教会はキリストに属しており、キリストは教会の運営を代理者に委任するだけだ。教会をそうではないものに変えることは、非常に重大な罪しかも前代未聞の犯罪だ。(2020年6月24日)
【解説】イタリア人司祭であるモルセリ神父(Fr. Alfredo Morselli)は、ヴィガノー大司教を支持し、尊敬する一方で、第二バチカン公会議を破壊的な出来事と表現していますが、第二バチカン公会議だけに原因があったのではなく、実は公会議の前からすでにこのような展開を可能にした腐敗があったに違いなく、商業的な言葉で言えば「市場の準備ができていなければ、製品(第二バチカン公会議)は発売されなかっただろう」と言います。マンゾーニの有名なイタリアの小説『婚約者』に出てくる司祭ドン・アボンディオのように臆病者であり、悪に妥協する聖職者らでいっぱいだったからだ、と。
最後にモルセリ神父は、今、カトリック教会は末期患者のようにホスピスにいて、キリストの約束である「地獄の門も打ち勝たない non praevalebunt」と言う言葉と、聖母の汚れなき御心が最後に凱旋するというファティマの約束の二重の糸にぶら下がり、また、秘密の第三部にある大量の血が流されるという預言にもつながって、ようやく息を続けている状態だ、と分析しています。
これにヴィガノ大司教は返事をして、商業的な比喩を使って「破産」状態を分析しています。ヴィガノ大司教の手紙をイタリア語で書き、英語の訳が存在します。ここではこの返事の日本語訳をご紹介いたします。
洗礼者聖ヨハネの降誕の祝日
2020年6月24日
親愛なるモルセリ神父様
あなたのメールに感謝します。
その中で、母にして聖なる教会を悩ませている出来事について、神父様が超自然的なビジョンを確認しているのを私は見てとりました。
私は、第二バチカン公会議を、それ自体で自分の意志を持つある種の主体とみなすことはできないという事実について、あなたと同意見です。権威あるさまざまな研究は、検邪聖省が準備した公会議草案が、岩のように堅固な教会のイメージを確認することになっていたこと、しかし、現実には、特にローマから遠く離れたところでは、教会は危険な崩壊の兆しを見せていたことを明らかにしています。
そして、もしもドイツ、フランス、スイス、オランダの革新者たちの徒党の中ですでに準備された新しい草案に公式の草案とを置き換えることがとても簡単だったとしたら、明らかに、司教職にある多くのメンバーたち(独自のスタイルを持つ神学者らの取り巻きがあり、これら神学者らの大部分はすでに教会法による懲戒の対象となっていた)は、知性と意志の両方で堕落していたのです。
あなたが最も一般的なマーケティング戦略と同一視すること、そして、公会議で実現されたとあなたが正しく見ていることは、実際には不正な操作であり、信者と聖職者に対して行われた詐欺でした:ビジネスを拡大するために、製品と企業イメージを変更し、宣伝キャンペーンや割引で製品を宣伝しました。「倉庫の残り物」は清算されたり、パルプ工場【リサイクル工場】に送られたりしました。しかし、キリストの教会は企業ではありません。教会には商業目的もないし、聖職者も経営者ではありません。このセンセーショナルな誤り、というか、この本当の固有の意味での詐欺は、霊的なものに対してこの人間的で商業的な視野を持った人々によって考え出されたものであり、彼らは、自分たちが持つ役割に不適合であるばかりか、その価値もないことを証明しました。聖伝との決別を公式に示したのは、まさにそのメンタリティだったのです。つまり、教会を企業に変えるということは、教会を競合する宗派や偽りの宗教とのばかげた競争の中に置くということ、顧客の主張するニーズを満たすために「製品」の適応を押し付け、同時に、潜在的な購入者が必要性さえ感じていない新しい代替的な「商品やサービス」の必要性を喚起する必要性を押し付けることを意味しました。こうして私たちには、典礼が共同体的であることが強調され、聖書への「自分でやる do-it-yourself」アプローチ、教義と道徳への「投げ捨て・在庫処分」アプローチ、スタッフの新しい制服などが与えられたのです。
私は、もしあなたが提案した比較を私たちが続けようと思うなら、正しく、多くの競争相手を持たない製品の存在を排除するためには、それをより少なく独占的なものにするだけでなく、遅かれ早かれ、それを生産している会社をより強力で広範な会社によって吸収するという点に到達する必要があったことは否定できないと考えています。【注:これはカトリック教会の外に救いなしというドグマを希薄して、カトリック教会を「国連」(あるいは世界統一政府)の一部に吸収させてしまうということを暗示している。】
最初は、最高の製品がより厳しい顧客のための「第一級品 first line」として維持されますが、次には生産から外され、最後にはブランド自体が消滅してしまいます。この滑りやすく、不幸で、破壊的な道を進んでいき、「憐みの教会」社を新世界秩序の手にいつでも引き渡す準備ができているアルゼンチン人の清算人の手で、ついに私たちは会社の破産に到達しました。ベルゴリオ氏はおそらく、この新しい構造の中で、少なくとも自分が成し遂げた仕事が認められて、何らかの管理職的な役割を与えられると確信しているのでしょう。
この商業的なビジョンがカトリック的ではないと理解できない人はいないでしょう。とりわけ、教会はキリストに属しており、キリストは教会の運営をご自分の代理者に委任するだけだからです。教会を、そうではないものにしかも決してそうであり得ないものに変えることは、天主に反する、また天主が非常に明確に定められ牧草地で草を食み、裂け目や茂みに散らされないように命じた羊の群れに反する、非常に重大な罪しかも前代未聞の犯罪を構成します。
そして、もしこの巨大な破滅の責任者らが、法令や貸借対照表を偽造し、顧客を騙し取った不誠実な管理者であるならば、彼らは説明を求められなければなりません。Redde rationem villicationis tuae [おまえの会計の報告を出しなさい] (ルカ16:2)。
Cum benedictione [祝福をこめて]
+ カルロ・マリア・ヴィガノ大司教
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