見出し画像

食にまつわる人と人とのショートショート その1

僕がそのバーに通い始めて半年くらい経った頃、その人と初めて出会った。

「黒ワインくん、この人俺の10年来の友達でNちゃん」

バーで男女を繋ぎ合わせるというのは、バーに通い慣れた人ほどレアなことだと分かるだろう。僕がその店に通って女性を紹介してもらったのはそれが最初で最後だった。

「あら、あなたそれは何を飲んでいるのかしら」

「あ、はい、マティーニを頼みました」

「なかなか素敵なものを飲んでらっしゃるのね。ふふふ」

マティーニは僕がバーで初めて頼んだ酒だった。大学の後輩に連れてきてもらったそのバーで僕はバーカウンターやバックバーに並べられた数々の酒に圧倒されながらも、(こういうところではメニューとか見ずに頼まないといけないんだっけ……マティーニくらいしかカクテルしらねぇや)と思い、頼んだのがその酒だった。

味なんかわかりやしない。濃くて強い酒だった。

(ショートカクテルっていうんだよね、こういうのはすぐ飲まなきゃいけないんだよな……)

大学の後輩はシンガポールスリングを頼んでいた。ラッフルズスタイルで、専用のグラスで出してくれるそのカクテルを飲んでいる彼女はいくぶん大人びて見えた。

その後何を飲んだのかは覚えていない。それくらいマティーニは焼酎の水割りしか飲み慣れていない僕には刺激的だったのだろう。

ある日、別のお店でマティーニを頼んでみた。その店はカクテル飲み放題で、カジュアルなバーだった。店主の趣味がはっきりと表れているような、店内は赤い照明の、どこか葉っぱの香りがしてきそうな店だった。

一口飲んで、あれなんだこれはと思った。

あのときのマティーニと味が違う。確かに一つ一つの構成は多分マティーニだったのだろうけれど、ただ強さだけが目立つ。僕は目を閉じてぐっと息を止めてそれを三口くらいで飲み干して別の酒を頼んだ。

そこから数日して、僕はさきのバーに戻った。そしてマティーニをください、とだけ頼んだ。

「どうぞっ」。そのバーテンダーはちょっとだけ、22歳の僕に合わせてなのかひょうきんな言い方で酒を出す。僕はそれを口にする。

明らかに一つ前の店のマティーニとは違う。一言で言うと「飲める」のだ。その酒は強く、喉をかっと焼くのだが、「飲める」。

僕はたまらずバーテンダーに聞いた。「実はこの店で飲んだ後、別の店で同じマティーニを頼んだら、美味しくなかったんです。でもまたここのマティーニを飲んだら美味しいんです。これってなぜなんですか?」

バーテンダーは、おぅおぅと言いそうな敢えて少し驚いた表情でこう答えた。

「うちはタンカレーとマルティニで作ってるから、それかもしれないですね」

今なら分かるのだけれど、これは最大限その別の店に配慮した回答だった。他店を悪く言うというのは飲食業ならやってはいけない悪魔の所業なのだけれど、「その店は作り方が悪いんですよ。うちはこういうふうに作ってますから」と言ってしまったらダメなのだ。

それを材料にだけ触れて、作り方に触れない。ステアの仕方や氷の選別、もしかしたらグラスの用意(あらかじめ冷やしておくなど)、いくらでもバーテンダーの心づかいというのはそこにはあったはずなのだけれどそれを何も言わずに材料だけ僕に伝えたのは、とても粋な接客だったのだろうと思う。

Nちゃんとマスターに呼ばれていたその女性は僕に興味を持ってくれたようだ。

というのはおこがましい話かもしれない。何も持たない、いち学生が黙ってマティーニを飲んでいただけ。そこに何かあると思う方がおかしいとは思いつつも彼女は僕に話しかけてくれた。

「あなたの好きな言葉を10個挙げてみてよ」

僕はそのあと彼女と10年以上仲良くすることになるのだけれど、Nちゃんは酔うとこうやって人に踏み込んでいく癖がある。普段は絶対に踏み込まない人だけにお酒でタガが外れるのかもしれないと思ったが、誰にでもやるわけではないので何か僕に感じてもらえるものがあったのかもしれないが。

僕は当時哲学書や自己啓発の本を多く読んでいて、その一つを答えたと覚えている。もうどんな言葉だったかは忘れてしまったが、たしか中村天風の言葉だったと思う。

僕の発したその言葉をきっかけに彼女は話し続けた。たぶん飲んでいたのは20時くらいからだったと思うのだが、解散したのは午前5時だった。店の閉店時間だった。

特に連絡先も交換せず僕らは別れた。

「楽しかったわ。長々とお付き合いしてもらってありがとうございました。またね」

と言って彼女は歩いて帰り僕も帰った。

その後僕は彼女と待ち合わせることもないのにそのバーで毎週出会った。

また逢えたらと思う気持ちがなかったわけではない。でもそれが現実になると人は何かしら運命みたいなものを感じるだろう?

マスターが「君ら待ち合わせ?」というくらいに僕らは会っていた。

4回目くらいに会ったときだろうか、彼女が提案した。

「これだけ会うってことは何かあるのかもしれないね。ねぇ、あなたを食事に誘ってもいいかしら。ぜひ連れていきたいイタリアンがあるのよ」

(続く)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?