生贄募集中
皆さんは錯覚とどう向き合ってますか?
人間という生き物は非常に都合のいい思い込みをする生き物です。
「出世できるかもしれなから、今はつらいけどがんばってみよう」
「寝る間を惜しんで絵を描いていれば、私だっていつかは漫画家になれるかもしれない」
これらの錯覚を私たちは「希望」と呼んでいます。私はこのような錯覚と呼ばれるものが長い間アレルギーだったので、今回は錯覚について考えてみました。
錯覚
組織は錯覚を巧みに使用し私たちをやる気にさせようとします。経営理念や今流行のパーパスなんかで現場のやる気は上がらないかもしれませんが、昇進や抜擢をされたときは、受け取る給与に関わらずやる気はあがります。それはこの先の自分の将来に良い未来が待っているのではと、都合の良い錯覚を描くからに他なりません。
幸か不幸か今の社会は、貧しくなっているため錯覚は力を失い、個人主義が共感を多く集めるようになっています。いつまでたっても給与が上がらない現実が私たちの目を覚ましているのでしょう。
投資をして将来に備える。ブラックな会社から離れ、残業の少ない会社に就職する。働いてみてダメだったら転職だ。
個人は善で組織は悪。なるほど、私もアレルギーになるはずだ。
……と考えていました。
しかし、それはどうやら浅慮であったようです。
対称性推論
錯覚について調べてみました。
発達の段階で人間の知能がチンパンジーと大きく乖離する理由に“対称性の推論”と呼ばれるものがあります。
生れたばかりの人間と、チンパンジーにそれぞれ知能テストを行います。実は幼児期までであればチンパンジーは人間よりも知能の面で優れています。しかし、それが逆転する要因が“対称性推論”の有無であるのです。
幼児とチンパンジーにそれぞれカードを見せます。カードには色が描かれており、それに対応した色の積み木がそれぞれ目の前に置かれています。
黄色のカードを見せながら「同じ色を持ってきて」というと、先にチンパンジーが学習し黄色の積み木を持ってくる。幼児は遅れて学習し黄色の積み木に反応できるようになります。
今度は積み木とカードを入れ替えます。積み木を手に取り「同じ色を持ってきて」というと今度は逆転し、幼児だけがすぐに黄色のカードをもってくるのに対し、チンパンジーな何のことかわからず動けません。
なんだ、人間はやっぱりサルとちがって賢いな、などと思ってはいけません。
対称性推論とはAはBである場合、BはAであると推論する事なのですが、これは論理的に間違っています。現実世界においては大体がA≒B(ほとんど等しい)なのです
ペンギンは鳥であるは成り立ちますが、鳥は必ずしもペンギンであるわけではありません。その点で論理的な思考が出来ているのはむしろチンパンジーの方です。
対称性推論をあらゆるものに当てはめてしまう人間という生き物は、間違った思い込みをしてしまう構造を体内に飼っているともいえるわけです。
これが錯覚です。
私たちの身体の半分は錯覚で出来ているのです。宗教も映画も占いも政治家の公約も全て錯覚です。
素敵な映画を見てふわふわした気持ちになっても、明日の仕事。つまり現実を思い出すとその空気が瞬間吹き飛ばされるという経験をしたことがある人は少なくないでしょう。錯覚は現実の私たちを直接助けてはくれません。
それでも人間が生きて行く上で必要でした。
あのサバンナの先の森にはより多くの木の実があるに“違いない”
南の森の方が今より安全に暮らせるに“違いない”
そんな思い込みが人間を発展させてきたのです。この錯覚は人間の拡張性を示しているとは思いませんか? 病気になったら悪魔が憑りついているのでお祈りをしなければいけないという、愚かな対称性推論を用いたシャーマニズムも、現代の医学の先駆けである事は否定できません。
人間は誤り続けることを代償に創造性を手にし、それは科学と呼ばれるようになってきたのです。鳥のように空を飛びたいと願い、魚のように深海に行きたいと願う。そんな想像力も同じです。その果てに月に人を押し上げることに成功したと考えるのは思考の飛躍だとは思いません。
生起
目的があり行動を起こす。一揆や革命を起こす。このような場面に活躍するのが「大義」という錯覚です。ナポレオン戦争以降貴族や兵隊が国を守るという考えは失われ、近代国家の多くで国民皆兵が採用されました。だからこそ大義という錯覚を用いて、国民に戦う必要性を与える。いつだって人は錯覚に振り回されてきました。
これらを考えるのであれば、錯覚とは人の対称性推論という逃れられない習性を上手く利用する効果的な手段です。まるで虫をおびき寄せる光ですね。
戦争に勝利したから、新しい生活になるのでしょうか。つまり、錯覚の果てに変化が約束されているのかという事です。現実ではそのようなことと関係なく変化は生まれ『文化、概念、存在』は誕生してきました。
20世紀を代表するドイツの哲学者 マルティン・ハイデガーが生んだ生起という概念があります。これによると存在はなんとなく生成するというのです。
これを知った時まるで心臓を強く握られたような衝撃でした。今まで人生の言語化しきれなかった言葉がこれだったからです。
目的を持ち、行動を起こすことと、物事を達成する事には大きな隔たりがあると感じていました。それは見えない第3の要素が影響していたり、仮説と結果の間に実際は相関関係が無かったためであったりするからです。ジョブズも最初からiPhoneをつくろうと思って会社を立ち上げたわけではないのです。
極端な例をいうのならばたとえ国が崩壊しても、明日食べるパンや近所の顔ぶれが変わらなければすぐ変化は起こりません。本当の改革とはほとんど気づかれないまま漸進的なアップデートを繰り返し、いつのまにか別物になっているものなのです。分かりやすい『革命』とやらは大体が仕組まれ民衆を楽しませるためのショーであり、だれかが用意してくれた錯覚の落としどころなのです。
重ねて言葉を使いますが、存在はなんとなく生成します。
youtube誕生した当初からyoutuberになりたいという強い目的意識で動画投稿を行っていた人がいるでしょうか? 先駆者はいつだって“いつの間にかそうよばれている”のです。政治であっても企業のような組織体であっても、このような現象はかつて何度も目にしてきました。錯覚と変化が分かりやすく結びつくことは稀なのです。これが私たちの現実がいつまでたっても苦しい理由とも言えます。
生贄
43歳頃を境にサラリーマンのエンゲージ率。つまり仕事に没頭してくれる割合は二極化していきます。これは半数の人にとって錯覚が現実と折り合いをつけ始め「これ以上頑張ってもどうせ俺は……」という気持ちになるからだと分析されています。完全に錯覚がきえてしまっていますね。
ここで問いです。仮にあなたがその43歳サラリーマン平社員だったとしましょう。自分に置き換えて考えてみてください。労働環境は厳しく出世も難しい。けれど、転職に有効なスキルもないし、業界ではまだましなほうだから退職する必要もあまり感じない。
もうその人生に意味はありませんか?
言葉を変えましょうか。
あなたの人生にもう錯覚は必要ありませんか?
個人は組織の礎になった方がいいというわけではありません。自分の待遇や貯金残高ばかりを気にする人生の方が、生きる目的を失う可能性があると危惧しているのです。
錯覚は現実を変える為に必要な時があります。
大局的な視点を持っていないと、とても取り組めないもの。例えば科学の進歩であるとか、国の変革であるとか、そういったものはこのような錯覚と生起の力によって支えられているのです。
個人の視点で見るのならば、錯覚は結局のところ人をいいように扱ってきました。200年前にいつか月行きたいと本気で願い研究した名もなき人は、生涯月には行けなかったでしょう。失意の中人生を閉じたかもしれません。
しかし、そのような錯覚は蓄積するのです。
「月に行きたい」という巨大な穴の中に錯覚に誘導された人が吸い込まれ積み上げられていきます。私たちが目にするのはいつもその穴から蓄積があふれた時。つまり人の力が形になり月に着陸した瞬間ばかりにフォーカスするのです。みんな屍になり道をつくっているというのにです。
より良い未来を子供たちに用意したい。私にはそんな個人的な偏った動機が存在します。言葉にしてみると随分気持ちが悪く、うさん臭いですね。まあいいです。
とにかく、このまま個人最適化の社会を選択し続けるのであれば、将来の選択肢は今よりも貧しいものになるようで怖いのです。なぜなら蓄積が途切れてしまえば、科学や企業といった重要なマクロ領域が弱体化していくと予想されるからです。情報不全であった一昔前は、生贄がいくらでもつくれましたが、SNSがある現在では難しいでしょう。
人類には元々役割がありました。それは現在の神経症傾向に受け継がれています。元々感覚が多数派の人間は現実的な問題を解決し、生活に反映する力を。少数派の人たちは多数派が行き詰まらないように、周りとちがう事をして開拓していくのです。多数派の為の少数派。それを犠牲にして多数派はより繫栄しその中から一定割合で少数派が誕生する。人とは本来そのような生き物です。
苦しく、現実は変わらず、泥水を啜り、そして死ぬまで星を見上げる人生。
それでも人間の人生とは少しずつ波紋を生み、特定の領域において人生をかけて取り組んだものは蓄積していくのです。
人生の意味は苦しみの中でこそ生まれると何かの論文で読んだことがあります。たとえ組織に役割が無くても。とても荒唐無稽なことであっても。どれだけ離れた人に対してであっても。思いが続く限り蓄積するのです。
「ここは俺に任せて先にいけ」
アニメでよくあるシーンです。宿敵はこの奥にいるのに、多くの敵が道を遮る。そんな時仲間が主人公を先に行かせるために言うセリフです。
勝利なんて確信してません。勝つときもあれば、自爆で道連れにするパターンもありますよね。全ての人がこの役割を嫌ってしまったら、とてもラスボスまでたどり着けません。
私はつい夢想してしまいます。
こんな私でもそうなれるのではないかと。そして、私の横に誰かが立ってくれるのではないかと夢見てしまうのです。その人は私と同じように現実に打ちのめされ、錯覚という生きていくのに必要な半身を失っているかもしれません。けれど熱を持って生きたら半身の錯覚は蘇り、人生はそのまま人類に蓄積していきます。
自分のためだけに生きるより人の為に生きて欲しい。それは人類の生贄と呼べるかもしれません。