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[その2]第二バチカン公会議の革命が、どのようにして新世界秩序に奉仕しているのか(10月24日)

今回ヴィガノ大司教は、何故カトリック「保守派」が意図せずに進歩派を助けて、教会内の革命の推進を許してきたことになったか、ということを分析しています。訳の中で、[ ] で囲まれたところは、原稿にはあったのですが、ビデオの録画ではヴィガノ大司教は読まずに飛ばしたところです。ビデオ動画にはでてきません。

Catholic Identity Conference
カトリック・アイデンティティー・カンファレンス

2020年10月24日

(続き)
6.革命における穏健派カトリック教徒の道具としての役割

公会議の教父たちと、この集会を主宰した教皇たちは、第二バチカン公会議の文書を承認することが教会の将来に与える影響を理解していなかったと言う人もいるかもしれません。もしこれがその通りだったとしたら、つまり、異端のテキストや異端に近いテキストを急いで承認したことに少しでも後悔があったとしたなら、なぜ彼らが乱用を直ちにやめさせ、誤謬を訂正し、誤解や省略を明らかにすることができなかったのかを理解するのは難しいことです。

そして何よりも、なぜ教会当局が、カトリックの真理を擁護する人々に対してこれほどまでに冷酷であり、同時に、反逆者や異端者にひどく親切であったのかが理解できません。いずれにしても、公会議の危機の責任は、たとえ団体主義と司牧主義への千の【多くの】要求のある中であっても、油断なくその特権を守ってきて、その特権を一方向にのみ、すなわち、天主と教会の敵に対してではなく、pusillus grex[小さな群れ]に対して行使してきた権威の足元に置かれなければなりません。

一人の異端の神学者あるいは革命的な修道者が検邪聖省(Holy Office)によって検閲されたのが非常に稀な例外であったということは、何十年にもわたって施行されてきた規則を、悲劇的にも確認しているにすぎません。言うまでもなく、最近の時代では、彼らの多くが、自分たちの誤謬を捨てることなく復帰しており、ローマ教皇庁や教皇庁アカデミーで上位の地位に昇進してさえいるのです。

これが私の分析から浮かび上がってくる現実です。しかし、公会議の進歩派とカトリック聖伝派に加えて、司教団、聖職者、民衆の中には、両極端とみなすものから等しく距離を置こうとしている部分があることを私たちは知っています。私が話しているのは、いわゆる「保守派」のことです。つまり、教区内の中道主義的な部分は、革命派の過激さを拒否しながらも、革命派と同じ原理を共有しているため、革命派のために「水を運ぶ」【手先となる】ことになってしまうのです。

「保守派」の誤謬は、聖伝主義に否定的な意味合いを与え、聖伝を進歩主義の反対側に置くことにあります。彼らの「aurea mediocritas(黄金の平凡)」[中道 via media]は、二つの悪徳の間ではなく、聖徳と悪徳の間に恣意的に自分自身を置くことにあります。彼らは、パチャママという行き過ぎや、あるいはベルゴリオの声明の最も極端なものは批判するのですが、公会議が疑問視されるのは許容しない者たちです。公会議の癌と現在の転移との間の本質的なつながりについては言うまでもありません。政治的保守主義と宗教的保守主義の間の相関関係は、公会議の穏健な支持者たちが大切にしてきたヘーゲル主義的なアプローチに従って、「右」のテーゼと「左」のアンチテーゼの間にあるジンテーゼである「中道」を採用することにあるのです。

世俗の領域では、「ディープ・ステート」は、一見反対派にしか見えないものの実際には権力を維持するための道具となっている組織や運動を利用することによって、政治的・社会的な反対意見を管理してきました。同様に、教会の領域では、「ディープ・チャーチ」は穏健な「保守派」を利用して、信徒に自由を提供しているかのように見せかけています。

例えば、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Sumificum)自体は、特別形式のミサ挙行を認める一方で、公会議を受け入れ、改革された典礼の合法性を認めることを、「saltem impliciter」[少なくとも暗黙のうちに]要求しています。この策略は、この自発教令の恩恵を受けている人々が異議を唱えることを防ぐことであり、そうしなければ、彼らは「エクレジア・デイ」共同体【第二バチカン公会議を受け入れることを条件に教皇の承認を得て聖伝のミサを捧げる団体】の解散という危険を冒すことになります。

そしてこの策略は、教会や社会で正当性を持つためには、良いことであっても、それには悪いことや、少なくとも良さが少ないものが必ず伴っていなければならないという危険な考えを、キリスト教の民に植え付けてしまうのです。しかし、善と悪の両方に平等な権利を与えようとするのは、間違った心だけです。人がたとえ個人的には善に賛成していても、悪に賛成している人々の正当性を認めているのであれば、それは無きに等しいことです。

この意味で、民主的な政治家たちによって理論化された「選択の自由」による妊娠中絶は、今日、反教会によって頑なに擁護されている公会議によって理論化された同様に異常な「信教の自由」に対応して釣り合いを取っているのが分かります。カトリック教徒が妊娠中絶の権利を擁護する政治家を支持することが許されないなら、大罪にとどまることを「選択」することによって自分の不滅の霊魂を危険にさらすという個人の「自由」を擁護する高位聖職者を認めることは、なおさら許されないことです。これはあわれみではありません。これは、人間の支持と承認を得ようとするために、天主の前での霊的義務を怠ることです。


ヴィガノ大司教「"保守派"の誤謬は、聖伝主義に否定的な意味合いを与え、聖伝を進歩主義の反対側に置くこと、聖徳と悪徳の間に自分自身を置くことにある。」


7.「開かれた社会(オープン・ソサエティー)」と「開かれた宗教」

この分析は、教会の領域で非常によく知られた新言語(neo-language)について一言触れないなら、完全とは言えないでしょう。伝統的なカトリックの語彙は、その言葉が表す内容を変えるために、意図的に修正されています。同じことが典礼や説教で起こっています。そこでは、カトリック的な説明の明快さが、曖昧さ、あるいは教義の真理の暗黙の否定によって置き換えられています。例を挙げればきりがありません。この現象も、この世のスローガンの「カトリック」版を発展させようとした第二バチカン公会議にまでさかのぼります。それにもかかわらず、私が強調したいのは、世俗主義者の用語集から借用されたそれらの表現もまた、すべて新言語の一部であるということです。ベルゴリオが主張している「外に出ていく教会」、つまり積極的な価値としての "開かれていること openness"について考えてみましょう。前と同じように、私はいま、「フラテッリ・トゥッティ」(Fratelli tutti)から引用します。

「生きていてダイナミックな民、未来を持つ民は、違いを歓迎する能力を通じて、新しい統合のために常に開かれています」(フラテッリ・トゥッティ160番)。

「教会は扉の開かれた家です」(同上276番)。

「私たちは奉仕する教会でありたいと願っています。家を出て、礼拝の場から外に出て、香部屋から外に出ていく教会です。それは、生命に寄り添い、希望を支え、一致のしるしとなるため・・・橋を架け、壁を壊し、和解の種をまくためです」(同上)。

ジョージ・ソロスの世界統一主義イデオロギーが追い求める「開かれた社会(オープン・ソサエティー)」との類似性が非常に顕著であるため、それに対する「開かれた宗教」という対位法を構成していると言ってもいいほどです。

そして、この「開かれた宗教」は、世界統一主義の意向と完全に一致しています。教会の指導者たちによって祝福された「新しい人間中心主義(New Humanism)のための」政治集会から、「緑のプロパガンダ」への進歩的知識人の参加に至るまで、それらはすべて、この世を喜ばせようとする悲しくも奇怪な試みの中で、主流派の思想を追いかけているのです。「私はいま、人の賛成を求めようとするのか、それとも天主のみ旨を求めようとするのか。あるいは人に取り入ろうと努めているのか。私がいまも人に取り入ろうとしているのなら、私はキリストの奴隷ではない」(ガラツィア1章10節)。

カトリック教会は天主のまなざしの下で生きており、天主の栄光のため、また霊魂の救いのために存在しています。反教会は、この世のまなざしの下で生きており、冒涜的な人間の神格化と、霊魂の滅びに迎合しています。第二バチカン・エキュメニカル公会議の最後の総会の間、すべての教父たちの前で、パウロ六世の、次の驚くべき言葉がバチカン大聖堂に響き渡りました。

「人となった天主の宗教は、自ら自身を天主とする人間の宗教(これは宗教であるから)に出会いました。すると、何が起こったのでしょうか。衝突や戦い、非難があったのでしょうか。あり得たかもしれませんが、何もありませんでした。【良き】サマリヤ人の昔話は、公会議の霊性の手本となっています。限りない同情の感情が、公会議全体に浸透していきました。私たちの公会議の注意は、人間の必要とするものの発見に集中してきています(そして、これらの必要とするものは、地の子が自らのために主張する偉大さに比例して大きくなっていきます)。しかし、私たちは、自分たちを現代のヒューマニストと称し、最高の現実の持つ超越的な価値を放棄した人々に呼びかけます。彼らが、少なくとも【公会議の】一つの特質のために公会議を信用し、私たちの持つ新しいタイプの人間中心主義(humanism)を認識するように呼びかけます。私たちもまた、実に、他の誰にも増して、人類を崇敬しているのです」[4]。

この同情[συμπάθεια【sympatheia】の語源的意味、すなわち他者の感情を分かち合う]は、公会議の姿であり、かつ反教会の新宗教(これは宗教であるから)の姿です。反教会とは、教会とこの世との不潔な結合から、天のエルザレムと地獄のバビロンの間の不浄な結合から生まれたものです。よく注意してください。初めて教皇が「新しい人間中心主義(new humanism)」について言及したのは第二バチカン公会議の最終総会の時であり、今日では、それが公会議の革命的な「mens」[考え方、メンタリティー]の完璧で一貫性のある表現だとみなす人々によって、一つのマントラ【呪文】として繰り返されているのが私たちには分かります[5]。

新世界秩序と反教会との間にあるこの意向の一致を常に念頭に置いて、私たちは、ベルゴリオによって設計されたプロジェクトである「教育に関するグローバル・コンパクト」を忘れてはなりません。これは、「地球規模で変化を生み出すことで、教育が兄弟愛や平和、正義の創造者となるようにするのです。この時代には、パンデミックによって、さらに緊急的な必要性がしるされました」[6]。

国連と共同で推進されているこの「関係性と出会いの文化とにおける養成の過程は、すべての被造物との『共通の家』にも空間と価値を見いだします。なぜなら、人々は、共同体と連帯の論理にそって形成されているように、すでに『被造物との穏やかな調和を回復する』ために活動しており、世界を「真の兄弟的集まりの場所」(Gaudium et Spes, 37)【現代世界憲章37番】として構成しているからです」[7]。

以上のように、イデオロギー的に言及しているのは常に第二バチカン公会議のみであり、その理由は、その時から反教会が人間を天主の代わりに、被造物を創造主の代わりに置いたからです。

「新しい人間中心主義(new humanism)」には、明らかに環境的・生態学的な枠組みがありますが、その枠組みには、回勅「ラウダート・シ」(Laudato Si)と「緑の神学」(Green theology)の両方が接ぎ木されています。つまり、2019年の司教会議(シノドス)の「アマゾンの顔をした教会」のことであり、「ローマの衆議所」【ユダヤの衆議所は不法な夜の会議でキリストを断罪したがそれになぞらえてこのシノドスのことを表現している】の前で行ったパチャママ(母なる大地)の偶像崇拝を伴っています。

新型コロナウイルス感染症の期間の教会の態度は、一方では、教皇がしっかりと擁護しなければならなかった「教会の自由」(Libertas Ecclesiae)に違反して、位階階級が国家の「命令」(diktats)に服従していることを示していました。それはもう一方でまた、人類と国家の無数の罪に憤慨した天主の正義の御怒りを、環境に対する敬意の欠如に憤慨した更に不穏で破壊的な自然の怒りに置き換え、パンデミックの超自然的な意味の否定を表示しました。

私が強調したいのは、ほとんど知性と意志を付与されたかのように自然に、人格的なアイデンティティーを帰するということは、自然が神格化されるための前奏曲だということです。私たちはすでに、まさに聖ペトロ大聖堂のドームの下で、これについての冒涜的な前奏曲を見ているのです。

結論はこうです。反教会の側が現代世界の支配的イデオロギーに一致することで、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ、ビル・ゲイツ、ジェフリー・サックス、ジョン・エルカン、グンター・パウリを含む「持続可能な経済」に向けて活動している人々をはじめとする、ディープ・ステートの強力な代表者たちとの本当の協力関係が確立されるのです[8]。

[「持続可能な経済」は、農業および仕事の世界全般にも関わりがあることを覚えておくと有益となるでしょう。「ディープ・ステート」は、移民を通じて低コストの労働力を確保する必要があり、そうすることは同時に、関係する国々の宗教的、文化的、言語的アイデンティティーの抹消に寄与するのです。「ディープ・チャーチ」は、この侵略計画にイデオロギー的・擬似神学的な根拠を与えると同時に、利益を生む接客ビジネス(business of hospitality)のシェアを保証しています。ベルゴリオが「フラテッリ・トゥッティ」の中で繰り返し述べているように、「閉鎖性と自粛という異国恐怖症的なメンタリティーが広がっています」(同上39番)、「移住は世界の未来を打ち立てる要素を構成するでしょう」(同上40番)という、移民をテーマにしたベルゴリオの主張も理解できます。ベルゴリオは「打ち立てる要素」という表現を用いて、移住なしでは未来を想定することは不可能であると述べています。]

大統領選挙前夜の米国の政治状況について簡単に説明させてください。「フラテッリ・トゥッティ」は、ドナルド・トランプに明確に対抗して、民主党候補をバチカンが支持するという一形式のようです。フランシスコがローマでのマイク・ポンペオ国務長官への謁見を拒否した数日後のことです。これは、「光の子ら」がどちらの側にいるのか、そして「闇の子ら」が誰なのかを裏付けています。

8.「兄弟愛」のイデオロギー的な基盤

ベルゴリオの強迫観念である兄弟愛というテーマは、「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」(Nostra Ætate)と「信教の自由に関する宣言」(Dignitatis Humanae)で初めて定式化されました。最新の回勅「フラテッリ・トゥッティ」(Fratelli Tutti)は、このフリーメーソン的ビジョンの宣言(マニフェスト)であって、天主を排除した人間同士の一致のために、自由、平等、博愛(兄弟愛)という叫びが福音に取って代わったものです。2019年2月4日にアブダビで署名された「『世界平和のための人類の兄弟愛』に関する共同宣言書」を、ベルゴリオが次の言葉で誇らしげに擁護したことに注意してください。

「カトリックの観点から見ると、文書は第二バチカン公会議から一ミリもずれていない。」
【“dal punto di vista cattolico il documento non è andato di un millimetro oltre il Concilio Vaticano II.”】

教皇庁諸宗教対話評議会議長ミゲル・アユソ・ギクソット枢機卿は、イエズス会総合雑誌「ラ・チビルタ・カットリカ」に、こうコメントを寄せています。

「公会議とともに、堤防は徐々にひび割れ、そして破られていきました。対話の川は、教会と他宗教の信者との関係についての公会議宣言「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」(Nostra Ætate)および互いに密接に結びついている信教の自由、テーマ、文書についての公会議宣言「信教の自由に関する宣言」(Dignitatis Humanae)で広がり、聖ヨハネ・パウロ二世が1986年10月27日にアッシジで開催した「世界平和祈祷集会」のような会議に命を与え、ベネディクト十六世が25年後に「世界の平和と正義のための考察、対話、祈りの日―真理への巡礼者、平和の巡礼者」の行事を聖フランシスコの町で私たちが行うことを可能にしているのです。したがって]平和と兄弟愛への道を開く宗教間対話へのカトリック教会の関わりは、教会の本来の使命の一部であり、公会議というイベントにそのルーツを持っています」[9]。

もう一度、第二バチカン公会議という癌は、それがベルゴリオ流「癌転移」の源にあることを裏付けています。私の兄弟アタナシウス・シュナイダー司教が最近の演説で正しく指摘したように、公会議とパチャママ・カルトを結びつけている「赤い糸(fil rouge)」[共通のテーマ]もまた、アッシジを通ってきて【アッシジの影響を受けて】いるのです[10]。

反教会といえば、フルトン・シーン司教は反キリストについて次のように述べています。「彼の宗教は天主の父性を持たない兄弟愛であり、選ばれた者さえも欺くでしょう」[11]。私たちの目の前で、この尊者である米国人大司教の予言が現実のものとなっているように思えます。

それゆえ、悪名高いスペインのグランド・ロッジが、玉座に就いたその騎士(paladin)【教皇フランシスコ】を温かく祝福した後、再びベルゴリオに次のような言葉で敬意を表したとしても、何ら不思議ではありません。

「[このイニシエーションの学派の偉大な原理は、3世紀にもわたって変わっていません。それは、人間が特定の信念やイデオロギー、肌の色、社会的出身、言語、文化、国籍を超えて、互いに兄弟と呼べるような普遍的な兄弟愛を築くことです。この博愛的な夢は、カトリック教会の場合には、19世紀にフリーメーソンの寛容さを非難する厳しいテキストにつながった宗教原理主義と衝突しました]。教皇フランシスコの最新の回勅は、現在のカトリック教会がその以前の立場からどれだけ離れているかを示しています。『フラテッリ・トゥッティ』において、教皇は現代フリーメーソンの偉大な原理である普遍的な兄弟愛を受け入れました」[12]。

イタリアのグランデ・オリエンテの反応も同様です。

「これらは、フリーメーソンが人類の高揚のために常に追求し、守ってきた原理です」[13]。

[ベルゴリオの“聖人伝作者”、オースティン・イヴェレイは、カトリック教徒なら当然のことながら少なくとも不安には思うでしょう、と満足しながらこの解釈を裏付けています[14]]。

「アルタ・ヴェンディータ」(Alta Vendita)【イタリアのカルボナリ党のロッジ】のフリーメーソン文書では、19世紀以来、教会へのフリーメーソンの潜入が計画されていたことを私は思い起こします。


「あなたは、友人らを使徒座の元に連れていくだろう。三重冠とカッパを身に着けて、十字架と旗をもって行進しながら、あなたは革命を説教するだろう。ほんのちょっとの針先でつつかれるだけで世界の四方八方に火をつけることができる革命を。」[15]

【脚注】
[4] ≪Religio, id est cultus Dei, qui homo fieri voluit, atque religio - talis enim est aestimanda - id est cultus hominis, qui fieri vult Deus, inter se congressae sunt. Quid tamen accidit? Certamen, proelium, anathema? Id sane haberi potuerat, sed plane non accidit. Vetus illa de bono Samaritano narratio excmplum fuit atque norma, ad quam Concilii nostri spiritualis ratio directa est. Etenim, immensus quidam erga homines amor Concilium penitus pervasit. Perspectae et iterum consideratae hominum necessitates, quae eo molestiores fiunt, quo magis huius terrae filius crescit, totum nostrae huius Synodi studium detinuerunt. Hanc saltem laudem Concilio tribuite, vos, nostra hac aetate cultores humanitatis, qui veritates rerum naturam transcendentes renuitis, iidemque novum nostrum humanitatis studium agnoscite: nam nos etiam, immo nos prae ceteris, hominis sumus cultores≫. Paolo VI, Allocuzione per l’ultima sessione del Concilio Ecumenico Vaticano II, 7 Dicembre 1965,

cfr. http://www.vatican.va/content/paul-vi/it/speeches/1965/documents/hf_p-vi_spe_19651207_epilogo-concilio.html

[5] https://twitter.com/i/status/1312837860442210304

[6] Cfr. www.educationglobalcompact.org

[7] Congregazione per l’Educazione Cattolica, Lettera Circolare alle scuole, universita e istituzioni educative, 10 Settembre 2020, cfr. http://www.educatio.va/content/dam/cec/Documenti/2020-09/IT-CONGREGATIO-LETTERA-COVID.pdf
【In un simile processo di formazione nella relazione e nella cultura dell’incontro trova spazio e valorizzazione anche la “casa comune” con tutte le creature, poiché le persone, proprio mentre si formano alla logica della comunione e della solidarietà, già lavorano «per recuperare la serena armonia con il creato»3, e per configurare il mondo come «spazio di una vera fraternità» (cfr Gaudium et spes, 37).】

[8] https://www.lastampa.it/cronaca/2020/10/03/news/green-blue-la-nuova-voce-dell-economia-sostenibile-via-con-il-papa-e-bill-gates-1.39375988

https://remnantnewspaper.com/web/index.php/articles/item/2990-the-vatican-un-alliance-architects-of-death-and-doom

[9] Card. Miguel Angel Ayuso Guixot, Il documento sulla Fraternita umana nel solco del Concilio Vaticano II, 3 Febbraio 2020. Cfr. https://www.laciviltacattolica.it/news/il-documento-sulla-fratellanza-umana-nel-solco-del-concilio-vaticano-ii/

[10] https://www.cfnews.org.uk/bishop-schneider-pachamama-worship-in-rome-was-prepared-by-assisi-meetings/

[11] Mons. Fulton Sheen, discorso radiofonico del 26 Gennaio 1947. Cfr. https://www.tempi.it/fulton-sheen-e-linganno-del-grande-umanitario/

[12] https://www.infocatolica.com/?t=noticia&cod=38792

[13] https://twitter.com/grandeorienteit/status/1312991358886514688

[14] https://youtu.be/s8v-O_VH1xw

[15] « Vous amènerez des amis autour de la Chaire apostolique. Vous aurez prêché une révolution en tiare et en chape, marchant avec la croix et la bannière, une révolution qui n’aura besoin que d’être un tout petit peu aiguillonnée pour mettre le feu aux quatre coins du monde. » Cfr. Jacques Cretineau-Joly, L’ Eglise romaine en face de la Revolution, Parigi, Henri Plon, 1859.
https://books.google.it/books?id=Taz2Ph-ttgQC&printsec=frontcover&hl=it&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

(続く)

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