人間に凄く向いている映画作家なのかもしれません。


まだまだだとは思いますが、一応ライカート監督のこと、制作姿勢、作風なんかは把握できた気がします。

ということで次は「FIRST COW」の次に私が観た「OLD JOY」のレビュー記事へと続きます。「FIRST COW」では気付けなかった色々なことが「OLD JOY」では見えてきて、なかなかに面白い映画体験でした。

リンクはコチラ。

参照記事など

こちらはライカート監督が勤めているバード大学のサイト。ライカート監督関連の記事をサイト内で紹介してくれているので、検索掛けると関連記事を探しやすいです。


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