「公会議の教会」こそが自己充足できると思い、聖伝における一致から自らを排除し〈自己参照性〉を犯しているのではないか?(2022年10月27日)
ヴィガノ大司教、第二バチカン公会議の誕生日に公会議後の教会を非難
2022年10月27日(木曜日)
カルロ・マリア・ヴィガノ
REPETITIA JUVANT
繰り返しは役に立つ
「公会議の教会」は、自己参照性によって、いかにキリストの教会の聖伝の道の踏み外しているか
【注:自己参照性(auto-referenzialità, self-referentiality)とは、使徒継承の聖伝を権威として参照するのではなく、自分自身を引き合いに出すこと】
イデオロギー的なプロパガンダを特徴づける擬人化によって、第二バチカン・エキュメニカル公会議の開会60周年に際して行われた最近のベルゴリオの賞賛の辞(こちら)は、空しいレトリックである以上に、「公会議の教会」(conciliar church)、つまり、「公会議からほとんど気づかれないうちに生まれ出たあの破壊転覆的な組織」の完全な自己参照性を裏付けないわけにはいきませんでした。この組織は、この60年の間にキリストの教会の最高位を占め、その権威を奪い取ることによって、キリストの教会をほとんど完全に覆い隠してしまったのです。
「公会議の教会」は、何世紀にもわたって先行した他の20の公会議からは離れつつ、自らを第二バチカン公会議を継承するものとみなしています。このことが、その自己参照性の主な要因です。「公会議の教会」は、信仰において、他の公会議を考慮に入れず、私たちの主が教えられ、使徒が説き、聖なる教会が伝えたものに反する教理を提案します。公会議の教会は、道徳においても、他の公会議を考慮に入れず、状況的道徳の名の下に原則から逸脱します。最後に「公会議の教会」は、典礼においてさえも、他の公会議を考慮に入れず、その典礼は、〈信仰の法〉(lex credendi)の祈りの表現として、新しい教導権に適応しようと望み、同時に、新しい典礼は信者を教化する最も強力な道具として役立っています。人々の信仰は、ノブス・オルド(Novus Ordo 新しいミサ)を通して行われた聖なるミサの持つ不純物によって科学的に腐敗し、ノブス・オルドのおかげで、〈簡潔に言えば〉(in nuce)、第二バチカン公会議のテキストに含まれていた誤謬が、神聖な行為の形を取って伝染病のように広がってしまったのです。
しかし、一方では、「公会議の教会」は、自らが「古い教会」とは関わりたくない、ましてや「古いミサ」とはさらに関わりたくない、と繰り返し主張し、まさに古い教会や古いミサが幻の「公会議の精神」と相容れないという理由で、その両者には隔たりがあり、結び付けられないものだと宣言したがっています。他方では、位階階級のメンバーたちは、ローマ教皇から最も無名の〈地方にいる〉(in partibus)司教たちに至るまで、使徒の後継者であり、かつ、使徒の後継者として考え、話し、行動しなければならないにもかかわらず、彼らは、その権威と権力を行使するための必要な前提である、キリスト自身のみ旨による〈聖伝〉(Traditio)との連続性の絆がないことを、とがめられることなく告白しているのです。
この過去との根本的な決別は、「後戻り主義」(indietrismo)などの新語を作り、また「おばあちゃんのレース」を断罪する人物【教皇フランシスコ】による粗野なスピーチによって暗い影を帯びて呼び起こされました。この過去との断絶は明らかに、外から見える形に限定されずに、――実に外観の形は、正にある特定の実体の形だからです――信仰と自然法という基盤そのものにまで及び、教会制度を本当に破壊転覆、しかも天主なる創立者【イエズス・キリスト】のみ旨と矛盾する性質の転覆にまでに達しているのです。
「私を愛しているか」という問いに対して、ベルゴリオの教会は――しかも公会議の教会の目前で恥知らずにも、しかし常に数えきれないほどの言葉の違いをもて遊びながら――「自分自身について自分を問う」のです。なぜなら、「イエズスの【問いかけという】スタイルは、答えを与えるためではなく、問いかけるため」だからだというのです。私たちは、もしこの懸念をおこさせる言葉をまじめに受け止めるなら、こう自問するかもしれません。天主の啓示と私たちの主の地上での働き、福音のメッセージ、使徒たちの説教、教会の教導権とは、罪深い人間が問いかけに答えないのなら、いったい何なのだろうか、と。人間自身が問いかけており、また天主のみ言葉を渇望し、永遠の真理を知る必要があり、また、天国での幸福を実現するために主のみ旨に従うにはどうすればよいかを知る必要があるのですから。
主は問いかけるのではなく、教え、戒め、指示し、命じられます。なぜなら、主は天主であり、王であり、最高にして永遠の司祭であるからです。主は、だれが道、真理、命なのかと私たちに問われるのではありません。御自分が、道、真理、命であるとして示し、また群れの門として、礎石として、ご自分を指し示されるのです。ご自身についても、贖いの経綸(けいりん)【御計画】において、御父へのご自分の従順を強調し、模倣すべき模範として、ご自分の聖なる従順を私たちに示しておられます。
ベルゴリオの見方はこれらの関係を転覆させ、破壊させます。主はペトロに一つの問いかけをします。ペトロは、その問いに答えることで、主を愛することが実際に何を意味するのかをよく知るのです。そして、その答えは、【答えても答えなくても良いという】任意のものでもなく、また、否定できるものでもなく、あるいは捉えどころのないものでもあり得ません。しかし、まさにこのことを「公会議の教会」は行い、この世を不快にさせないため、また流行遅れにならないために、はかなく欺瞞的なイデオロギーの誘惑をさらに重要視し、かしらである主が忠実に教えるようにと教会にお命じになったことをそっくりそのまま伝えることを拒否するのです。
主は、「私を愛しているか」とお尋ねになります。包括的な枢機卿たちに、共に歩む(synodal)司教たちに、エキュメニカルな高位聖職者たちに問われます。彼らは、婚礼に招かれた客らのように、こう答えます。「土地を買ったので見に行かねばなりません。どうぞお許しください」(ルカ14章18節)。もっと差し迫った、もっとやりがいのある、名声や社会的承認を得るための約束があるのです。キリストに従う時間も、ましてやキリストの羊を養う時間もありません。その羊が頑固で「後戻り主義」であるのなら、それがどんな意味であれ、なおさらのことです。
このため、〈彼らの〉第二バチカン公会議以外には、公会議は存在しないのです。第二バチカン公会議は、彼らが訴える唯一の公会議であるという事実によって、同時に自らが異質であることを示しています。第二バチカン公会議が、すべての公会議がそうであるような、唯一の主にして唯一の牧者による唯一の声ということとは、形式と内容において、たとえ正反対ではないにしても、異質です。
もし〈彼らの〉公会議の声が、それ以前の教導権の声と相容れないとすれば、また、もし彼らが公的礼拝を、聖伝の形では「新しい教会」の「新しい教会論」と矛盾するとみなして、聖伝の形で表現できないとすれば、第二バチカン公会議の〈前〉と〈後〉の間に溝が存在しているということであり、そのことを否定することはできません。そして実際に彼らはその溝を誇り、〈革新すべきではない〉(non est innovandum)ものの革新主義者として自分たちを提示しているのです。そして、信頼できる安全な代替があることを人々に分からせないようにするために、過去を表し、思い起こさせるものはすべて貶め、嘲り、矮小化し、最後には除去しなければならないとするのです。ちょうど現代において、〈覚醒〉(woke)イデオロギーに採用されている、あの〈キャンセル文化〉を率先して適用したのです。このことから、私たちが理解することができるのは、古代の典礼に対する嫌悪、健全な教理に対する嫌悪、行い――実体も霊魂もない言葉ではなく――によって証しされた、聖性のヒロイズム【英雄的な体現】に対する嫌悪なのです。
ベルゴリオは「耳を傾ける教会」について語ります。しかし、まさに「歴史上初めて、教会は自分自身を問い、自分自身の本質と使命を考察するために公会議を奉献した」ため、彼は、まさに「歴史上初めて」自らそれをしたいと思い、聖伝の遺産を放棄し、教会の固有なアイデンティティーを否定できると思っているのです。
この自己参照性は、修正されるべき「より悪いこと」の代わりに実行されるべき「より良いこと」があるという仮定から始まりますが、同時に、それは個々のメンバーの弱点や不忠実に関することではなく、主キリストが一度確立し、主の役務者たちが疑問に付すことができない「自らの固有の本質と固有の使命」に関すること【修正されることができないはずのこと】なのです。しかし、ベルゴリオは、「自分自身から抜け出し、世俗的なあり方の一つである自己参照性の誘惑に打ち勝つために、公会議に立ち戻りましょう」と断言します。実は「公会議に立ち戻る」という原則が、まさに自己参照性を証明し、かつ過去との断絶を最も厚かましく証明しているのです。
このように、教会が最大の拡大を行った何世紀かは――その間、教会は異端者と衝突し、異端者が挑戦した真理に関する教理をさらに明確にしました――、忘れられるべき「聖職者主義」という恥ずかしい括弧内の【省略可能な】ことであるとみなされるのです。何故なら、これら【排斥された】すべての同じ誤謬が、公会議の逸脱に見られるからです。
キリスト教の古代とされ、「原始的な世紀」、「兄弟的なアガペー」とされる遠い過去は、公会議の物語(ナラティブ)においては、本質的には歴史の偽造がなされており、信仰のために迫害され殉教した初代のキリスト信者たちとその牧者たちの勇敢な証しを意図的に隠し、チェザルの像に香を焚くことを拒否した彼らのこと、異教徒の腐った習慣と対照的だった彼らの道徳的な行動のことを隠しているのです。その一貫した証しは、たとえ女性や子どもであっても、アマゾンの〈グリーン取引〉の妄想に迎合してパチャママを崇拝することで天主の家を冒涜し、素朴な人々をつまずかせ、偶像崇拝の行為で天主の御稜威を傷つける人々を恥じ入らせるはずです。自らのエキュメニカルな暴言を追求するために、今や第一戒を犯すところにまで至っているのは、この自己参照性ではないでしょうか?
これらの誘惑的な言葉に惑わされないようにしましょう。この誘惑的な言葉は、偶然に投げかけられたのではありません。キリストの教会は決して「自己参照的」ではなく、キリスト中心的です。なぜなら教会とは、キリストがそのかしらである神秘体であり、かしらなしには存在し得ないからです。一方、教会の荒涼とした世俗版は、超自然的な地平を欠いており、自らを「公会議の教会」と定義しています。これはどうしようもなく自己参照的です。
「公会議の教会」は、もともとの純粋さへの回帰――「安楽と確信の囲いの中に」閉じもっていたとされる数世紀を経て――を支持する者として自らを提示する欺瞞をつかって、権力を行使しています。それと同時に、キリストが忠実に伝えるように命じられた教えを歪曲することができるとさえ言い張るのです。
小羊の花嫁【カトリック教会】が受けた絶え間ない迫害、殉教者たちが流した血、異端者と離教者が花嫁【教会】に対して行った戦い、福音とキリスト教の道徳を広めるための花嫁の役務者たちの献身を見れば、どんな「安楽」とされるものが、花嫁の二千年の歴史の特徴とされうるのでしょうか? それにひきかえ、何の信念もなく自らを問いただし、この世の要求に熱心にひざまずき、〈グリーン〉イデオロギーやトランスヒューマニズムに従い、同性愛者の結合を祝福し、回心を要求せずに罪人を歓迎する用意があると述べ、自力で生き延びようと希望してワクチン接種プロパガンダについてさえこの世の権力者に同意する教会にどんな困難があり得るのでしょうか?
先人たちを権威主義だと不当に非難して、先人たちより優れていると言い張ることには、ひどく自己中心的な何かが、ルチフェルの高慢に典型的な何かがあります。しかも、霊魂の救いとは正反対の目的のためには、みずから権威主義の助けをつかっているのではないでしょうか?
自己参照性のもう一つのしるしは、キリストが望まれた本質的に君主制的な(実際、帝国的と言ってもよい)システムを転覆する民主的な構造を教会に押し付けようと望んでいることです。実際、ローマ教皇の指導の下にある牧者たちからなる教導教会(Ecclesia docens)と、天主の民である信者たちからなる聴従教会(Ecclesia discens)が存在します。
位階階級の枠組みについてベルゴリオは「羊を殺し、導かず、成長させない聖職者主義という醜い罪」と定義していますが、位階階級の枠組みを取り消すことは、別のさらに深刻な欺瞞を、実際には、教会という体の内部を本当に破壊することを目的としています。つまり、真正の教導権を伝達する責任を持つ人々の権力を、叙階されていない――したがって地位に応じた聖寵の援助を受けていない――【導くのではなく】安全な牧場に導かれる権利を持つ人々と、共有することができると言い張っているのです。
〈教師〉(magister)という言葉は、まだ無知であることを学ぶ者よりも教える者のほうが持つ存在論的優位性 - magis【ラテン語で「より多い・もっと」という意味】 - をその内に含んでいます。羊の群れはどこへ行けばいいのか分からず、狼の襲撃にさらされているのですから、牧者が、自分が羊を連れて行く方向を、羊と一緒に決めることができないのは確かです。「自分自身の本質と使命について」自問することが原点回帰につながると信じるのは大嘘です。「私の命じることを守れば、私の友人である」とキリストは言われました(ヨハネ15章14節)。そして、キリストの役務者たちもまた、キリストに服従し続ける限り、神秘体のかしらの代理権を行使する者として、命令しなければなりません。彼らは、主人の権威に服従するしもべの語源的な意味での役務者(Minister)(位階階級の下位を示すminus【ラテン語で「より少ない」という意味】から)です。したがって、カトリックの位階階級は、〈役務者〉(Ministra)としてキリストから受けて熱心に守っていることだけを教える〈教師〉(Magistra)なのです。
「公会議の教会」が持っている、民主的で反位階的なこの考え方は、とりわけその典礼において裏付けることができます。この典礼では、司式司祭の役務者としての役割は、「教会憲章」(Lumen Gentium)によって理論化された「司祭的な民」を支持してほとんど否定され、1969年のモンティーニのミサ典礼書の「総則」(Institutio Generalis)の7番に黒白分明に、こう書かれています。「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち『主の記念』を扱うために、キリストを代理する司祭を司式者として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる』(マタイ18・20)というキリストの約束は、とくに教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される」。もしこれが、その「公会議の精神」に沿って、かつトリエント公会議の教義的条文と第二バチカン公会議以前の教導権全体と矛盾して、ミサの定義そのものを修正するという段階にまで至る「自己参照性」でないとしたら、いったい何だというのでしょうか?【注】「ローマ・ミサ典礼書の総則」新27番=1969年版の7番
教会は、民主的であったり、ある人々が今日婉曲に呼ぶような「共に歩む」(synodal)ものであったりすることはなく、またそんなことは不可能です。聖なる天主の民は、「ほかの人、ほかのすべての人を牧するために存在する」のではありません。そうではなく、天主の民が存在するのはむしろ、永遠の目標に到達するための超自然の手段を自分たちに保証する位階階級が【召命によって】存在できるようにするため、また、「ほかのすべての人」――〈多くの人〉ではあるものの〈全員〉ではありません――を、天主の御摂理による唯一の牧者の導きの下で、一つの柵内に導くことができるようにするためです。「また私には、この柵内にいないほかの羊もある。私は、それらをも連れていかねばならぬ」(ヨハネ10章16節)。
シノダリティーという異端的なアプローチによってさらされている脅威に対するミュラー枢機卿の強い非難――シノダリティーの不吉な実はすでに目に見えるものとなっています――は、この意味で正当です。同時に、枢機卿の非難は、非常に多くの牧者たちが、カトリック正統性への忠誠と、明らかな裏切り行為――その最もふさわしくない現代の管理者たちによって行われている裏切り――との間で、引き裂かれて苦しんでいる重大な違和感(malaise)の証言となっています。
この牧者たちは、おそらく、第二バチカン公会議が及ぼした個々の信者の生活や教会全体に対する影響、そして世界に対する壊滅的な影響が明らかになるまでは、「公会議の教会」に、また、かぎかっこ付きの「公会議」に反対しないでいることができていたでしょう。しかし今日、第二バチカン公会議の最も完全で悲惨な失敗の証拠、および聖伝を放棄する不幸な選択の証拠に直面して、最も慎重で穏健な人々でさえ、設定された目標、採用された手段、得られた結果の間の非常に密接な相関関係を認識せざるを得なくなっているのです。実際、まさに公会議が達成しようと望んだ目標を考慮すれば、私たちは、「公会議の春」として熱狂的に私たちに告知されたものは口実であって、その裏には、本当はキリストの教会に反対する白状できない計画が隠されていたではなかったのか、と自問すべきです。
そうなると約束されてはいましたが、実際は、信者がもっと意識的に聖なる秘跡にあずかるようにはならなかったばかりか、秘跡を不要なものと考えるようになり、ミサにあずかる人数は最低のレベルにまで落ち込んでいます。若者たちが司祭職や修道生活を受け入れることに刺激的あるいは英雄的なものを見いだしているとは言えません。なぜなら、司祭職や修道生活のどちらも、陳腐なものとされ、それらがもつ特別性が失わされ、私たちの主の模範に従って奉献し犠牲するという意味――あらゆる真のカトリック的な行為になければならない意味――が奪われているのですから。
市民生活は言葉では言い表せないほど野蛮になり、それとともに公衆道徳、結婚の神聖さ、生命への敬意、創造の秩序への敬意も失われてしまいました。そして、これら第二バチカン公会議の宣伝者たちは、まるで人間の本質を操作することが、仮説にも値しない悪魔的な逸脱であるにもかかわらずそうではないかのように、バイオエンジニアリング、トランスヒューマニズム、グローバルネットワークに接続された大量生産の夢想という挑戦に応じているのです。「移民を排除することは嫌悪であり、罪深いことであり、犯罪である」と説教するのを私たちは耳にしますが(こちら)、一方で、NGO、カリタス、福祉団体は、国家の費用でなされる不法移民の不正取引から利益を得ていますが、他方では、制度から見捨てられ、システムが引き起こす危機に悩まされているイタリア人自身を歓迎することを拒否しています。彼らは、「主権主義」国家に武装解除を促し、市民に自らのアイデンティティーを恥じさせますが、ウクライナに武器を送り、グローバリスト団体と主要エリート組織から資金提供を受けている新世界秩序の傀儡である政府に、武器を送ることの合法性を理論化するのです。
教会の真の性質を歪曲したもう一つの非常に深刻な神学的誤謬は、公会議の教会論の持つ本質的に世俗主義的な基盤にあります。この神学的な間違いは、教会の制度とこの世における教会の役割についての考え方に関することだけではなく、教会の霊的権威と国家の世俗的権威と――どちらもキリストが主であることにその起源を持っている――の間にある位階的補完性の絆を壊しさえもしました。このテーマは、第二バチカン公会議の学者たちによるほとんどイニシエーションのような取り扱いをうけ、見かけ上は複雑ですが、ヨゼフ・ラッツィンガーによる最近の介入(こちら)のテーマであり、これについては、私は別の小論で扱うつもりです。
ベルゴリオは「聖ヨハネ二十三世記念ミサ」の説教で、こう言いました。「私たちを愛するあなた、私たちを自己充足という思い込みと、世俗的な批判の精神から解放してください。私たちが一致から自らを排除することを防いでください。私たちを、愛をもって養ってくださるあなた、自己参照の囲いから私たちを導き出してください。私たちが一致した群れであることを望まれるあなた、悪魔の手のわざである偏向と『主義』(ism)という形態から私たちを救ってください」。
この言葉は、前代未聞の不謹慎なものであり、ほとんど馬鹿にしているようなものです。ですから「公会議の教会」の聖職者と信者は、こう自問する時期に来ています。「公会議の教会」こそが第一に率先して「自己充足できると思い込み、善きカトリック信者を硬直して不寛容だと嘲ることで世俗的な批判を養い、聖伝における一致から意図的に自らを排除し、自己参照性によって堂々と罪を犯しているのではないか」と。
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2022年10月26日