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ヴィガノ大司教からPaix Liturgiqueへ:司教の皆さん、聖ピオ五世のミサを捧げてください。新しいミサの主な欠点の三つの重大な論点

ヴィガノ大司教からPaix Liturgiqueへ:司教の皆さん、聖ピオ五世のミサを捧げてください。

トリエント・ミサの血管には福音の健康な血が流れていますが、新しい儀式には異端とこの世の精神に感染した血が流れている、と言えるでしょう。

今日の状況を考えると、私たちは、公会議後の出来事を、さらに大きな客観性をもって見ることができます。また、教区の召命および修道者の召命の危機から、信者の秘跡への参加の崩壊まで、「公会議の春」の結果が今、誰の目にも明らかであることもその理由です。

私は兄弟である司祭の皆さん全員に呼び掛けます。聖ピオ五世のミサを捧げてください。そして、司祭にしていけにえであるキリストに、皆さんの司祭としての霊魂に働きかけていただき、司祭としての役務に確固たる超自然の意味を与えていただくのです。

2022年9月14日

親愛なる「Stilum Curiae」(教皇庁のペン)の友人と敵の皆さん、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の「Pax Liturgique」(典礼の平和)とのインタビューを受け取りましたので、喜んで公開します。どうぞお読みください。

【訳者注】Pax Liturgique とは「典礼の平和」という意味の名前をもったカトリックの団体である。フランスで始まり、聖伝のミサを促進することをその団体の主な目的としている。この記事の題名は、ブログStilum Curiaeに掲載された通り、司教たちよ、という呼びかけを付けた。本文中にはヴィガノ大司教は司教だけではなく、司祭たちに一般に呼びかけている。

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カルロ・マリア・ヴィガノ大司教とのインタビュー
Paix Liturgique
2022年9月13日(火)

【問1(Paix Liturgique)】大司教様、第二バチカン公会議の後、典礼の問題がこれほど緊急の重要問題であるのはなぜでしょうか。

【カルロ・マリア・ヴィガノ大司教】典礼の問題は非常に重要です。なぜなら、ミサという神聖な行為の中には、典礼を捧げる教会の教理、道徳、霊性、規律があるからです。したがって、ちょうどカトリックのミサが、カトリックの教導権を完全かつ一貫して表現したものであるように、改革された典礼(ノブス・オルド【新しいミサ】)は、公会議の逸脱を表現したものです。実際、その典礼は、第二バチカン公会議のテキストの持つ曖昧さや言葉遣いがなくても、異端的な本質を明らかにし、また裏付けています。例えるならば、トリエント・ミサの血管には福音の健康な血が流れていますが、新しい儀式には異端とこの世の精神に感染した血が流れている、と言えるでしょう。

【問2】典礼にそれほど深く関心を持っていない教皇フランシスコが、二つの典礼形式、新しい形式と古い形式は、二つの異なる教会論を反映している、と言う場合、少なくとも本当の問題を提起しているという良い面があるのではないのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】これはまさに私が今申し上げたことであり、(1968年に)オッタヴィアーニ、バッチ両枢機卿が「Breve esame critico」(批判的研究)で糾弾し、またルフェーブル大司教が多くの介入で糾弾し、また他の司教たちや典礼学者たちによっても糾弾されてきたことです。あなたが単一の儀式の「二つの典礼形式」とお呼びになったものは、実際には二つの異なる儀式であり、一方は完全にカトリック的であり、もう一方はカトリックの真理について沈黙し、プロテスタント的かつ近代主義的な母体の誤謬をほのめかしているものです。この点で、ベルゴリオは完全に正しいのです。第二バチカン公会議とその異端的発展を受け入れる者は、それらの誤謬が聖伝の典礼に表現されているのを見つけることはできません。聖伝の典礼は、信仰告白における明確さのため、ノブス・オルドを考案した人々の「mens」(考え方あるいは物の見方)を非難し否定するものなのです。

【問3】聖伝の典礼を攻撃するいくつかの文書が、この一年間に相次いで出されました。それは、「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes、2021年7月16日)に始まり、「ドゥビアへの応答」(2021年12月4日にアーサー・ロシュ典礼秘跡省長官によって発表されました)、そして使徒的書簡「デジデリオ・デジデラーヴィ」(Desiderio Desideravi、2022年6月29日)です。聖伝に対して試みられた攻撃は失敗した、古代の典礼が死ぬことはないだろう、という希望を、私たちはまだ持つことができるでしょうか。

【ヴィガノ大司教】私たちが陥ってはならない第一の欺瞞は、統治の行為と教導権の行為を破壊転覆的に利用することによって欺かれることです。今回の場合、信仰における兄弟たちを固めるために公布されたのではなく、むしろ彼らを信仰から離れさせるために公布された諸文書がありますが、これらはベネディクト十六世の自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)と明らかに矛盾しています。この自発教令は、信仰から離れさせるのではなく、トリエント典礼への完全な権利を認めています。第二に、キリストの教会への憎しみでいっぱいになった権威主義的な暴君の行き過ぎた行いが、最も穏健な人々の目をも開かせ、その人々に、第二バチカン公会議の詐欺全体がトリエント・ミサによって表現された諸真理への嫌悪に基づいていることを示しています。しかし、公式の言説は、典礼改革は翻訳することで信者にこの真理をさらに分かりやすくすることだけを意味していると主張しています。


【問4】「トラディティオーニス・クストーデス」の適用される方法は、国や司教によってかなり異なります。教皇の文書を承認したところもありますが、実際には、そういった教区では何も変わっていません。特にイタリアでは、フランシスコの後継者となるのが誰であれ、この抑圧的な路線を維持することはできないだろうという感じはないのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】教会は、自分の気まぐれを臣民に押し付けることのできる、いかなる上位の権威からも自由であるような絶対君主に支配された社会ではありません。教会のかしらはキリストであり、キリストは教会の唯一の真の王にして主であり、ローマ教皇は、使徒のかしらの後継者であるのと同じく、キリストの代理者です。キリストの代理権を濫用し、さらに、異端の教理を提案したり異端の教理を参考にした規範を押し付けたりすることによって自らの身を使徒継承の外に置くことは、かしらであるキリストとキリストの神秘体である教会との間にあるこの本質的なつながりを消失させます。実際、教皇の代理権は、教会に対する絶対的、即時的、直接的な権限のすべての特権を享受しますが、それは、常に、「霊魂の救い」(salus animarum)という、その代理権の主要目的に適合する範囲に対して「のみ」であり、聖伝に従い、私たちの主へ忠実であるときだけです。

さらに、この権限の行使において、教皇は、この目的についての非常に具体的な限度内で、常に地位に応じた特別な恩寵を享受します。これらの恩寵は、キリストと教会に反する行為をする場合には、何の効果もありません。このため、ベルゴリオの怒り狂った試みは、たとえ暴力的で破壊的であっても、否応なく破たんする運命にあり、いつか確実に無効と宣言されるでしょう。

【問5】この状況に動揺している平信徒に対して、どうするようにお勧めになりますか。

【ヴィガノ大司教】信者は神秘体の生ける肢体であり、それゆえ、その目に見える権威がキリストから受けた命令に則って行動し立法することを要求する生来の権利を持っています。この地上の権威が、御摂理の許しを得て、キリストのみ旨に反して行動し立法するとき、信者がまず理解しなければならないのは、この試練は、(まさに、信者が位階階級に従順で、自分たちに対して行われた詐欺に気がついていなかったために)信者が圧倒され、多くの信者が何十年にもわたって逸脱と偽善を誠実に信奉してきた後に、信者の目を開かせるために御摂理がお許しになった手段であるということです。

信者がこのことを理解したとき、次のことに気づくでしょう。すなわち、自分たちが宝を奪われており、奪ったのは、その宝を保管し将来の世代に伝えていかなければならなかった人々であり、その人々は、その宝の価値を下げて悪質な偽物に置き換え、その後でその宝を隠した、ということです。その時点で、信者は天主の御稜威に対して、試練の時を短くしてくださるよう、また、キリストに従い、キリストに属し、キリストを愛し、キリストに完全な礼拝を捧げる最高牧者を教会に与えてくださるよう懇願することになるでしょう。

【問6】教区司祭は、聖伝の典礼に反対するローマの対策の標的かつ主要な犠牲者であるように思われますが、大司教様は、彼らにどのような助言をなさいますか。

【ヴィガノ大司教】公会議に先立つ数十年間、教会の指導者たちは、近代主義の侵入者たちによる扇動に代表される脅威が増大しているのを、よく認識していました。このため、ピオ十二世は、権力を集中させなければなりませんでしたが、彼の決定は、たとえ理解できるとしても、教会における権威が何を命令しようとも議論の余地はない、という考えを聖職者に植え付ける結果となりました。一方、教理が私たちに教えているのは、いかなる命令も無批判に受け入れることは隷属であり、真の従順ではない、ということです。クーデターを実行した者たちは、第二バチカン公会議当時、司教たちや司祭たちが受けたこのやり方によって強められ、この従順を利用して、それまでは決して考えられなかったようなことを押し付けるようになりました。同時に、公会議後の教え込みの仕事と、少数の反対者を容赦なく粛清することが、残りの仕事となったのです。

今日の状況を考えると、私たちは、公会議後の出来事を、さらに大きな客観性をもって見ることができます。また、教区の召命および修道者の召命の危機から、信者の秘跡への参加の崩壊まで、「公会議の春」の結果が今、誰の目にも明らかであることもその理由です。ベネディクト十六世による古いミサの自由化は、多くの司祭に真の典礼という貴重な宝を発見させました。彼らは、それ以前は、その宝を全く知らなかったのですが、そのミサにおいて司式司祭を「もう一人のキリスト」(alter Christus)とし、密接に変容させるという司祭職の犠牲的次元を再発見したのです。この恩寵の「奇跡」を体験した人々は、もはやそれを手放そうとはしません。ですから、私は兄弟である司祭の皆さん全員に呼び掛けます。聖ピオ五世のミサを捧げてください。そして、司祭にしていけにえであるキリストに、皆さんの司祭としての霊魂に働きかけていただき、司祭としての役務に確固たる超自然の意味を与えていただくのです。

こういった司祭の皆さんに対する私の助言は、あまりにも長い間続いてきた一連の濫用を前にして、抵抗し、堅固さを示すことです。そうすれば、使徒継承のミサをブニーニの考案したミサと同じレベルに置くことは不可能であることを理解していただけるでしょう。なぜなら、前者では、天主に栄光を捧げ霊魂を救うために、真理が明白に肯定されていますが、後者では、この世の精神を喜ばせ、霊魂を誤謬と罪の中に置き去りにするために、真理が不正に沈黙させられ、しばしば否定されているからです。

このことを理解すれば、二つの儀式の間の選択(の迷い)は起こるはずがありません。なぜなら、愛徳に生かされた理性と信仰が、どちらが天主のみ旨に合致し、どちらが合致していないかを、私たちに教えてくれるからです。主を愛する霊魂は妥協を許すことはなく、天主なる浄配に忠実であり続けるために自分の命を捧げることを厭わないからです。

【問7】この危機を利用して、将来の教皇に対して、「スンモールム・ポンティフィクム」に戻るのではなく、聖伝の典礼に完全な自由を与えるよう求めるべきだと考える人々もいるようですが。そんなことが可能なのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】聖伝の典礼は、その由緒ある古さ、聖ピオ五世の教書「クオ・プリームム」(Quo Primum)、そして二千年にわたる教会による批准によって、すでに法律上(de iure)は完全な自由と完全な権利を享受しています。この自由が行使されないのは、その権威の起源であり究極の目的である天主への従順ではなく、隷属の罪によって教会の権威のいかなる決定にも無批判に従順である姿を示してきた天主の役務者の「賢明」によるものです。聖伝の典礼の完全な自由が事実上(de fact)も回復されることは確実でしょうが、この回復と同時に、天主の民の教理的、道徳的、典礼的解体の起源であることを十分に証明してきた新しい典礼を廃止することが必要でしょう。公会議の誤解と誤謬が断罪され、それとともに、そのカルト的な表現も断罪される時が来るでしょう。

【問8】新しいミサの主な欠点は何だと思われますか。

【ヴィガノ大司教】言及しなければならない三つの重大な論点があると思います。それらはカトリックの典礼を理解するという単一の問題から起こったものです。

新しい典礼の第一の欠点は、それが官僚の持つ冷笑的な冷徹さによって作成されたことです。一方、本物の典礼は、何世紀にもわたって有機的に発展し、いわば、あらゆる時代のウイルスと戦うために、免疫システムを適応させてきた調和の取れた体(corpus)なのです。大人の体(body)を無理やり子どものころに戻すことで、「本来の素朴さを回復させる」ことができると信じることは、不自然な作業であって、このことは、教会を敵【悪魔】の攻撃に対してさらに脆弱にするという意向だけを持ってこの道を歩んできた者どもの故意を明らかにしています。そして、この詐欺を企てた者どもが誰であれ彼らが非常によく承知していたことは、あらゆる身振り、あらゆる儀式、あらゆる言葉で、その誤謬を非難し、否認しているそのミサを排除することによってのみ、自らの誤謬を伝えることができる、ということです。最も異常で冒涜的な逸脱に完全な自由を与えるためのテントやキャンバスのような役割を果たすように設計されたこの典礼の「奇形物」(monstrum)を誕生させた者には、善意はありません。

第二の欠陥は、ノブス・オルドが、古い典礼を翻訳しただけのものだとされて、教会に提示されて押し付けられているという欺瞞に代表されるものです。公会議の教父たちは、「典礼憲章」(Sacrosanctum Concilium)において、ミサの朗読と教訓の部を俗語に翻訳することを認め、典文はそのままにしてラテン語で唱え、小声で発することを規定しました(こちら)(こちら)。
「(典礼憲章)実行委員会」(Consilium ad exsequendam)によって私たちのために準備されたものは、1549年のクランマーの「共通祈祷書」からそのままコピーされたように思われる儀式であり、その作者のイデオロギー的アプローチに完全に一致しています。

第三の欠陥は、主要な礼拝の対象である聖三位一体に対して、意図的に代替物を置いたことです。つまり、聖三位一体は、司式司祭とともに集う集会に置き換えられたのです。このことが今や、典礼全体を回転させる支点であり、また聖なる行為の基準点となっています。司祭を「集会の座長」とみなし、即興を奨励するために神聖さを喪失させ、犠牲の祭壇を歓談のテーブルに置き換えたのです。これらはすべて、キリストの十字架上の犠牲が血を流さない形で御父に捧げられるというミサの本質を否定する教理上の誤謬から来る帰結です。

嘘と詐欺から生まれた儀式は、一人の近代主義のフリーメーソン員【ブニーニ】によって考案され、二千年の儀式を廃止することによって無理やり押し付けられたものであり、その具体的なポイントをすべて分析する価値さえありません。ただ取り消されるべきものなのです。

【問9】教皇はなぜ、米国の司教団にこれほど敵意を抱いているのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】ベルゴリオは、米国の司教団に対してだけでなく、特に米国の信者に対しても敵意を抱いています。その理由は、この国のメンタリティーにあります。この国は基本的にはリベラルですが、まさに異なった異質な宗教と文化が共存しているため、保守派や聖伝主義者にも発言権が与えられており、彼らは実際、数的に重要で熱心で献身的な構成員となっています。米国の小教区、運動、聖伝グループは、トリエント典礼と不可欠なカトリックの教理が、どれほど信者に再発見され、高く評価される対象になっているかを示しています。一方、モンティーニの典礼が行われている教会は、信者や召命を失いつつあり、また過小評価されてはならないことですが、財政支援も失いつつあるのです。

社会的な汚名を被らずに、トリエント・ミサに「堂々と」行くことができるという素朴な可能性は、ベルゴリオにとっては聞いたことのないもの、受け入れられないものなのです。なぜなら、いわゆる「聖伝という選択肢」の成功の証拠が、進歩主義者の側の何十年にもわたる宣言や自己検閲を台無しにするからです。何千人もの信者、若者、子どものいる家族が古いミサに集まり、一貫して洗礼を受けて生きているのを見ることは、聖職者や自称カトリック政治家の金銭的・性的スキャンダルが教会を空っぽにし、世俗社会での信頼を失う一方で、医療分野では、まさにその治療を受けなかった人々が健康を享受しているために、その治療の効果がないことを証明する迷惑な「対照群」【臨床試験で比較のために新しい治療を受けないグループ。受けるのは治療群】を構成するのです。ちょうど実験的な遺伝子血清のワクチン接種が、副作用や死亡が接種者だけに影響を与えることを人々に見せないようにするために、すべての人に押し付けられなければならないように、典礼の状況においても、第二バチカン公会議という近代主義の集団ワクチン接種の失敗を示すグループや共同体が存在してはならないのです。

米国の一部の司教たちが聖伝の共同体に対して歓迎し、温かい開放性を見せていること、また政治に携わるカトリック信者の道徳的一貫性を求めて介入していることは、ベルゴリオを激怒させ、衝動的な行動と抑制を欠いた反応を起こさせました。それによって、彼の悪意と、「パレーシア」[parresia](「大胆に真実を述べること」)や、あわれみ、包括性への訴えが、完全に欺瞞であることが明らかになりました。一方、「分裂させるものではなく一致させるものを求める」、「壁をつくるのではなく橋を架ける」とのエキュメニカルな訴えを何十年も続けてきた後で、新たに誕生したロシュ枢機卿による告発――彼は総督(satrap)【教皇フランシスコ】に忠実であることから(2022年8月27日に開かれた最近の枢機卿会で)赤い帽子を与えられたばかりです――、ロシュが聖伝のカトリック信者を「プロテスタント」と定義した告発ですが、私にはこの告発が根本的な偽善を明らかにしていると思えます。なぜなら、カトリック教会は今やプロテスタントに開かれており、彼らは高位聖職者や枢機卿の前であっても聖体拝領(communicatio in sacris)を認められているのに、聖伝のカトリック信者は近代主義者によって破門された「ヴィランディ」(vitandi)、つまり避けるべき人々として扱われているからです。典礼の問題に関する最近の制限の提案者たち(その全員がベルゴリオの使者です)の知的不誠実さについての評価は、いわば人間的側面から出発するだけでも、どうしようもなく否定的になることは明らかだと私には思われます。彼らは誠実な人間ではありませんし、対話相手の理由づけを理解しようともしません。彼らは冷酷な権威主義や、ファリザイ派の形式主義、そして虚偽と嘘への傾きを示しており、公平な解決の前提とはなり得ません。

【問10】ワシントン、シカゴ、アーリントン【テキサス州】、サバンナ【ジョージア州】。なぜこれら四つの(米国の)教区の司教は聖伝のミサに対して宣戦布告をしたのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】これらの教区は、サンディエゴとニューアークは言うまでもなく、確かにワシントンとシカゴは、ベルゴリオのマジック・サークルとマカリックのラベンダー・マフィアの一部である司教たちによって管理されています。彼らの相互の共犯関係、スキャンダルを隠蔽するための行動、ディープ・ステートや民主党との関係は、彼らを昇進させ、彼らの声明と破滅的な統治行為を承認するベルゴリオの側で彼らが尊重されていることのまとめとなる重要なものなのです。

【問11】一見まとまりのないようなこれらの決定(パチャママ、レース【教皇がレース飾りのついた祭服に反対していること】と聖伝の典礼に反対する戦争、道徳的問題に対する後退など)の背後には、正確で一貫した戦略や計画の実行があるとお考えでしょうか。

【ヴィガノ大司教】聖伝のカトリック信者に対するこの容赦なき戦争行為には、戦略と戦術があること、また、その戦争行為が、キリストの教会を破壊し、それをエキュメニカルでグローバリズム的で背教的な偽物に置き換えるために、何十年もかけて考案された計画に沿ったものであることは明らかです。彼らが何の目的もなく、組織化することもなく行動していると考えるのは愚かなことです。2013年のコンクラーベのベルゴリオの選出も計画されていました。ジョン・ポデスタとヒラリー・クリントンが交わした電子メールの中で、進歩的な教皇が、教理と道徳を新世界秩序のイデオロギーに隷属させることで修正するという「教会の春」を推し進める必要性について述べていたことを忘れてはならないでしょう。ベネディクト十六世に対する行動は、彼を辞任に追い込むために計画されていました。公会議での革新主義者たちの破壊転覆的な働きは計画されていました。ベルゴリオに忠実な進歩主義者たちの行動は、シノドスで、教皇庁の部署の会議で、枢機卿会で計画されていました。一方、キリストと教会の敵どもの背後には、サタンが常に、その陰謀、欺瞞、嘘とともに隠れています。

【問12】教会の将来をどのように見ておられますか。

【ヴィガノ大司教】短期的には、教会は、ベルゴリオとその腐敗した仲間の小グループが引き起こした災難に対処しなければならなくなると思います。この「教皇職」の損害は計り知れないもので、今や素朴な人々にさえ理解されており、「信仰の感覚」(sensus fidei)によって現在の位階階級が教会と絶対的に不適合であることが明らかにされています。世俗の領域において見られる政治階級と市民の間の緊張と対立は、教会当局者と信者の間のますます深まっている緊張と対立を、鏡のように映し出しています。

しかし、長期的には、教会は、まさにこの深刻な信仰の危機から、これまで天主とマンモン、キリストとベリアル、聖ピオ五世とベルゴリオを一緒にしてきた本質的にリベラルな態度を決定的に捨て去って、自らを刷新し清める原動力を見いだすと私は信じています。私たちは、聖職者たちの妥協の意思や凡庸さ、位階階級の人間への敬いや臆病さを頼りに、「至聖所」(sancta sanctorum)にまで潜入することができた敵【悪魔】の、形が崩れた身の毛もよだつような顔を目の当たりにしました。私たちの目の前には、眠りから目覚めつつあり、進行中の歴史的な戦いを理解している非常に多くの善き司祭、修道者、信者の聖性と謙遜があります。同時に、私たちは、キリストの権威の真の管理者であると自らを提示しながら、逆にその権威を狡猾にも簒奪し、暴力をもって行使する人々の腐敗、不正直、不道徳、天主への反逆を目の当たりにしています。子どもでさえも、どちらの側につき、誰の言うことを聞き、誰から離れておくべきかを理解しています。ですから、私たちの主のみ言葉は、今日でも変わることなく有効なのです。「あなたたちが悔い改めて、子どものようにならないなら、天の国には入れぬ」(マテオ18章3節)。

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