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クロード・バルト神父とのインタビュー「第二バチカン公会議の脱線や新しいミサの作成は『教会に浸透した革命的な勢力』の結果である」(2021年6月16日)

ヴィガノ大司教「第二バチカン公会議の脱線や新しいミサの作成は『教会に浸透した革命的な勢力』の結果である」
2021年6月16日

【編集者注】カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、「Le Messe de Vatican II」(第二バチカン公会議のミサ)の著者であるクロード・バルト神父とのインタビュー(初出はこちら:フランス語はこちら)の中で、第二バチカン公会議と「モンティーニのノブス・オルド」の作成に関連するいくつかの質問に答えています。ここで出てくる「モンティーニのノブス・オルド」とは、公会議後に、当時のアンニバレ・ブニーニ神父が率いるコンシリウム(典礼委員会)が作成し、教皇パウロ六世(ジョヴァンニ・モンティーニ)が公布したミサの新しい典礼様式のことです。

大司教様は、この一年間に何度も強調してきた点を再確認されました。すなわち、「第二バチカン公会議のかなり前から、革命的な勢力が教会に浸透していて、実験的に(ad experimentum)導入された革新的なものを、決定的に導入する準備をしていた」ということです。例えば「1962年の典礼法規と1970年規範版(Editio typica)の間の」いくつかの「移行期のミサ典書」がそうです。1970年規範版は「モンティーニのノブス・オルド」と呼ばれています。

大司教は言います。「テキストや典礼様式の典礼法規にとどまらず、改革された典礼様式を明確に革命的なものにしているものは、司式者や共同体に合わせて柔軟性を持たせた(malleable)ことですが、ローマの〈典礼の心〉(mens liturgica)には全く関係のない、「適応能力」ということに基づいているだけです。」

さらにこうも言います。「パウロ六世のローマ・ミサ典書(Missale Romanum)が使用された同じ教皇の式典では、典礼法規を逸脱して、俗語での朗読が導入され、想定外の典礼様式や、聖職者だけに留保された役割を平信徒さらには女性さえもが担うことが導入されました。これらのことは、私の見解では、公会議とそれに触発された典礼様式の革命的な精神を裏付けるものです。」

新しいミサの最も根本的な問題点を尋ねられた大司教様は、新しいミサの設計者が、「使徒から始まり、何世紀にもわたって調和的をもって発展してきた二千年の典礼様式」を保存することよりも、「エキュメニカルな対話の追求」を重視していたという事実を指摘されました。より敬虔な方法でノブス・オルドを捧げようとする努力について、大司教様は、そのような努力は「敬虔な意図で動機づけられているように見える」が、しかしそのような努力の背後には、ノブス・オルドの範囲内で敬虔さを奨励する「これらの高位聖職者の誰もが告白する勇気のない事実があると信じています。それは、公会議の失敗、さらに公会議の典礼の失敗です」と述べておられます。

また、ベネディクト十六世の「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)の「差し迫った改革」が行われようとしているという最近のニュースを受けて、「エクレジア・デイ共同体」の運命についても、バルト神父は質問しています(このテーマは先週、ヴィガノ大司教が取り上げられました)。

聖ピオ十世会について、大司教様は現時点で「教会法上の正常化」を受け入れないように助言されているようですが、それは「聖座との合意に署名してしまえば、完全に正常ではない立場のおかげで同会が享受している独立性は失われ、それに伴い経済的な独立性も失われてしまう」と認識しておられるからです。

インタビューの全文は以下をご覧ください。

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【クロード・バルト神父】大司教様、大司教様は第二バチカン公会議後の新しい典礼の作成に関連して、時々「革命的な行為」について語っておられます。この問題について、大司教様のお考えを明確にしていただけますか。

【カルロ・マリア・ヴィガノ大司教】まず第一に、第二バチカン公会議が革命的なイベントとして構想されたことを極めて明確にしなければなりません。もちろん、私は準備草案の起草に協力した人々の良い意向に言及しているのではありません。そうではなく、世界中の司教の大部分が望んでいたような公会議が宣告すべき共産主義の断罪を拒否するとともに、その草案を拒否した革新主義者たちのことを言っているのです。さて、第二バチカン公会議が、その実施方法においても、公布された文書においても、革命的な行為であったとすれば、その典礼もまた、このイデオロギー的なアプローチの影響を受けていると考えるのは論理的かつ正当なことであり、特に典礼が、信徒や聖職者が要理教育を受けるための主要な手段であることを念頭に置くならば、なおさらです。ルターや他のプロテスタント、英国国教会の異端者たちが、自分たちの誤謬を信徒に広めるための主な手段として典礼を用いたのは偶然ではありません。

以上のことを述べた後に、その典礼の設計者が誰であったかを考えると、私たちの正当な疑念もまた裏付けられます。それは、フリーメーソンに所属していると疑われることのよくある高位聖職者たちで、彼らは悪名高い進歩主義者であり、1920年代と1930年代の「典礼運動」で、すでに疑わしい以上の思想を提案し始めており、後にピオ十二世が回勅「メディアトール・デイ」(Mediator Dei)で断罪した「典礼考古学主義」の影響を受けた実践を広め始めていたのです。会衆に向く(versus populum)祭壇は第二バチカン公会議の発明品ではなく、数十年前に古代への回帰を口実に例外として導入した後、公会議で実質的に義務化した典礼学者たちの発明品なのです。同じことが、公会議以前の形式で、特にフランスで使われた、いわゆる「ゴシック・カズラ」にも言えます。これは「ポンチョ」のようなもので、公会議の後、本来の形を取り戻したものとしてみせかけられましたが、実際には歴史的かつ典礼的な偽物でした。これらの例から、私が強調したいのは、第二バチカン公会議のかなり前から、革命的な勢力が教会に浸透していて、特に歴史的に「ローマらしさ」(romanitas)に適応する傾向が弱い国々で、「実験的に」(ad experimentum)導入され実践されるようになったその革新的なものを決定的なものにする準備をしていたということです。

典礼とは、特定の教理上のアプローチの表現であり--- ノブス・オルド(新しいミサ)によって教理上のアプローチは、イデオロギー的なアプローチにもなりましたが---、新しい典礼を考えついた典礼学者たちがこのアプローチに染まっていたことを私たちがいったん理解するならば、その革命的な性質を裏付けるために、公会議の「典礼の総体」(corpus liturgicum)を分析しなければなりません。

テキストや典礼様式の典礼法規にとどまらず、改革された典礼様式を明確に革命的なものにしているものは、司式者や共同体に合わせて柔軟性を持たされた(made malleable)ことですが、これはローマの〈典礼の心〉(mens liturgica)には全く関係のない、「適応能力」ということに基づいているだけです。

さまざまな革新の恣意性こそが、改革された典礼の不可欠な部分であり、パウロ六世の「ローマミサ典書」(Missale Romanum)に始まる典礼書は、大まかな草案、キャンバス -- 多かれ少なかれ才能のある画家が、世間の賞賛を求めて、思い通り描いてみせるキャンバス -- と考えられます。

ノブス・オルドで濫用的にとはいえ導入された信徒の喝采は、見世物と化した典礼様式には欠かせない一部分であるコンセンサス(同意)の表現です。一方、古代社会では、演劇は常に典礼的な意味合いを持っていましたし、第二バチカン公会議の教会が、その意味合いを反転させることで、つまり典礼の典礼様式に演劇的な意味合いを与えることで、異教的な考え方を掘り起こそうとしたことは重要なことです。

ラテン語の「規範版」(Editio typica)【の新しいミサ】が、公会議後に行われたにちがいない典礼様式に一致していると考える人は誰であれ、お人好しであると同時に無知です。この典礼書には、司祭が日常的に使用することを意図したものは何もありません。お粗末なグラフィック・レイアウトから始まって全てがそうです。これは、まさにラテン語でノブス・オルド【新しいミサ】を捧げる人は実際にはいないだろうと知っていたので、明らかに軽んじられています。

パウロ六世の「ローマ・ミサ典書」が使用された同じ教皇の式典では、典礼法規を逸脱して、俗語での朗読や、想定外の典礼様式、聖職者に留保された役割を平信徒、そして女性さえもが担うことが導入されました。このことは、私の見解では、公会議の、そして公会議に触発された典礼様式の、革命的な精神を裏付けるものです。

【バルト神父】1964年に始まり、1969年に新しいミサ典書を作成したこの典礼改革は、そのプログラム文書である第二バチカン公会議の「典礼憲章」(Sacrosanctum Concilium)よりも過激に見えるかもしれません。ブニーニ大司教のコンシリウムは、ある人々が言うように第二バチカン公会議を裏切ったと思われますか、それとも他の人々が示唆するように第二バチカン公会議を発展させたと思われますか。

【ヴィガノ大司教】アンニバレ・ブニーニ大司教は、ピオ十二世の在位中に公布された「Ordo Hebdomadae Sanctae instauratus」(聖週間の改革版)の起草に協力した一人です。新しいミサ典書の深刻な劣化は、核心において(in nuce)聖週間の典礼様式に含まれており、解体計画がすでに始まっていたことを示しています。したがって、公会議に対する裏切りはなく、公会議の立役者の誰もが、典礼改革が「聖なる典礼に関する憲章」の「心」(mens)と矛盾するとは考えていなかったほどです。「Ordo Hebdomadae Sanctae instauratus」の起源を注意深く研究すると、革新主義者の要求は部分的にしか受け入れられなかったものの、モンティーニのノブス・オルドで再提案されたということを理解することができます。

しかし、他のすべてのエキュメニカルな公会議とは異なり、「この」公会議は、その権限を意図的に利用して、司牧的、規律的、典礼的な手段を用いて追求された、信仰と道徳の組織的な裏切りを是認したということを明確に言わなければなりません。1962年の典礼法規と1970年の「規範版」(Editio typica)の間の、そして、その直後の1975年の「修正規範版」(Editio typica altera)の間の、移行期のミサ典書は、このプロセスがいかに小さなステップで行われたかを示しています。聖職者と信徒は、儀礼の暫定的な性質と継続的な革新に慣れ、ノブス・オルドをヨハネ二十三世の最後の「ローマ・ミサ典書」(Missale Romanum)に当初は近づけていた多くの要素が徐々に失われていくことになりました。例えば、私が考えているのは、いけにえを捧げる奉献文と「来たまえ、聖化し給う天主よ」(Veni Sanctificator)を伴うラテン語のローマ典文を「低い声」(submissa voce)で唱えていたのが、適用の過程で、タルムード的な奉献文があって聖霊への祈願を廃止したローマ典文を声に出して唱えるようになったことです。

公会議の文書を公会議の教父たちに承認してもらうために準備した人々は、典礼改革の起草者たちが採用したのと同じ悪意を持って行動し、曖昧な文章をカトリック的に解釈することを知っていましたが、一方それを普及させ利用する人々は、それ以外のあらゆる意味で解釈していました。

実際、この概念は日常の実践で確認されています。東向きの祭壇でノブス・オルドを捧げ、全てラテン語で、ローマ・カズラを着て、聖体拝領台のところでご聖体を配りながら、しかし教区長や同僚の怒りを買うことがないという司祭を見たことがありますか。厳密に言えば、この捧げる方法は、完全に合法的であるにもかかわらずです。確かに誠実に試みた人々は、習慣的にトリエント・ミサを捧げる人々よりも悪い扱いを受けています。このことが証明しているのは、公会議の解釈法において期待されていた「連続性」が存在しないことと、公会議前の教会との断絶こそが、私たちが従わなければならない規範であることです。この事実に【この事実を常に主張してきた】保守派は満足するでしょう。

最後に、私が指摘したいのは、古い典礼様式が第二バチカン公会議のイデオロギーと教理的に相容れないという認識は、自称神学者や進歩的な知識人が主張しているものだということです。彼らにとって「特別な形式」の典礼様式は、聖伝のミサが暗示する神学的な枠組み全てが採用されない場合に限り、許容されるものであるということです。だからこそ、説教やカテケージス【要理教育】において、第二バチカン公会議や新しいミサを批判しないように注意すれば、「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)共同体の典礼は許容されるのです。

【バルト神父】ノブス・オルド・ミサに対する批判の中で、最も重要だと思われるものは何でしょうか。

【ヴィガノ大司教】最も根拠の確かな批判は、使徒から始まり、何世紀にもわたって調和をもって発展してきた二千年の典礼様式を捨てて、自分が使うため・自分の消費のために典礼を発明しようと望んだことにあります。改革された典礼は、有能な学者なら誰でも知っているように、カトリックの「祈りの法」(lex orandi)とプロテスタントやルター派の異端的な要求との間のイデオロギー的な妥協の結果です。教会の信仰は公的な礼拝で表現されるため、エキュメニカルな対話を追求するためには、「不快にさせる」と考えられた真理を弱めるか否定するかして、典礼を新しい信仰の在り方に適応させることが不可欠だったのです。

現代の感覚ではもはや理解できないある種の典礼様式を切り捨てようとするだけの改革であれば、偽改革の際にルターが行ったことや、英国国教会の離教後にクランマーが行ったことの模倣的な繰り返しを避けることは容易だったことでしょう。異端者がカトリックの教義のある点を否定した際に使った革新的なものを採用したという事実だけでも、主が牧者たちに委ねられた群れに損害を与えるために、牧者たちが教会外の人々のコンセンサスに従属していることを疑う余地なく示すことができます。次のように想像してみてください。カルヴァン主義による殉教者たちあるいはジェームズ王の怒りによる殉教者たちのうちの一人が、自分たちの命を犠牲にした祭壇の代わりに教皇・枢機卿たち・司教たちがテーブルを使っているのを見たとしたら、どう思うだろうか、と。また、4世紀前に「宗教改革者たち」が行ったことを、おそらくより厳かな方法ではあるものの、ぎこちなく模倣することに夢中になっている憎きローマのバビロン【プロテスタントは教皇庁を黙示録に出てくる大バビロンに例えている】に対して、異端者が、どのような敬意を抱くというだろうか、と。ルターの典礼の異端がバッハのコラール(合唱)で伝えられた一方で、公会議の教会の典礼様式には、かつてないほど醜悪な楽曲が伴っていることを忘れないでください。典礼の崩壊は、教理の崩壊を明らかにし、この世のメンタリティーを喜ばせたいという熱意だけの理由によっておこなわれ、聖なる教会を辱めているのです。

【バルト神父】たとえば、天主に向いてミサを捧げたり、奉献文の祈りを再導入したり、ご聖体を舌の上に配ったりして、徐々に「典礼の復活」を提唱してきたベネディクト十六世やサラ枢機卿、その他の人々の失敗を、どう説明することができるでしょうか。

【ヴィガノ大司教】もし、あるバチカンの当局者が、パウロ六世記念ホールのサラ・ネルヴィ【ネルヴィの間。ネルヴィはホールの設計者の名】を漆喰とフレスコ画で装飾し、醜い復活の彫刻をバロック風の景色で置き換えるように命令したとしたら、彼は変わった人物とみなされるでしょう。特に聖ペトロ大聖堂が石を投げて届く距離しか離れていないというのにです。

パウロ六世記念ホール ネルヴィの間

同じことが、客観的に見て無意味な粉飾によって、改革された典礼の見栄えを良くしようとする試みにも当てはまると私は考えています。ノブス・オルドを東に向かって捧げ、奉献文を変更し、ご聖体を舌の上に配ることに何の意味があるのでしょうか。トリエント・ミサでは常にこのようなことが行われてきたというのにです。

この「典礼復興」は、公会議の改革を動かしたのと同じ誤った前提から出発しています。つまり、典礼を自由に修正することです。一つは、典礼を近代化させるために由緒ある古い典礼様式を歪めること、もう一つは、改革された典礼様式が、改革された典礼様式ではないように、そうあってほしくないもののように見せるために飾り立てることです。第一の場合には、女王に下駄を履かせ、ぼろ服を着せることになり、第二の場合には、平民が乱れ髪に女王のティアラをつけたり、麦わら帽子をかぶって玉座に座ることになります。

敬虔な意図で動機づけられているように見えるこれらの試みの背後には、これらの聖職者の誰もが告白する勇気のない事実があると私は信じています。それは、公会議の失敗、さらには公会議の典礼の失敗です。古い典礼に戻り、ノブス・オルドのみすぼらしさを決定的に記録保管庫行きにするには、大きな謙虚さが必要です。なぜなら、今日、ノブス・オルドを難破船から救おうとしている人々は、昨日までは典礼改革と第二バチカン公会議の最も熱心な支持者だったからです。

私は次のように自問します。パウロ六世が、たった一日でトリエント典礼を廃止し、【クランマーの】「共通祈祷書」からの抜粋を寄せ集めたものに置き換え、聖職者や信徒の抗議にもかかわらず、この新しい典礼様式を押し付けることに何の問題もなかったとすれば、今日、ノブス・オルドの挙行を禁止することによって古いローマの典礼様式をその名誉ある地位に復興させることに、そのとき以上の検討を要しなければならないのは、いったいなぜだろうか、と。昨日はそのような冷酷な聖像破壊的な怒りがあったのに、今日はそのような心の繊細さがあるのは、なぜだろうか、と。また、そう意図されていなかったものの外観【トリエント典礼のような外観】をノブス・オルドに与えることによって、公会議の最新のピカピカの飾りを一緒に守るためではないとしたら、このような美容整形手術を行うのは、なぜだろうか、と。

次期教皇は、公会議の改革以前のすべての典礼書を復興させ、悪名高い近代主義者や異端者が協力して実現した見苦しいパロディーをカトリック教会から追放しなければなりません。

【バルト神父】2013年のイエズス会誌のインタビューで、教皇フランシスコは公会議の模範的な実りとして典礼改革を挙げています(「第二バチカン公会議は現代文化に照らした福音の再解釈でした」)。しかしベルゴリオは聖ピオ十世会には好意的です。彼は典礼の問題に関心があるのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】私はベルゴリオが典礼に関心があるとは思っていませんし、トリエント典礼も同様に、彼にとっては異質で、少しでもカトリシズムを思い起こさせるものとして嫌っています。彼のアプローチは政治的なものです。つまり、彼は「エクレジア・デイ」共同体を容認していますが、その理由は、彼らが小教区から保守派を集めているからであり、同時に彼らへの支配力を維持して、反対意見を典礼のレベルにのみ限定するよう余儀なくさせる一方で、彼らの公会議のイデオロギーへの忠誠を保証しているからです。

聖ピオ十世会に関しては、より微妙な策略が見られます。ベルゴリオは「良き隣人としての」関係を維持し、一方で、同会の長上たちにある種の特権を認め、それによって彼らを教会の生きた肢体と見なしていることを示していますが、他方で、彼らの完全な正常化の引き換えに、「公会議の教導権」の受け入れを交換しようとしているのかもしれません。明らかに、これは陰湿な罠です。いったん聖座との合意に署名してしまえば、完全に正常ではない立場のおかげで同会が享受している独立性は失われ、それに伴い経済的な独立性も失われてしまうのです。同会には、会員の生活と安全を保証する資産や資源があることを忘れてはなりません。バチカンが深刻な財政危機に陥っているときに、これらの資産は多くの人々にとって魅力的なものであることは確実です。それは、無原罪の聖母のフランシスコ会とマネリ神父(Stefano Manelli, 1933- )の迫害を始めとする他のケースで見てきたとおりです。

無原罪の聖母のフランシスコ会マネリ神父

【バルト神父】ヨゼフ・ラッツィンガーが教皇職に就く前後に望んだ、聖伝のミサを実践する使徒的生活の団体に対する保護的地位(修道者省【現在は奉献・使徒的生活会省】ではなく、教理省に依存していた)が、今日、危機に瀕していると思われますか。

【ヴィガノ大司教】「エクレジア・デイ」共同体の教会法上の立場は常に危険にさらされています。彼らが生き残っていくことは、少なくとも暗黙のうちに公会議の教理と典礼改革を受け入れることに関係しています。第二バチカン公会議を批判したり、改革された典礼様式を捧げることや出席することを拒否したりして、従わない人々は、事実上(ipso facto)、自分たちを追放される立場に置くのです。これらの使徒的生活の団体の長上たちは、結局、自分たちの聖職者を監督することになり、その聖職者たちは、批判を控え、例えば「通常の形式」の典礼様式に参加するなど、時折、従っているという具体的なしるしを示すように強く勧められます。逆説的に言えば、小教区の教区司祭は、これらの団体のメンバーよりも教理上の問題でもっと大きな発言の自由を持っているのです。

今日のバチカンの権力を持つ人々の考え方によれば、次のことをいうべきでしょう。つまり、いくつかの共同体の典礼上の奇抜さは、聖伝の典礼様式の再発見を励ますどころか、その典礼様式にエリート主義的な面を与え、それを「小さな古い世界」に閉じ込めているが、まさにベルゴリオの教会の支持者は、聖伝の典礼様式をそこに追いやることに大いに関心を持っている、と。

カトリックのミサの挙行を「正常」にさせること、つまり自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」の命令に従って「典礼上の留保」や専用の場なしで行うことは、どんな信者でも、カトリック信者である以外に別の団体に所属する称号がなくても、ミサに参加することが本当に可能であるかのような印象を与えることになります。

その反対に、このカフカ的な官僚制の城は、すべての保守派を囲いの中に押し込めた上で、監禁(ロックダウン)の規則に従うことを義務付け、また、ほとんどいつも教区司教の、隠されているが見え見えの反対がある中で、教区長の司教さまがありがたくも彼らに授与する以上のことを何も要求しないことを義務づけているのです。

ベルゴリオの行動は今やはっきりと公開されています。彼の最新の回勅は、異端の教理を理論化し、ひどく反カトリック的で反人間的な支配的イデオロギーへのスキャンダルな従属を示しています。

このような観点からすると、これやそれやの団体の典礼的な感度についての問題は、率直に言って私には無視できることのように思えます。典礼が重要でないからではなく、いったん教理面で進んで沈黙を守ろうとすれば、司教用典礼様式書の複雑な典礼様式は結局、サンタ・マルタ館【教皇フランシスコの住んでいる所】のマジック・サークル(魔法陣)【教皇の側近たち】に何の危険も及ぼさない美学の表明に矮小化されてしまうからです。

【バルト神父】聖ペトロ大聖堂での私誦ミサの禁止、マニャゴ大司教による典礼秘跡省の3日間の検査、そして教皇庁の改革に関する憲章「プレディカーテ・エヴァンジェリウム」(Prædicate Evangelium)が典礼秘跡省の監督権限を強化すると言われている事実は、改革の新たな毒性を懸念させるものでしょうか。それとも、フランシスコは、この典礼の問題にほとんど関心がないのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】聖ペトロ大聖堂での私誦ミサの禁止は、国務省による真の濫用であって、これに対して、多くの信徒や一部の高位聖職者が声を大にして抗議したにもかかわらず、これは強行され続け、前例のないつまずきとなっています。これは、今のところ、非常に控えめで、場合によっては恥ずかしいほどの口先だけの嘆きにとどまっている高位聖職者、聖職者、信徒の反応を実地に調べ、研究するための観測気球なのです。

私がすでに述べる機会があったように(英訳はこちらを参照―CFN。日本語訳はこちら―訳者)、この禁止令は、現在、定着して普遍的になった慣習に法的な体裁を与えようとする試みにすぎず、その根底にある教理上の誤謬を確立するものでもあると私は考えています。その誤謬とは、懇親的な宴会として理解される「聖体祭儀」(Eucharist)の共同体的な次元に優位性を持たせることであり、これは私的に捧げられるミサの聖なるいけにえに危害を与える考え方です。

しかし、ここで、私たちは第二バチカン公会議に触れていますが、聖ペトロ大聖堂でのミサの禁止について発言した枢機卿の誰もが、公会議が国務省の違法な禁止の起源にあることが明らかであるにもかかわらず、ほんの少しでも公会議に疑問を呈する勇気はないのです。

典礼の問題は厳密には聖座の権限の範囲内にあるため、典礼秘跡省の監督権に関しては、それ自体は肯定的な意味で考えることもできます。しかし、革新主義者たちによって公布されたいかなる規範も、述べられた目的とはしばしば反対の、表に出ていない目的を得るために彼らによって利用されるであろうという事実を考慮に入れなければ、私たちは、考えの甘さと先見性のなさで罪を犯すことになってしまうでしょう。

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