[その1]第二バチカン公会議の革命が、どのようにして新世界秩序に奉仕しているのか(10月24日)
責任を他に押し付けるフランシスコ
カトリック・アイデンティティー・カンファレンス
2020年10月24日
教皇大使カルロ・マリア・ヴィガノ大司教
「私に従え。死人は死人に葬らせておけ」
マテオ8章22節
1.私たちは特別な時代に生きている
私たち一人一人がおそらく理解しているように、私たちは自分が時の中で歴史的瞬間にいることを知っています。かつてはつながっていなかったように見えた過去の事件が、今では、その事件が起こるように仕向けた原理と、その原理が達成しようとしている目標の両方で、紛れもなくつながっていることを証明しています。
現在の状況を公平かつ客観的に見れば、世界的な政治的枠組みの進化と、カトリック教会が「新世界秩序」(New World Order)の確立において担ってきた役割との間に完全な一貫性があるのを把握せずにはいられません。もっと正確に言えば、教会の中の見かけ上の多数派 --- 実際には数は少ないものの非常に権力を持っている --- の役割について話すべきであり、それを私は、簡潔に言うために、「ディープ・チャーチ(deep church)」と要約します。
明らかなことですが、二つの教会がある訳ではありません。【そうだったとしたらそれは】何かありえないようなこと、冒涜的で異端的なことです。
また、キリストの唯一のまことの教会が今日、その使命を果たしておらず、一つのカルトに変質したという訳でもありません。キリストの教会は、過去60年間、教会を占拠する計画を実行している人々とは何の関係もありません。カトリックの位階階級と「ディープ・チャーチ」のメンバーが重なっていることは、神学的事実ではなく、むしろ通常の範疇(カテゴリー)を無視した歴史的現実であり、そのようなものとして分析しなければなりません。
私たちは、「新世界秩序」プロジェクトがフリーメーソンによる専制政治の確立であることを知っています。フランス革命、啓蒙の時代、カトリック君主制の終焉、教会への宣戦布告にまでさかのぼるプロジェクトです。新世界秩序とはキリスト教社会のアンチテーゼであり、光と闇、善と悪、天主とサタンの間の永遠の闘争において、「Civitas Dei(天主の国)」に対抗して悪魔的な「Civitas Diaboli(悪魔の国)」を実現することだと言うことができます。
この戦いにおいて、御摂理はキリストの教会、特に教皇を「カテコン」(kathekon)、すなわち、「罪悪の奥義」の現れをとどめているものとして位置づけました(テサロニケ後書2章6-7節)。そして聖書は、反キリストが現れる時には、この障害物である「カテコン」は存在するのをやめる、と私たちに警告しています。「カテコン」という勇敢なとどめるものがなくなることによって「罪悪の奥義」が世界中に広がったため、終わりの時が私たちの目の前に近づいているということが明らかだと私には思われます。
[天主の国と悪魔の国との間の両立不可能性に関して、フランシスコのイエズス会士の顧問であるアントニオ・スパダロは、聖書と聖伝を脇に置いて、ベルゴリオの「ハグしよう」(embrassons-nous)を自らの意見にしています。このイエズス会総合雑誌「ラ・チビルタ・カットリカ」の編集長スパダロによると、回勅「フラテッリ・トゥッティ(Fratelli Tutti)」は、
「また、強い政治的価値を持つメッセージであることも変わりはありません。なぜなら、それ【回勅】は、今日広く普及している黙示録の論理をくつがえすものだ、と私たちは言うことができるからです。黙示録の論理は、この世と戦う原理主義者の論理です。なぜなら、この論理は、この世が天主の反対、つまり偶像であり、それゆえに、時の終わりを早めるために、できるだけ早く破壊されるべきだと信じているからです。黙示録の深淵、事実、その前では兄弟は存在しなく、あるのは時に"逆らう"背教者あるいは殉教者だけとされます。[…]私たちは戦士でも背教者でもなく、みな兄弟なのです」。[1]
「教義完璧主義者 integralist」という非難【のレッテル】で対話相手の信用を失墜させるこの戦略は、明らかに教会内での敵の行動を容易にし、反対意見を無力化して異議を思いとどまらせようとすることを目的としています。
世俗の領域でもこれは見られます。世俗分野では、民主党と「ディープ・ステート」が、誰に政治的正統性を与えるか、また、上訴の余地のないメディアの村八分に誰を付すかを決める権利を自分たちのものにしているからです。方法はいつも同じです。なぜなら、インスピレーションを与えるものが同じだからです。ちょうど歴史と情報源の改竄がいつも同じであるようにです。もし過去が革命の物語を否定するならば、革命の信奉者たちは過去を検閲し、歴史的事実を神話に置き換えます。
聖フランシスコでさえも、清貧と平和主義の旗持ちとするような歪曲の犠牲者です。しかし、清貧と平和主義が支配のためのイデオロギーの道具としてあるかぎり、それらはカトリック正統の精神とは無縁です。これの証拠は、対話、エキュメニズム、およびベルゴリオの反教会の普遍的な兄弟愛を正当化するために、「フラテッリ・トゥッティ」の中で、アッシジの貧者(Poverello)に最後に、詐欺的に頼っていることです。
私たちは、現在の起きていることを「正常」として提示して、そのような正常性が前提としているであろう法的、教会法的、社会学的な補助変数(パラメーター)を用いて、今起こっていることを判断するという過ちを犯さないようにしましょう。異常な時代には、そして現在の教会の危機は確かに異常なものですが、起こっていることは、私たちの先祖たちが知っていた普通のことをはるかに超えています。
異常な時代には、一教皇が信者を欺く、と聞くこともありえますし、教会のプリンス【枢機卿】たちが、他の時代であれば恐怖を呼び起こし、厳しい罰を受けていたであろう犯罪で告発されるのを見ることさえありえますし、クランマー【元カトリック・カンタベリー大主教トマス・クランマー。プロテスタント化を推し進めた英国の宗教改革の指導者】の倒錯した心が発明したと思われる典礼の儀式を、私たちのカトリック教会で目撃すること【新しいミサのこと】もありえますし、高位聖職者たちが聖ペトロ大聖堂の中にパチャママという不浄な偶像を持ち込むのを見ることもありえますし、一人のカトリック教徒が勇気を持ってその像をテベレ川に投げ込むと、キリストの代理者が、その「偶像」(simulacrum)を礼拝する者たちに謝罪するのを聞くこともありえます。
この異常な時代には、陰謀家の一人であるゴットフリート・ダンネルス枢機卿がこう語るのを私たちは聞くこともあります。彼によれば、ヨハネ・パウロ二世の死後、「ザンクト・ガレン・マフィア(Mafia of St. Gallen)」が、自分たちのうちの一人 ---- 後にホルヘ・マリオ・ベルゴリオのことであると判明する ----- をペトロの座に選出しようと画策していた、と。この当惑させる事実の判明に直面しても、枢機卿たちも司教たちも憤りをあらわにせず、真相を明らかにすることを求めなかったことに私たちは驚くかもしれません。
[イスカリオトのユダの裏切りに始まる教会の地上で起こった事件には、常に善と悪、聖人と呪われた者が教会の体の中で共存してきました。そして、実に重要なことは、反教会がユダを、そして彼とともに最悪の異端者たちを、「反聖人」や「反殉教者」の模範として復帰させようとし、それによって自分たちの異端、不道徳、悪徳を正当化しようとしていることです。私が言いたいのは、福音が「麦と毒麦のたとえ」で語っている善人と悪人の共存は、前者より後者の方が優勢に変化してしまっているということです。その違いは、かつては軽蔑されていた悪徳や逸脱が、今日では実践され、大目に見られるだけでなく、さらに励まされ、称賛されるまでになっている一方で、聖徳やキリストの教えに対する忠実さは軽蔑され、あざけられ、さらに非難されるまでになっていることです。]
2.まことの教会の日食
60 年間、私たちは、反教会によって、まことの教会が日食のように覆い隠されていくのを目の当たりにしてきました。反教会は、教会の名前を次々に横領して、ローマ教皇庁やその部署、教区や小教区、神学校や大学、女子修道会や男子修道会をますます占拠してきました。反教会は教会の権威を奪い、反教会の聖職者たちは教会の聖なる祭服を身につけています。反教会は教会の名声と権力を利用して、教会の宝、資産、予算を簒奪しているのです。
自然界で起こるように、この日食は一度に起こるのではありません。太陽と私たちの間に天体が入り込むと、光から闇へと変化していきます。これは、比較的ゆっくりではあるものの止められない過程であり、その際に、反教会という月が太陽と重なるまで軌道をたどり、地球の上にかかる円錐形の影を発生させます。私たちは今、この教理的、道徳的、典礼的、規律的な円錐形の影の中に身を置いています。これは、反キリストの統治の下、時の終わりに私たちが見ることになる皆既日食ではありません。しかし、これは「部分」日食であって、月がつくり出した黒い円盤を取り囲んでいる輝く太陽の冠を私たちに見せてくれます。
今日の教会の日食に至る過程は、間違いなく近代主義から始まりました。反教会は、その段階では真理の輝きをもって光を放っていた教導職による荘厳な排斥にもかかわらず、自らの軌道に沿って進みました。しかし、第二バチカン公会議で、この偽りの存在による闇が教会を覆うようになりました。最初はごく一部しか見えなかったものの、闇は次第に大きくなっていきました。
その後、太陽を指さして、月が確実に太陽を覆い隠していくだろうと推論した人は誰もが、無知と偏見から生じるその種の狂信と不摂生によって、「不吉なことを言う預言者」であるとの非難を受けました。マルセル・ルフェーブル大司教と他の数人の高位聖職者たちのケースは、一方では、これらの牧者たちの先見の明、他方では、彼らの敵対者たちのバラバラな反応を裏付けています。この敵対者たちは権力を失うことを恐れて、あらゆる権限を使って証拠を否認し、自分たちの真意を隠したままにしたのです。
たとえを続けると、信仰の天空では、日食は稀で通常を超えた現象であると言えます。しかし、日食の間に闇が広がること --- 通常の状況では起こらないことであることから --- これを否定することは、教会の不可崩壊性(indefectibility)に対する信仰のしるしではなく、むしろ証拠を頑なに否定すること、すなわち不誠実(bad faith)です。
キリストの約束によって、聖なる教会は決して「地獄の門」に打ち勝たれることはありませんが、だからと言って、教会が、地獄からの「教会の偽物」によって、覆われることはないだろう --- あるいはまだ覆われていない --- ということを意味するのではありません。この偽物とは、私たちが、「黙示録の婦人」の足の下に --- 偶然ではなく --- 見ているあの月です。「壮大なしるしが天に現れた。太陽に包まれた婦人があり、その足の下に月があり、その頭に十二の星の冠をいただいていた」(黙示録12章1節)。
あらゆる変化(mutability)に超越してあり、あらゆる地上の腐敗の上にあり、運命の法則および「この世の精神」の国の上にいる婦人の足の下に、月があります。この婦人は、至聖なるマリアの象徴であると同時に教会の象徴でもあり、キリストである正義の太陽に包まれ(amicta sole)、「キリストの不変性の神秘にあずかっているがゆえに、あらゆる悪魔の力から免れている」(聖アンブロジオ)からです。婦人は無傷のままです。婦人の戦闘の国では無傷ではなくとも、煉獄での苦しみの国でも、楽園での凱旋の国でも無傷のままです。聖ヒエロニモは、聖書の言葉について語りつつ、「地獄の門とは、罪と悪徳、特に異端者の教えのことである」と私たちに思い起こさせてくれます。それゆえに、近代主義やその最新の公会議版近代主義に代表される「すべての異端の教えの総合」さえも、キリストの花嫁の輝きを完全に覆い隠すことは決してできず、それができるのは、御摂理がその無限の知恵によってさらに素晴らしい善を引き出すためにお許しになった日食の短い期間だけだということが私たちには分かります。
3.超自然的次元の放棄
この講話では、特に第二バチカン公会議の革命と新世界秩序の確立との関係を扱いたいと思います。この分析の中心的な要素は、教会の超自然的な次元とその終末論的な役割を、教会を構成する位階階級の部分が、そのトップでさえも、放棄したことを強調することにあります。公会議によって、革新主義者たちは、教会の天主的起源を神学的地平から消し去り、慈善団体に似た人間的起源を持つ存在物を創造しました。
この「存在論的転覆」による最初の結果は、キリストの花嫁が、主の御名において代理者としての権威を行使する人々が変えることのできる対象ではなく、対象でありえない、という事実を必然的に否定することです。教会は教皇の所有物でも司教たちや神学者たちの所有物でもありませんから、「アジョルナメント(Aggiornamento)」のような試みは、利益を得るために自らの商業的な売値を更新し、売れ残った株を売り、その時々の流行に従う一つの会社というレベルにまで、教会を下げてしまうことになります。一方、教会は超自然的で天主的な現実です。教会は諸国の民に福音を宣べ伝える"方法"を【時代や場所に応じて】適応させますが、その"内容"をほんの少しでも変えることはできません(マテオ5章18節)し、自らを単なる社会奉仕団体に格下げすることで超越的な動力(momentum)を否定することもできません。
反対に、反教会は、教理の説明の仕方を変えるだけでなく、教理そのものを変えることで、「パラダイム(物の考え方)の転換」を行う権利を高慢にも主張しています。[これは、新しい回勅「フラテッリ・トゥッティ」に関するマッシモ・ファッジョーリ(Massimo Faggioli)のコメントの次の言葉で裏付けられています。「教皇フランシスコの教皇職は、カトリックの教義完璧主義者(integralists)と、内容の連続性がすなわち聖伝であると同一視する人々の前に高く掲げられた旗のようです。カトリックの教理は、ただ発展するだけではありません。時には本当に変わるのです。例えば、死刑や戦争についての教理です」。[2]]
【従ってそのような反教会に】教導職が教えることを主張するのは無益です。信仰を変える権利を持つという革新主義者たちの図々しい主張は、頑なに近代主義的なアプローチに従っているのです。
公会議の最初の誤謬は、主に超越的な視点を欠いていたこと、つまりすでに潜んでいた霊的危機の結果と、不毛な人間の地平で地上の楽園を確立しようと試みたことにあります。このアプローチに沿って、「フラテッリ・トゥッティ」は、地上のユートピアの実現と社会的救済を、人間の兄弟愛、宗教間の「パックス・エキュメニカ」【宗教統一による平和】、そして移民の歓迎に見ています。
4.劣等感と無力感
私がこれまで他の機会にも何度か書いてきたように、「新しい神学(Nouvelle Theologie)」の革命的な要求は、公会議の教父たちの中に肥沃な土壌を見いだしました。何故なら【彼らに】この世に対する深刻な劣等感があったからです。戦後には、世俗的、政治的、文化的な領域でフリーメーソンが主導した革命が、カトリックのエリートたちを破りました。今では不可避となった時代を変える挑戦に直面して、カトリックのエリートたちに、自らの無力さ(inadequacy)を分からせようとした時期がありました。自分自身や自らの信仰【の弱さ】を問う代わりに、このエリートたち(司教、神学者、知識人)は、無謀にも、教会の差し迫る失敗の責任を、教会の岩のように強固な位階構造のせいに、また教会の一枚岩の教理的・道徳的な教えのせいにしたのです。
欧州文明は教会がそれを形成するのを助けたのですが、エリートたちはこの欧州文明の敗北を見て、この世との合意がないことは、「時代精神」(Zeitgeist)と折り合いをつけて「開く」ことをしたがらない教皇の非妥協的態度と司祭たちの道徳的硬直性によって引き起こされたと考えていました。このイデオロギー的なアプローチは、教会と現代世界の間には、同盟や意図の一致、友情が存在し得るという誤った仮定に由来しています。【しかしそれを仮定する以上】真理から遠く離れることは何もありえません。なぜなら、天主とサタンの間、光と闇の間の闘争には、休息がないからです。「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く。女のすえは、おまえの頭を踏み砕き、おまえのすえは、女のすえのかかとを狙うであろう」(創世記3章15節)。これは天主ご自身が意図された敵対関係であり、至聖なるマリアと教会は、いにしえの蛇の永遠の敵として位置づけられています。
この世には、そのかしら(ヨハネ12章31節)がいます。これは「敵」(マテオ13章28節)であり、「初めから人殺し」(ヨハネ8章44節)であり、「嘘つき」(ヨハネ8章44節)です。この世と戦争停止の契約を結ぶことは、サタンと折り合いをつけることを意味します。このことは、教会の本質そのものを、くつがえし、貶めています。何故なら、教会の使命とは、霊魂たちを、自分たちの方へ滅びへと引き寄せようとする者どもに反対して決して武器を降ろさずに戦い、天主のより大きな栄光のために、一人でも多くの霊魂をキリストに回心させることだからです。
[この世の前での教会の劣等感と失敗は、革命を公会議の教父たちに根付かせるため、さらに拡張してキリスト教の民に根付かせるための「大災害(perfect storm)」をつくり出しました。キリスト教徒においては、位階階級への従順が、おそらく「信仰の遺産(depositum fidei)」への忠実さ以上に培われていたのです。はっきりと言わせてください。命令が正当なものである限り、聖なる牧者たちへの従順は確かに賞賛に値するものです。しかし、それ自体が目的であるなら、また、従順が定められた目的、すなわち信仰と道徳に反している場合には、従順は聖徳であることをやめ、実際には追従になってしまいます。さらに付け加えなければならないのは、このような劣等感が、次のようなものを大舞台で見せることによって、教会に導入されたことです。それらは、パウロ六世による三重冠の撤去、レパントで打ち破ったオスマン帝国の旗艦の旗の返還、離教状態にあるアテナゴラス【コンスタンティノープル総主教】との【パウロ六世の】エキュメニカルな抱擁、十字軍に関する赦しの求め、禁書目録の廃止、ピオ十二世の凱旋主義に代わる聖職者たちによる貧しい人々に焦点を当てることです。この態度の「最後の一撃」(coup de grâce)は、「改革された典礼」において成文化されました。この典礼は、カトリックの教義を沈黙することによって、教義を恥ずかしがっていると表明しており、これによって間接的に教義を否定したのです。儀式の変更は教理的な変化を引き起こし、そのことが信徒たちに、ミサが単なる友愛の宴であって、至聖なるご聖体は、私たちの中におられるキリストの存在を象徴したものにすぎないと信じるようにさせたのです。]
5.革命と公会議の「同じ心 IDEM SENTIRE」
公会議の教父たちの無力感(inadequacy)は、革新主義者たちの活動によって、ただ高まるだけでした。彼らの異端の思想は、この世の要求と一致していたからです。近代思想の比較分析は、革命的イデオロギーのあらゆる要素と陰謀家たちの「idem sentire」[同じ感情、または同じ心]を裏付けています。
[◎カトリック君主制(教皇制を含む)という天主の権利の代わりに、権力の正当化の源泉としての民主主義の原理を受け入れること。
◎個人の責任と制度的な位階階級の代わりに、権力の機関を創造し増加すること。
◎伝統と文化的遺産を守ることができない今日の基準(パラメーター)で歴史的過去を評価し、歴史的過去を消し去ること。
◎個人の自由を強調し、責任や義務という概念を弱めること。
◎道徳と倫理が継続的に進化することで、それらの不変の性質と超越的な基準が奪われること。
◎「世俗の秩序がイエズス・キリストの王権へ正当に服従し、教会の使命が現世の領域の使命に存在論的に優越性を持つ」ということの代わりに、国家が宗教と無縁な性質を持つとされること。
◎国家の前の諸宗教の平等だけでなく、教会が守らなければならない一般的な概念としてさえも、客観的かつ必要な真理の擁護と誤謬の排斥に反する諸宗教の平等。
◎天主を喜ばせ、天主の恩寵を受け、永遠の幸いを得るための前提としての、原罪および贖罪の必要性を否定することに基づいて、人間の尊厳を人間にとって自然なものとする虚偽的で冒涜的な概念。
◎女性の役割を弱めること、母親である特権に対する侮蔑と軽蔑。
◎精神よりも物質を優先すること。
◎偽りの科学的根拠に基づく宗教への冷酷な批判に直面して、科学との信仰主義的な【信仰と理性は独立しているとする】関係[3]。
これらの原理はすべて、フリーメーソンのイデオロギー信奉者や新世界秩序の支持者によって広められたものであり、公会議の革命的な考えと一致しています。
●教会の民主化は、「教会憲章(Lumen Gentium)」で始まり、今日ベルゴリオの「シノドスの道」で実現している。
●権力の機関の創造と増加は、司教協議会、司教会議(シノドス)、委員会、司牧評議会などに意思決定の役割を委任することによって達成されている。
●教会の過去と栄光ある伝統は、現代のメンタリティーに従って判断され、現代世界に好意的になるために非難されている。
●第二バチカン公会議によって理論化された「天主の子らの自由」は、各個人の道徳的義務に無関係に確立されてきており、この個人は、公会議のおとぎ話によると、自分の内的心構えや霊魂の状態に関係なく、すべての人が救われる、とされている。
●永年の道徳に関する言い回しを分かりにくくさせ、改変された死刑に関する教理へとつなげた。そして、使徒的勧告「アモーリス・レティチア」によって、明白な姦淫状態にある者たちを秘蹟にあずからせることで、秘蹟という大建造物に亀裂を入れた。
●政教分離主義という概念が採用されたことで、カトリック諸国で国家宗教の廃絶につながった。聖座と司教たちによって奨励されたことにより、このことが、宗教的アイデンティティーの喪失、セクトの権利の承認だけでなく、自然法や天主の法に違反する規範の承認につながった。
●「信教の自由に関する宣言(Dignitatis Humanae)」で理論化された信教の自由は、今日、アブダビ宣言と最新の回勅「フラテッリ・トゥッティ(Fratelli Tutti)」によって、その論理的かつ極端な結果をもたらし、教会の救いの使命とご托身そのものを廃れたものにしている。
●カトリック圏における人間の尊厳に関する理論は、聖職者の役務者としての役割に対する信徒の役割についての混乱をもたらし、教会の位階階級の構造を弱体化している。一方で、フェミニスト・イデオロギーの受け入れは、女性の聖なる叙階の秘蹟への承認への前触れである。
●左翼に典型的なように、貧しい人々の現世での必要性に過剰なまでに執着することは、教会を一種の福祉団体へと変貌させてしまい、教会の活動を単に物質的な領域に限定し、ほとんど霊的なものを放棄するという段階にまで及んでいる。
●現代の科学技術の進歩への従属は、教会をして、「科学の女王」[信仰]を否定させ、奇蹟を「脱神話化」させ、聖書の無謬性を否認させ、私たちの聖なる宗教の最も神聖な神秘を「神話」あるいは「比喩」として見させ、冒涜的にも、全実体変化と復活そのものが「魔法」(文字通りではなく、むしろ象徴的に)であることをほのめかし、崇高なマリアの教義は「tonterias」[ナンセンス]であると記述させた。]
主流の思想に合わせて、このように位階階級を平準化させ、機能低下させるという、ほとんど奇怪とも言える一つの側面があります。自らの迫害者を喜ばせ、自らの敵に仕えようとする位階階級の願望は、常に遅れすぎで同調(シンクロナイズ)していないため、司教たちが取り返しのつかないほど「時代遅れ」であり、「時代についていっていない」という印象を与えてしまいます。彼らは、自分たちが自分たちの滅亡と熱狂的に共謀しているのを見ている人々に、この「政治的に正しい」(politically correct)ことへの高級娼婦のような従順さを示しているのは、【自分たちが主体的に行っているにもかかわらず、】本当にイデオロギー的に説き伏せられたからではなく、むしろ、流されてしまうことへの恐怖、権力を失うことへの恐怖、それにもかかわらずこの世がまだ彼らに払っている敬意をもはや持っていないことへの恐怖から来ている、と信じさせているのです。彼らは、自分たちがその管理者である敬意と権威はキリストの教会の敬意と威信から来るのであって、自分たちが作った悲惨であわれなキリストの教会の偽物から来るものではないことに気がついていないのです。
この反教会がカトリック教会の皆既日食の中で完全に確立されたとき、その指導者たちの権威は新世界秩序への服従の程度に左右されることになるのですが、この新世界秩序は、自分の信条から乖離することを一切許容せず、多くの高位聖職者たちや自称知識人たちが今日も教導職に忠実であり続ける人々において批判しているその教義主義、狂信主義、原理主義を冷酷に適用することになるでしょう。
このようにして、「ディープ・チャーチ」は「カトリック教会」というトレードマークを担い続けるかもしれませんが、ピラトの前で「私たちの王はチェザルのほかにはありません」(ヨハネ19章15節)とキリストの王権を否定した後、彼らの時代の世俗の権威の奴隷となったユダヤ民族を彷彿とさせる、「新秩序思想」の奴隷となるでしょう。今日のチェザルは、疑似パンデミックを口実に、教会を閉鎖し、マスクをつけ、ミサの挙行を中止するように命じています。中国共産党政権は中国のカトリック教徒を迫害し、世界はローマから沈黙以外何も聞きません。明日、新しい皇帝ティトが公会議の神殿を略奪し、その遺物をどこかの博物館に運び、異教徒の手をもって天主の復讐が再び達成されるでしょう。
(続く)
[1] Padre Antonio Spadaro sj, Fratelli Tutti, la risposta di Francesco alla crisi del nostro tempo, in Formiche, 4 Ottobre 2020.
https://formiche.net/2020/10/enciclica-papa-fratelli-tutti-padre-spadaro/
[2] ≪Pope Francis’ pontificate is like a standard lifted up before Catholic integralists and those who equate material continuity and tradition: Catholic doctrine does not just develop. Sometimes it really changes: for example on death penalty, war≫,
https://twitter.com/Johnthemadmonk/status/1313616541385134080/photo/1
https://twitter.com/massimofaggioli/status/1313569449065222145?s=21
[3] ≪Dovremmo evitare di cadere in questi quattro atteggiamenti perversi, che certo non aiutano alla ricerca onesta e al dialogo sincero e produttivo sulla costruzione del futuro del nostro pianeta: negazione, indifferenza, rassegnazione e fiducia in soluzioni inadeguate≫,
cfr. https://www.avvenire.it/papa/pagine/papa-su-clima-basta-negazionismi-su-riscaldamento-globale
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