入管法改定案廃案を求める署名活動に署名しました。その考えについて。

 入管法改定案廃案を求める署名活動に署名しました。以下署名をするにあたって考えたことを記します。

 まず入管(出入国在留管理庁、以下入管)に元々問題があるというのは、これはそうだと思う。大問題だと思い続けている。けれども、入管、あるいはそれを管轄する法務省、あるいは政府、といった権力を批判することには私は最近無力さを感じている、というよりもその役割を担う、オルタナティブなものも含めたメディアの役割、責任が大きいと感じる。しかし、メディアにいる人たちも含め、一人ひとりが市民であり、行動者であるし、そうあったほうがいいと思っている。話は逸れるが、外国人技能実習制度に関するエラーなどについても、そもそもなぜ来なければならないか、は中々問われない。これはしかし、市民社会の側で考えなければならないことだ。メディアは権力を批判するのが役割の一つだし、制度も批判する。しかしなぜその制度が必要なのか、状況を改善するのには何が必要なのか。それに対しての応答は、メディアが行う批判、あるいは賛同に乗じることではなく、市民社会の側で導いていかなければならないことなのだと思う。
 前段はここまでとして、今回の入管法改正について、移民(と日本政府は定義しないが)の人、つまりその多くが南北問題があるが故に日本へ働きに来る人と、何らかの方法で日本へやってきて、滞在期間を過ぎた後に難民申請をする人、つまり母国を追われやむをえず日本に来る人(以下「難民」とします、一般的な難民として書いた場所は「」を外しています)は一旦分けて考えなければならない。そして、この改定案でより問題が顕在化しているのでは、移民から不法滞在になった人たちに対してのこと以上に、「難民」の人たちについての問題がウエイトが大きいのではないかと考えている。難民を巡っては国と国の問題が発生する。難民というのは母国の国家が守ることができない人、だと考えるときにそれを受け入れる側の国家にも、その国家の都合が存在する。しかし、この改正では、その真意、つまり「難民」の人たちの人権が危ぶまれる状況を作り出す真意が掴めないのが気持ち悪いのと、国家に守られない人を市民社会で守る、ということも、今回の改正で取り入れられる「送還忌避罪」の導入によって難しくなってしまうことがわかった。というよりも市民社会で太刀打ちできない問題へと昇華されてしまう法案だと理解した。(私と「難民」の方との接点は現状持てていません。「難民」の方を対象にしたNPOなどの組織がありますが、そうした組織が担える役割もこの改正で縮小してしまうかもしれません。)
 そもそも後者の人たち、「難民」は日本の社会福祉の枠の中には全く入ることができていない。ではなぜそういう不利な条件がありながら来る「難民」の人達がいるのか、このことについて、ビザがいらないこととか、既にある伝手を辿ったとか、いくつか原因は考えられるけれども、その実状について私はよく分かっていないのが正直なところだ。よく分かっていないし、ではなぜ日本国はその人たちを難民として認定したがらないのか、その真意も理解するのが難しい。国家がやらないのであれば市民社会がやればいい、やるべきだと思う問題も最近は色々とあるけれども、このような国際的な問題、国としての枠組みで動かないといけない問題については市民社会が出来ることは残念ながら限られてしまっていると思う。(他には例えば平和安全法制など)しかし、そのような問題であったとしても、すごく距離が遠いものの、例えばなぜ難民は生まれてしまうのか、そこに日本が直接的に加担していることがなかったとしても、間接的、構造的に加担してしまっていることは何であるのか、など、考えて、実践することは出来るのだと思うし、またそれに繋がるようなアクションを起こしていく必要がある。
 また、組織体制の問題点への指摘として、入管は戦前の特高警察の流れを組む、ということも分かった。それ故、現在もなお入管には、特高警察のような隠蔽体質を持った組織体質があるのでは、と指摘する記事や、戦前の在日外国人への差別意識をそのまま引き継いでしまっているのでは、と指摘する記事を見た。入管だけでなく、例えば文部省、今の文科省だったり、戦前に問題が顕在化した組織体質、権力構造が引き継がれてしまっている組織というのは色々あるのだと思う。ただ冒頭にも書いたとおり、ここへの批判を市民社会の側からするのには無力感が伴うし、一市民としてはそういった指摘よりも、今回の改正案をもって改めて、難民がなぜ発生してしまうのかという遠い問題から自らに翻って考えることと、人権上問題が発生すると専門家から指摘されている法案に対して反対する、ことができることだというのが正直なところだ。
 入管側の言い分はどうだろうか。入管側の発表している今回の改正案についてのQ&Aの記事があったのでこれを読んでみた。気になったのは、入国警備官とは別の主任審査官が収容について判断する、とあるものの、結局入管の中だけで完結してしまう仕組みづくり(司法の判断を仰がない)というのはどうなのだろうということだった。ここで三権分立の話を持ち出すのは適当ではないかもしれないが、権力を分散して相互に監視しバランスを保つ、ということが日本国憲法の中で適当とされている中で、一個人の人権に関わる事象が一つの組織の中だけで完結してしまうことは適当なことなのだろうか。と思ったら、それについて、弁護士の方の見解も交えて指摘している記事があった。これによると、今回の改正についての批判で多く取り上げられている、名古屋入国管理局で起きた死亡事故で亡くなった、スリランカ人の女性、ウィシュマ・サンダマリさんの仮放免を不許可にしたのは主任審査官だったそうだ。そのことから考えると、上記の入管のページには「退去すべき外国人は、収容されることに不服があれば、行政訴訟を提起して、裁判所の判断を仰ぐことができます」と書いてはあるものの、収容するかどうか主任審査官に全権を委託してしまうことはやはり問題があるのではないか。この記事では、他にもいくつかの指摘、批判がなされている。
 最後に、喫緊の問題で言えばミャンマーの情勢を考えれば、今後難民になってしまった人たちが日本に来る、ということがあるかもしれない。既に技能実習制度や特定技能の制度などで馴染みもある程度ある国だけに、日本を選びたい、という人たちもいるだろう。今日既にこの時点まででミャンマーの人たちにも一労働力として頼ってきた日本として、ではその人たちが困った時には厳格な態度を取らざるを得ません、というのは心情的に受け入れがたい、というのも付け加えておきたい。ただし、これは国家と国家の問題として、無制限に難民の人を受け入れることが出来ない以上、どこで制限をかけるのかという問題は別に存在するし、今回この記事を書くにあたって参照したChooseLifeProjectの動画の議論を見た中ではそういうことへの議論の強度は薄いように感じた。

 ここまでのことを踏まえて、少ない材料ではあるけれども、現状の入管法改定案には問題があると考え、私は入管法改定案の廃案を求める署名活動に署名した。こういう署名はどこまで考えられたら署名したらいいものか、毎回悩む。それでも署名したのは、国家としての難民受け入れの戦略はあるだろうとは思いつつ、改正案についてのデメリットが大きいと感じたためであり、またそもそも市民社会でどうこうできるという性質のものではなく(距離が遠く)、今現状ある状況に対して反対の声をあげることしか出来ることがないと判断したためだ。及び、入管施設内で起こる色々な事件に対して、元々入管への不信感と問題意識があり、今回の改正案がその状況を改善するのではなくむしろ悪化させる、という指摘がいくつもなされている状況を見たから、ということでもある。

 なお、以下は移民の人に対して思ったこととしての下書きだ。最初は本文で絡めて書くつもりだったのだが、しかし、この文章は今回の改正で問題となっている「難民」の人についての議論とは、根本的には繋がっていても、多くの部分はずれるし、分けたほうがいい問題かと思ったので、本文から外した。
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 では沢山の外国の人を受け入れて、多様化、多文化共生化をひたすら進めるのがよいことなのだろうか。最近私はそうではないのではないかということを考え始めた。そもそも多くの外国の人(とりわけアジア圏の人)が日本に来る動機となる南北問題について考えるとき、その根本的な解決のためには個人の自由化をひたすら追い求めるのではなく、ある程度の共同体の再構築、あるいは新たな概念の共同体の構築が必要だと考えるようになった。だが、すでに日本社会ではある程度の多様化、多文化共生化は進んでいる。その段階として考えないといけない。共同体が崩壊し個人化され多様化され、外国人の人たちを多く受け入れている、という流れが既に相当数進んでいる中で、ゼロベースからは問い直せないので、現状に対応しつつそもそも論を考える必要がある。しかしながら、そもそもの問い直しをせず、多文化共生は既定路線、という意見、言い回しについてはどうかなと思うところがある。例えば上記ChooseLifeProjectの動画の1時間13分頃から望月衣塑子記者はこう述べている。「今の日本は、菅政権、安倍前政権も含めて、若手の働ける人口がどんどん減っている、外国の方にどんどんどんどん特定技能とか留学生とか来てください、働いてくださいということをずっとやってるんですね。(中略)私達はいわゆる先進国としてもそうですし、外国の方たちといかに共有して彼らの権利、人権っていうのを守りながら一緒に共生していくのかっていうことを、日本はもうやはりみんなで考えていかなきゃいけない時代に確実に入ってるんですね。」この言い回しについて、私は半分は賛成、つまり今の日本の既に受け入れている状況に対しては賛成だけれども、もう半分は反対だ。その理由は、一つは政権を主語にしているけれどもそうしないと成り立たなくしている原因は市民社会のあり方にあると思うからであり、もう一つはこれからどうしていくかということについての問いかけがなく、既にある南北問題についての認識を問うことのないまま共生していこうとすることにこの入管法改正の議論も絡め取られてしまうから、と思うからだ。
 とするならば、既にいる人も含めこれからもしばらくは増え続けるであろう、日本に来る外国人の人たちをどう地域社会の中で受け入れるかの議論と実践、およびそもそもの南北問題の解消に向けて自分たちは何ができるかの議論と実践、の両輪が必要だと考えている。
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