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いじめのディストピア構想

何も私自身こんな重いテーマで記事を書きたいわけではないのです。出来ればふとんで簀巻きにして部屋の隅に放っておいてほしい。そしてそのくるまったぬくもりの中で一生を終えたいです。

けれど、こういう記事を書くことで人生において重要な事へのスタンスが明確になる気がするのです。当事者意識の希薄化は最終的に悪を生み出します。弱者に対して正しい理解もせずに放置してしまうと、その捨てられた人は犯罪を犯す可能性が高まります。当事者意識は実際関わることで身に付くのですが、さすがに現実的ではありません。とすれば知識の啓蒙が一番でしょう。世界平和の為に筆をとりましょうとも。嫌ですが。

いじめ、ハラスメント、差別。これらがまずはどのような構造から生起し、表面化するのかを調べてみました。
いじめとハラスメントは似ていますが、ここでは正確性を優先する為にわけて考えます。まずはいじめのメカニズムから。

その為に感覚処理感受性理論について考えてみましょう。感覚処理感受性とは人間の五感である『視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚』にそれぞれパラメータが割り振られており、個性に繋がるという理論です。
それは笑いのツボが違ったり、好きな遊びが違ったりという個性の広がりをもたらしてくれます。これだけ聞くと人の個性は千差万別で多様であるように感じます。ここに一つ目の落とし穴があるのです。

人間の個性はマジョリティとマイノリティに分断されているということです。人の個性とは現実問題、限定的なのです。なぜなら教育や環境が投影されていくため、時代やその時の役割によって決定していきます。世界に適合できた感性を持ったものがマジョリティで、上手く適合できなかった感性を持ったものがマイノリティです。そして、マイノリティであるにも関わらず生き残るために知能を使いマジョリティのふりをする、歪な人間性をもったイレギュラーも発生します。これが私です。

人間の社会を形成する文化圏は多くありません。代表的なものは国ですが、最小のものであればそれは家庭です。その次に私たちが参加する文化圏とは学校の『クラス』です。

人間には内集団バイアスと呼ばれるものが存在します。本当は自分だけを特別な存在であると思いたいのですが、子供のうちでそこまで極端な卓越性を手に入れる事がそもそも稀です。そのため、自分の身の周りにいる集団メンバーを高く評価したり、好意に感じたりするようになるのです。この内集団バイアスの元になっているのは、私たちの身体にあるオキシトシンと呼ばれるホルモンが原因です。オキシトシンは安らぎを与えてくれるホルモンであると同時に、敵に対して攻撃性が高くなるという特性がある為であると考えられています。別名母性のホルモンです。
例えばいじめは学費が高い私立よりも安い公立で起こることが分かっています。これだけ聞くと「庶民はなんて野蛮なのでしょう」と貴族のつぶやきが聞こえてきそうですが、実のところ親の収入が相関しているわけではないのです。学費が高いグループではそもそも自然と同じような属性が集まることで不具合が起こりづらいと考えられています。最初から同一化されている内集団ではいじめは起きづらいということなのです。

そして、その内集団バイアスをもった集団は、偏見を持ちます。そのきっかけとなるのが「マイノリティ特性」です。

まず前提として虐められる側に問題はありません。しかし要因はあるという事なのです。吃音、LGBTQ、虐待経験、発達障害、海外出身者、口数が少ない、落ち着きがない等。これらは内集団バイアスを持つ特定の道徳観にとって敵となる。故に攻撃を開始するのです。

直接的な攻撃をされなくても、子供は繊細です。その経験は心に致命傷を負わせることだってあります。
体育に授業で二人一組になる時にいつも自分だけ余って先生と組む。友達だと思っていた子が自分のモノマネをしてクラスの他の友達を笑わせていた。これらは身体に深い傷を負うのと同じメカニズムで脳を傷つけます。それらは全て内集団バイアスから生まれているのです。

裏を返せば、特定の集団が「そう思い込んでいるだけ」なので転校は実際良い解決策です。いじめる集団にとってマイノリティでさえあれば理由はなんでもいいのです。例えば“贅沢な経験”でさえいじめの理由になったりします。そうかと思えば、海外出身というマイノリティが転校したら特別な存在として受け入れられることだって珍しくありません。

ここで知らなければならない残酷な現実とは、世界のルールを作っているのはマジョリティであり、言語を使う人間であればその毒に思想をいくらかのっとられているという事なのです。例えばホームレスを見かけたとしましょう。心の中で「働けよ!」とか思ってませんか? もしくは「自業自得なんだろうな」とか。そうではなくとも避けて通ったりするのでは? なぜ? その人の話を聞かなければ事情も知ることもできないのに? 合理的な説明が出来ますか?

このような心の現象を心理学者であるメルビン・ケーラーは「公正世界仮説」とよびます。マジョリティが作ってきたルールでは、ふさわしい行動をしていれば欲しいものが手に入り、嫌な事を遠ざけることができると思い込んでしまいます。自分の運命を決定づけるのはいつだって他人なのにも関わらずです。

それではいじめに話を戻しましょう。このような事例があります。被害にあったのは一人の少年です。

脚をかけて転ばされる。腹を殴られる。眼鏡を奪われる。成績カードを破られる。馬乗りになって顔を強く殴られる。上履きのまま顔を踏みつけられる。頭に消しゴムのカスをかけられる。プリントを強引に口の中に入れられる。自殺の練習を迫られる。担任も対応しない。パンを盗んで食べられる。クラスを巻き込み暴言を吐く。部屋を荒らされる。

この少年は自殺しました。
この少年が受けたいじめは全て犯罪です。刑法208条の暴行罪に当たります。他人を殴ったり、身体に危害を加えた場合罰金や科料を支払う事が定められています。もし相手が怪我や病気を負った場合は傷害罪となり二年以下の懲役もしくは30万以下の罰金となるのです。
実際いじめの現場でも法務省人権擁護局と警察が介入すると抑止効果が大きくでます。学校のような閉鎖的な場ではこのような外部を力を使う事で解決に向かいます。一方悪手と呼ばれるのは、いじめている子の親と対峙することです。こうなると解決は遠のくばかりか、被害を大きくする可能性だって出てきてしまうからです。

このような犯罪を『いじめ』と呼ぶことはキッズコミュニティの過小評価なのではないでしょうか。少なくとも人間の脳は10歳頃に完成し、知識が無いだけで合理性や推論は大人と同様の機能を持ち得ているのです。コミュニティサイズや問題価値は「大人にとって」とるに足らないと言うだけで判断してしまう事が、一番の問題な気がします。

ハラスメントはもう少し違う考え方です。内集団バイアスが起点であることは間違いありませんが、2つ以上の立場、思想、集団の対立が「欠陥・不合理・矛盾」を生むことで発生しまう。セクハラに例えると、被害者は部下で女性、加害者は上司という役割の男性であった場合、個別の事情や固有名詞は取り外され議論されるのです。
これのような対立を社会問題と呼ぶのです。ハラスメントは今や50種類以上もあります。これは悪が増えたわけでも、対立が生まれたわけでもありません。悪の概念が増えただけです。この場合もいじめと同様の解決策であり、ソーシャルサポートを使用し自衛手段をとるか、組織から離脱するかです。

差別とは内集団を優位にしようとしたものです。相手を攻撃するという点が目立ちますが、差別の根底にあるのは自分たちの優位性を示すことです。これは集団同士が協力することでしか解決に向かわず、人種のような母集団が巨大な場合意思統一は不可能に近いため、人類が抱え続ける難問であると言わざるを得ないでしょう。

それは私が先ほど公正世界仮説で述べたマジョリティ思想の浸食と同様に、すでに集団の中でしみこんでいます。
シカゴ大学 マリアンヌ・バートランド博士とハーバード大学のセンディール・ムライナサン博士の共同研究でそれについて語られていました。
実験では事務、顧客サービス、営業の求人広告に5000通の履歴書を送ったのです。履歴書は2パターン用意しました。経歴や視覚の質が高いものと低いもの。また、名前も2パターンで白人系の名前とアフリカ系の名前を用意しました。結果、同じ条件であった場合アフリカ系は白人系に比べて連絡が50%少なかったのです。驚くことに経歴の質を上げてもそれは同様でした。
内集団における最適化の流れでは、判断基準の形成とシナプスの発達が密接に関わり構築されています。これが差別を生んでいるのだとするならば書き換えは困難であり、個人に対してですら長い年月を必要とするでしょう。

マイノリティを生贄に作られた世界であっても、空は美しい。そのことがひどく残念です。また、マジョリティの意識改革や知識啓蒙に頼るのも情けなく感じます。世界を構成するゲームのルールチェンジだけが攻略法ではないはずです。

どれだけ教育が進んだとしても、人とのつながりを希薄にするしか多様性を受け入れる土壌を作るとこはできず、それは人々から熱を奪っていくのもまた事実です。どれだけ道徳的に正しくても、前科者だけのアパートに住みたいとは思わないのが人間です。

現実行われている、いじめ、ハラスメントに対する対応は正しいと感じています。きっとこの気が遠くなるほどのマイナーチェンジが世界の形を変えていくのでしょう。
それをユートピアと呼ぶのか。それともディストピアだと嘆くのか。
未来を見てみたいものです。

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