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来たれ、われら拝もう:ヴィガノ大司教、すべての司教、司祭に聖伝のミサを捧げるよう呼びかける(2022年1月14日)

ヴィガノ大司教:私の同僚の司祭たちはモーゼのような敬虔な恐れをもって聖なるトリエント・ミサに近づいていただきたい。聖伝のミサは、寛大で英雄的な、天主と隣人への愛に燃える人々のためにある。

来たれ、われら拝もう:ヴィガノ大司教、すべての司教、司祭に聖伝のミサを捧げるよう呼びかける

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教 
2022年1月14日

【ブライアン・M・マッコール解説】カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、聖伝のローマ典礼の完全復活を求める最も熱烈な呼びかけを発表しました。大司教は典礼革命についての個人的な経験を紹介しています。大司教は、長い間忘れていた、古い典礼で育てられた若いころの思い出を語ります。しかし、司祭生活の始まりのとき、革命家たちは、大司教が「偽りの儀式」と呼ぶもの【新しいミサ】を、その代用物としました。セオドア・マカリック元枢機卿に関する内部告発証言の後、身に危険が及ぶため隠れる必要に迫られ、古いミサの発見に至ったと語ります。この発見が、大司教の司祭としての霊魂に大きな変化をもたらしたと詳述しています。…

私が司教職や司祭職にある兄弟たちに理解していただきたいと思うことは、人は直感的に神聖なものを感じ取るがゆえに、ミサは本質的に神聖なものだということです。人は文字通り、この世の喧騒から遠く離れた天国に、至聖なる三位一体と天の宮廷の前に連れて行かれるのです。それは愛の歌であり、ちょうど母親が息子に飽きずに接吻をするように、花嫁が夫に飽きずに「愛してる」と言うように、しるし、敬意、聖なる言葉の繰り返しは決して無駄ではないのです。そこではすべてが忘れ去られます。なぜなら、そこで語られ、歌われるすべてのことは永遠なるものであり、そこで行われるすべての身振りは永続するものであり、歴史の外にありながらも、高間の部屋(Cenacle)、カルワリオ、そしてミサが捧げられる祭壇を一致させる連続体(continuum)の中に完全に入り込んでいるからです。」…

これに対し、大司教は、パウロ六世の下で作られた儀式について、こう述べています。
「もし私が「会衆に向く」(versus populum)テーブルを見れば、そこにはルター派の祭壇やプロテスタントのテーブルが見えます。もし私が最後の晩餐の制定の言葉をナレーションの形で読めば、クランマーの「共通祈祷書」の修正物とカルヴァンの礼拝が聞こえます。もし私が改革されたカレンダーに目を通せば、疑似改革の異端者たちを取り消した同じ聖人たちが削除されていることに気づきます。また、歌についても同じことが言えます。英国やドイツのカトリック信者ならぞっとするでしょう。つまり、教会の丸天井の下で歌われる、私たちの司祭を殉教させ、「教皇主義者の迷信」を軽蔑して聖なる秘跡【ご聖体】を踏みつけた人々の賛美歌を聞けば、カトリックのミサと公会議の偽物の間に存在する深淵を理解できるはずです。」

そして、同僚の司教や司祭に課題を出しています。
「私は、私の同僚たちに、考えられないようなことを思い切ってしていただきたい」。…

大司教は彼らに「聖なるトリエント・ミサは、カトリック司祭職の唯一の救いの錨」ということを思い起こさせ、長上からの報復を恐れるそのような良き司祭たちに問いかけます。
皆さんは、天主をお喜ばせしたいのでしょうか、それとも皆さんを天主から遠ざけている者を喜ばせたいのでしょうか?」と。…

大司教は「聖なる犠牲を、あわれな『集会の座長』としてではなく、むしろ『キリストのしもべ、天主の奥義の管理者』(コリント前書4章1節)として捧げることの意味を発見」するよう彼らを励ましています。…
ヴィガノ大司教様、今回は改めて同僚の司教と司祭の真の牧者でいてくださることに、改めて感謝申し上げます。彼らを、「ad altare Dei」(天主の祭壇に)導いてくださることに感謝申し上げます。

DILECTA MEA
わが愛

聖なる使徒継承のミサを自ら禁じてしまっている皆さんは、そのミサを捧げたことがおありですか? 典礼の教座(cathedrae)の高みから「古いミサ」について憤る皆さんは、その祈り、その儀式、その古代にして神聖なる身振りを黙想したことがおありですか? 私自身については、この数年間に、これについて何回も尋ねられました。なぜなら、私自身、このミサを幼い頃から知っていたにもかかわらず、また、まだ子ども用の短ズボンを履いていたほど幼かった頃にミサの侍者をし、司式司祭への応答を学んだにもかかわらず、ほとんど忘れ、何もできなくなってしまっていたからです。

「Introibo ad altare Dei.」(われ天主の祭壇へ上らん)。冬、学校に行く前に、氷のように冷たい祭壇の階段にひざまずいたこと。夏の暑い日、侍者服を着て汗を流したこと。そのミサは、1968年3月24日に私が司祭に叙階された時のミサであったにもかかわらず、私は忘れてしまっていたのです。その後まもなく、教会から最も貴重な宝を奪い、その代わりに偽物の儀式を押し付ける革命の兆候を、人々がすでに察知していた時代でした。

さて、かのミサは、私が司祭になったばかりの最初の数年間で、公会議の改革によって取り消され、禁止されました。このミサは、遠く離れた恋人の笑顔、行方不明の親族のまなざし、鐘や友人たちの声のする主日の音のように、遠い記憶として残りました。しかし、それは郷愁や若さ、教会への献身がまだ残っていた時代の熱意と関係するものでした。その時代には、誰もが、第二次世界大戦の余波と共産主義の脅威から、世界が刷新された霊的な勢いをもって回復すると信じたがっていたのです。私たちは、経済的な豊かさが、私たちの国(イタリア)の道徳的、宗教的な再生と何らかの形で結びつくと考えたがっていたのです。

1968年の革命、占領、テロ、赤い旅団、そして中東の危機にもかかわらず、です。こうして、【私がしてきた】何千もの教会に関する仕事と外交に関する仕事に関与する中で、実際には未解決のまま、何十年にもわたって「一時的に」脇に置かれていた何かの記憶が、私の記憶の中で結晶化したのです。それは、私たちに向けて天主だけがなさる寛容さをもって、辛抱強く待ち望まれていたものだったのです。

米国の高位聖職者たちとローマ教皇庁によるスキャンダルを非難することを私が決定したことは、いろいろなことを考える機会となりました。私の大司教および教皇大使としての役割についてだけでなく、あの司祭職の霊魂 -- 最初はバチカンでの、最後は米国での奉仕がある意味で不完全のまま残ったあの司祭職の霊魂を、私の役割というよりも私が司祭であるということについて、別の光の下で、もう一度考察するように導きました。

そして、それまで私がまだ理解していなかったことが、明白に予想外の状況によって、私にとって明らかになりました。私の身の安全が脅かされそうになったとき、私は自分の意志に反して、教皇庁の宮殿から遠く離れて、ほとんど隠れて生活しなければならないことに気づきました。その時、今日私が一種の修道生活の選択と考える、その祝福された隔離が、私に聖なるトリエント・ミサを再発見させてくれたのです。私は、その日のことをよく覚えています。カズラの代わりに、アンブロジオ典礼のカッピーノ(cappino)【ダルマチカの首の周りに置かれるストラ】とマニプルをつけた伝統的な祭服を着ました。約50年の時を経て、あのミサ典礼書の祈りが、まるで直前に唱えたかのように、再び私の口から発せられた時の恐れを思い出します。

ローマ典礼の詩編「Judica me, Deus」(天主よ、われを弁護し給え)の代わりに、「Confitemini Domino, quoniam bonus」(主に感謝せよ、主は良き御者なり)【詩篇117篇1】。「Munda cor meum ac labia mea.」(わが心と口を浄め給え)。この言葉は、もはや侍者や若い神学生の言葉ではなく、司式司祭の言葉であり、再び、あえて言えば「初めて」、至聖なる三位一体の御前で捧げた私の言葉なのです。なぜなら、司祭は本質的に他者のために――天主と隣人のために――生きる人であることは事実ですが、もし司祭が自らのアイデンティティーの自覚を持たず、自らの聖性を培わなければ、その使徒職は、響きわたるどら【コリント前書13章1節】のように不毛であることも同様に事実なのですから。

このような内省は、全時代のミサを捧げるという恩寵を受けたことのない人々には感動を与えず、あるいは見下しさえ起こさせることを、私はよく承知しています。しかし、同じことが、恋に落ちたことのない人々や、愛する者が最愛の人に向ける熱意や貞節な喜びを理解できない人々、あるいは、彼女の瞳に夢中になるという喜びを知らない人々にも起こるのではないかと、私は想像しているのです。鈍いローマの典礼専門家、仕立てた聖職者の服を着て胸十字架をポケットに入れた高位聖職者、「コンチリウム」や「チヴィルタ・カットリカ」の最新刊をそれと分かるように持っているローマの教理省の顧問は、昆虫学者(昆虫を研究する学問)の目で「聖ピオ五世のミサ」を見て、自然主義者が葉脈や蝶の羽を観察するように、そのペリコーペ(pericope)【朗読用の聖書の一節。ギリシャ語で「切り取り」の意味】を吟味しています。まるで、生体をメスで切り開く病理学者のような無菌状態で、それを行ってはいないのではないかと思うことも時折あります。しかし、最低限の内的生活を持った司祭が古代のミサに近づけば、その司祭がそれまでそのミサを知っていようとも、初めて知ったのであっても関係なく、まるで時間の外に出て天主の永遠に入っていくかのように、その構成された尊厳のある典礼に深い感動を覚えるのです。

私が司教職や司祭職にある兄弟たちに理解していただきたいと思うことは、人は直感的に神聖なものを感じ取るがゆえに、ミサは本質的に神聖なものだということです。人は文字通り、この世の喧騒から遠く離れた天国に、至聖なる三位一体と天の宮廷の前に連れて行かれるのです。それは愛の歌であり、ちょうど母親が息子に飽きずに接吻をするように、花嫁が夫に飽きずに「愛してる」と言うように、しるし、敬意、聖なる言葉の繰り返しは決して無駄ではないのです。そこではすべてが忘れ去られます。なぜなら、そこで語られ、歌われるすべてのことは永遠なるものであり、そこで行われるすべての身振りは永続するものであり、歴史の外にありながらも、高間の部屋(Cenacle)、カルワリオ、そしてミサが捧げられる祭壇を一致させる連続体(continuum)の中に完全に入り込んでいるからです。司式司祭は、理解しやすいようにとか、愛想よくとか、最新に見えるようにとかを気にかけながら集会で演説するのではなく、むしろ天主に向かって話しかけるのです。天主の御前では、キリスト信者の祈り、多くの霊魂の喜びと悲しみ、赦しと慈悲を求める人々の罪と欠点、受けた恩寵への感謝、親愛なる故人への哀悼の念を身に帯びることのできる特権に対する、限りない感謝の感覚だけが存在するのです。人は一人でありながら、時空を超えた無数の霊魂と密接に一致していることを実感します。

使徒継承のミサを捧げるとき、私は、殉教者の聖遺物によって奉献されたこの同じ祭壇で、多くの聖人たちや何千人もの司祭たちが、私が言うのと同じ言葉を使い、まったく同じ身振りを繰り返し、同じお辞儀と同じひざまずきをし、同じ祭服を着ていることを思い浮かべます。しかし、何よりも、聖なるいけにえを捧げることによって、私たちすべてが同化された私たちの主の同じ御体と御血でご聖体を受けるのです。全時代のミサを捧げるとき、私は教理が私たちに教えていることの真の意味を、最も崇高かつ完全な形で実感します。

「キリストに代わって」(in persona Christi)行うことは、定式文を機械的に繰り返すことではなく、次のように自覚することです。すなわち、私の口が、救い主が高間の部屋でパンとぶどう酒に発し給うたのと同じ言葉を発しているということであり、また、私がホスチアとカリスを御父に奉挙するとき、キリストが十字架上で御自らなさったいけにえを繰り返すということです。また、ご聖体を受けることにより、犠牲となったいけにえを摂取し、天主ご自身を食することであり、私は会食(パーティー)に参加しているのではない、ということです。ですから、全教会が私とともにあるのです。つまり、私の懇願する祈りに自らを一致させようとする「凱旋の教会」、煉獄での霊魂の滞在を短くするためにその祈りを待つ「苦難の教会」、日々の霊的な戦いにおいて自らを強める「戦闘の教会」です。

しかし、もし私たちが信仰をもって告白するように、私たちの口が本当にキリストの口であり、私たちの奉献の言葉が本当にキリストの言葉であり、私たちが聖なるホスチアとカリスに触れる手がキリストの手であるならば、私たちは自分の体を清く汚さずに、どのように尊重すべきでしょうか? 天主の恩寵にとどまるために、これ以上の動機があるでしょうか? 「Mundamini, qui fertis vasa Domini.」(主の器を持ち運ぶ者らよ、身を清めよ)(イザヤ52章11節)。そして、次のミサ典礼書の言葉とともに。「Aufer a nobis, quæsumus, Domine, iniquitates nostras: ut ad sancta sanctorum puris mereamur mentibus introire.」(主よ、願わくは、われらより罪を遠ざけ、清い心をもって、至聖なる所に入らせ給え。)

神学者たちは、これは通常の教理であり、儀式に関係なくミサはまさにその通りである、と言うでしょう。私はそれを合理的に否定はしません。しかし、トリエント・ミサを捧げるときは、聖人と福者にちりばめられた贖いのわざの途切れることのない連続性を常に思い起こさせますが、同じことが改革された典礼では起こらないと、私には思われるのです。

もし私が「会衆に向く」(versus populum)テーブルを見れば、そこにはルター派の祭壇やプロテスタントのテーブルが見えます。もし私が最後の晩餐の制定の言葉を叙述(ナレーション)の形で読めば、クランマーの「共通祈祷書」の修正物とカルヴァンの礼拝が聞こえます。もし私が改革されたカレンダーに目を通せば、疑似改革の異端者たちを取り消した同じ聖人たちが削除されていることに気づきます。また、歌についても同じことが言えます。英国やドイツのカトリック信者ならぞっとするでしょう。つまり、教会の丸天井の下で歌われる、私たちの司祭を殉教させ、「教皇主義者の迷信」を軽蔑して聖なる秘跡【ご聖体】を踏みつけた人々の賛美歌を聞けば、カトリックのミサと公会議の偽物の間に存在する深淵を理解できるはずです。

言語については言うまでもありません。ラテン語を最初に廃止した者どもは異端者たちであり、彼らは会衆に典礼をよりよく理解させるという名目で、会衆を欺き、啓示された真理に異議を唱え、誤謬を伝播させてきました。
ノブス・オルド(Novus Ordo)【新しいミサ】では、すべてが不敬です。すべてはつかの間のものであり、すべては偶然であり、すべては偶発的であり、可変的であり、変化しやすいものです。永遠なるものは何もありません。なぜなら、信仰が不変であるように、天主が不変であるように、永遠は不変であるからです。

聖伝の聖なるミサには、もう一つ強調したい点があります。それは、過去の聖人たちや殉教者たちと私たちを一致させることです。カタコンベの時代から最近の迫害まで、たとえ屋根裏や地下室、森や納屋、あるいはバン(貨物自動車)の中であっても、司祭が聖なるいけにえを捧げる場所はどこでも、多くの信仰の英雄的証人と神秘的に交わり、その即席の祭壇には聖三位一体の視線が注がれており、祭壇の前にはすべての天使の大群がひざまずき、煉獄にあるすべての霊魂は祭壇の方を見つめているのです。このことにおいても、特にこのことにおいては、聖伝が、いかに世紀を超えた解消され得ないつながりを作り出すかを、私たち一人一人が理解することができるのです。

それは、その宝を用心深く管理することだけでなく、その宝がもたらす試練に、死に至るまで直面することにおいても、です。この考えがあるならば、非常識な教令による現在の暴君の傲慢さは、私たちのキリストへの忠誠心を強めさせ、自分たちが全時代の教会の不可欠な一部であると私たちに感じさせるものであるはずです。なぜなら、「良き戦い」(bonum certamen)【ティモテオ後書4章7節】を戦う準備ができていなければ、勝利の勲章を手にすることはできないからです。

私は、私の同僚の司祭たちに、考えられないようなことを思い切ってしていただきたいのです。聖なるトリエント・ミサに近づいていただきたいのです。それは、アルバのレースやカズラの刺繍を喜ぶためでもなく、その教会法上の正当性や一度も廃止されたことがないという事実についての単なる合理的な確信からでもなく、むしろモーゼが燃える柴に近づいたときのような敬虔な恐れをもって、です。私たち一人一人が、最後の福音の後、祭壇から降りてくるとき、そこで至聖所に遭遇したために、ある意味で内的に変容させられていることを知るのです。私たちが司祭職の本質を理解することができるのは、その神秘的なシナイ山においてこそなのです。つまり、司祭職とは、何よりも自分自身を天主に捧げることであり、より大いなる天主の栄光と霊魂の救いのために、いけにえであるキリストとともに自分のすべてを捧げ物とすることです。この捧げものは、ミサから力と活力を引き出す霊的な犠牲であり、大司祭のために道を開くための自己放棄です。主の模範に倣って自分の意志を無とし御父のご意志にお委ねするという真の謙遜のしるしであり、同じ信仰告白と同じ典礼を共有する聖人たちとの真の「交わり」の身ぶりです。ですから、何十年もノブス・オルドを捧げてきた人たちだけでなく、とりわけ若い司祭や最前線で奉仕する人々に、この「体験」をしていただきたいと思います。聖ピオ五世のミサは、不屈の精神、寛大で英雄的な霊魂、天主と隣人への愛に燃える心の持ち主のためにあるのですから。

私は、今日の司祭の生活には、千の試練やストレス、世との戦いの中での孤独感、長上の無関心や排斥、黙想や内的生活や霊的な成長を妨げるじわじわとした消耗があることをよく承知しています。また、私は、この四面楚歌の感覚、つまり、自分が嵐の中を一人で船のかじ取りをしなければならない船乗りのような立場にいるということが、聖伝主義者や進歩主義者の特権ではなく、主と教会に自分の命を捧げ、それぞれの不幸、経済問題、司教との誤解、同僚からの批判、信者の要求などを抱えたすべての人の共通の運命であることも、さらによく承知しています。また、十字架の聖ヨハネの暗夜と同じように、天主の現存と童貞マリアの同伴が消えてしまうような孤独の時間もあります。

「Quare me repulisti? Et quare tristis incedo, dum affligit me inimicus?」(なぜわれを見捨て給うか、なぜわれは敵の虐げに遭って悲しみ嘆いているのか?)。悪魔がインターネットとテレビの間で陰湿に獲物の匂いを嗅ぎつけるとき、「quærens quem devoret」(食い荒らすものを探し)【ペトロ前書5章8節】、裏切りによって私たちの疲れにつけ込んでくるのです。このような場合、私たちの主がゲッセマネでそうだったように、私たちも皆、直面するのですが、サタンが攻撃しようと欲するのは私たちの司祭職に対してであり、ヘロデの前にいるサロメのように説得力をもって自らを提示し、洗者の首という贈り物を私たちに要求してくるのです。「Ab homine iniquo, et doloso erue me.」(不正な邪な人々より、われを解き放ち給え)。この試練において、私たちは皆、同じです。なぜなら、敵が勝ち取ろうと欲する勝利は、洗礼を受けた人々のあわれな霊魂に対するものだけでなく、私たちがその塗油を受けた司祭なるキリストに対するものでもあるからです。

このため、今日、かつてないほど、聖なるトリエント・ミサは、カトリック司祭職の唯一の救いの錨なのです。なぜなら、そのミサにおいて、司祭は毎日、聖三位一体との親密な一致という特権的な時間に生まれ変わり、そのミサから、罪に陥らず、聖性の道に沿って進み、自分の役務に直面するための健全なバランスを再発見するために不可欠な恩寵を引き出すからです。このすべてが単なる儀式的、美的な問題として片づけられると考える人は、自分の司祭召命について何も理解していないのです。なぜなら、「全時代の」聖なるミサは――それは常に敵対者【悪魔】によって反対されてきたように、本当にそうなのですが――、誰にでも自分を差し出す都合のよい恋人ではなく、むしろ、主と同じように嫉妬深い貞淑な花嫁なのです。

皆さんは、天主をお喜ばせしたいのでしょうか、それとも皆さんを天主から遠ざけている者を喜ばせたいのでしょうか? 問題は、その根において、いつも同じです。キリストの優しいくびきと、敵対者の奴隷の鎖のどちらを選ぶかということです。その答えは、皆さんも、皆さんから隠されてきたこの巨大な宝に驚嘆し、聖なる犠牲を、あわれな「集会の座長」としてではなく、むしろ「キリストのしもべ、また天主の奥義の管理者」(コリント前書4章1節)として捧げることの意味を発見する瞬間に、はっきりと明快に出てくることでしょう。

ミサ典礼書を手に取り、友人の司祭に助けを求め、変容の山に登ってください。「Emitte lucem tuam et veritatem tuam: ipsa me deduxerunt, et adduxerunt in montem sanctum tuum, et in tabernacula tua.」(御身の光明と真理とを送り給え。それらが、われを導きて主の聖なる山の方、主の幕屋に至らせるであろう)。ペトロ、ヤコブ、ヨハネのように、皆さんはこう叫ぶでしょう。「Domine, bonum est nos hic esse」(主よ、私たちがここにいるのはよいことです)(マテオ17章4節)。あるいは、司式司祭が奉献唱で繰り返す、次の詩篇の言葉とともに。「Domine, dilexi decorem domus tuæ, et locum habitationis gloriæ tuæ.」(主よ、われは御身の住まいと、御身の栄光のとどまるところを愛する)(詩篇25篇8節)。

ひとたびそれを発見すれば、主がもはや皆さんを「しもべ」ではなく、「友人」と呼ばれるようになったことを、誰も皆さんから取り去ることはできないでしょう(ヨハネ15章15節)。誰もそれを放棄するように皆さんを説得し、反抗的な心が生み出したその混ぜ物の入ったものに満足することを強いることはできないでしょう。「Eratis enim aliquando tenebræ: nunc enim lux in Domino. Ut filii lucis ambulate.」(元あなたたちは闇であったが、今は主において光である。したがって光の子として歩め)(エフェゾ5章8節)。「Propter quod dicit: Surge qui dormis, et exsurge a mortuis, et illuminabit te Christus.」(これがために、「眠る者よ、起きよ、死者の中から立ち上がれ。キリストはあなたを照らすであろう」と言われている)(エフェゾ5章14節)。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2022年1月2日
Sanctissimi Nominis JESU
イエズスの至聖なる御名


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