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ヴィガノ大司教、任務を解かれた司祭たちに語りかける(2021年9月23日)

[編集者注]
現在の悪の原因は、私たちの主イエズス・キリストの普遍的王権に対する反逆である。私たちがイエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心に奉献することで、災いに終止符を打つことができる。

ヴィガノ大司教、任務を解かれた司祭たちに語りかける
2021年9月23日

親愛なる司祭である兄弟の皆さん、
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、

キリストの教会が非常に深刻な危機にさらされていることや、カトリックの位階階級が使徒継承の使命という重大な義務を果たしていないこと、その大部分が堕落していることを私が述べても、皆さんがすでにご存じのことを言っているだけです。この危機と背教の起源は、今では最も穏健な人にとっても明らかなものです。その起源は、教会をこの世のメンタリティーに合わせようと望んだことにあります。忘れないでください、この世のかしらとはサタン、「princeps mundi hujus」(この世のかしら)(ヨハネ12章31節)です。

カトリック信者として、私たちは聖なる教会が決して崩壊しないということを知っており、信じています。つまり、聖なる教会は、「portæ inferi non prævalebunt」[地獄の門も勝てぬ](マテオ16章18節)という主の約束によって、地獄の門に圧倒されることはありません。しかし、私たちが目の当たりにしているのは、位階階級の腐敗した部分(簡潔のために私はこれをディープ・チャーチと呼んでいます)が完全にディープ・ステートの言いなりになってしまっている恐ろしい状況という現実です。

これは裏切りであり、これによって、牧者たちや教会の最高位にある人々は非常に重大な道徳的責任を負うことになり、司祭や信者は、他の時代では採用したり正当化したりするのが難しいであろう勇気ある選択をすることが必要になっています。私たちは、歴史的な衝突である一つの戦争に直面しているのですが、この戦争で私たちの将軍たちは軍隊を率いて敵に立ち向かわせようとしないだけでなく、実際には武器を捨てて無条件で降伏するよう命じており、最も勇敢な兵士たちを追い出し、最も忠実な役人たちを罰しているのです。カトリック教会の参謀本部全体が敵と同盟していることが明らかになっており、自らが本来守るべき人々の敵、すなわち、キリストとその御旗の下で奉仕することを誇りとする人々の敵となっているのです。

教会の歴史全体の中で、途方もなく、またこれまでにないこの状況を、黙示録に照らしてどのように理解すればよいでしょうか。私たちはまず第一に、超自然のまなざしを持たなければなりません。これによって、現在の出来事が起こるのを天主がお許しになっていること、そしてこの出来事がどんな場合でも決して教会を圧倒するのに成功することはないことを理解します。大いなる背教は聖書で予言されており、私たちは準備できないままではありません。聖ヨハネの黙示録の言葉と、認可された私的な啓示によって照らされた私たちは、最終的に麦と毒麦を分けるために終末の時代が必要であることを理解し、誰がキリストの味方で誰がキリストの敵であるかを認識することができます。

同様に、私たちが直面していると知っている艱難は、何十年、あえて言えば何世紀にもわたって行われてきたカトリック信者と一部の位階階級の不信仰に対する正当な罰でもあることを理解しなければなりません。世間体、恐怖、道徳的・教理的な逸脱、世俗的なメンタリティーや私たちの主の敵との妥協に根ざした私的かつ公的な不信仰です。フランス革命は、ルイ十四世が王国の国旗を主に奉献しなかったことに対する天主の罰であったことを考えると、このフランス王の不従順が欧州の未来にもたらした結果を私たちはよく理解します。

私たちの主が1689年に、フランス王ルイ十四世に伝える任務とともに、聖マルガリータ・マリア・アラコックに委託なさったメッセージを思い起こしてみましょう。

「わが聖心の長男に知らせよ。彼のこの世における誕生が、わが聖なる幼少期の功徳への信心のおかげで得られたように、彼の恩寵と永遠の栄光への誕生は、彼が自らをわが崇むべき聖心に奉献することによって得られるであろう。わが聖心は、彼の心に勝利し、それによって地上の偉大な者たちの心に勝利することを望んでいる」。
【注:イエズス・キリストの聖心はフランス王のことを「長男」と呼ぶが、それはフランスがカトリック教会の長女と呼ばれているからである。ルイ十三世はなかなか子供を得ることができずに、幼きイエズスに対する信心によってようやく生まれたのがルイ十四世であった。】

「聖心は、彼の宮殿に君臨し、彼の旗に描かれ、彼の紋章に刻まれることを望んでいる。それにより、彼はすべての敵に勝利し、思い上がった傲慢な敵を彼の足元に置き、教会のすべての敵に勝利することができる」。

「聖心は、受難の時に侮辱され、屈辱を受け、軽蔑されたのと同じほど、今日、王侯の宮殿に栄華を極めて入り、大いに尊ばれることを望んでいる。また聖心は、自分が滅ぼされたのと同じように、地上の偉大な者たちが地にまで低くされ、自分の足元で辱められるのを見たいと願っている」。

しかし、3世紀以上も前に、公務を司る者たちの不従順が、王の中の王であるイエズス・キリストの厳しい罰に値するものであったならば、教会を司る者たちの不従順が、どれほどの災難を引き起こしたかを想像してみましょう。

世俗社会が、フランス革命によって、自由主義と社会主義の誤謬を広めるために、普遍的な王をその天主なる主権から追い出したのならば、教皇と司教たちは、公会議革命によって、神秘体のかしらとその代理者から三重冠を取り除き、キリストの教会を司教団体制(collegiality)と司教会議[シノドス]中心制(synodality)の名の下に、一種の議会制共和国にしたのです。

このことに注意しましょう。私たちの主イエズス・キリストは、もはや諸国家の主権者として認められていないだけではありません。今では教会の主権者としても認められておらず、教会では、天主の栄光と霊魂の救いという目標が、人間の栄光とその結果としての霊魂の破滅に置き換えられています。昨日は悪徳だったものが、今日は聖徳なのです。バチカン、教区、修道会にはびこる「近代主義的セクト」の今の行動はすべて、これまで教えられ、私たちに伝えられてきたものを覆すという特徴があるのです。

このような反逆と不信仰という状況の中で、忠実であり続け、これまで常に行ってきたことをし続けようと努力する人々は、本当の正式な迫害の対象となっています。この迫害は、聖伝主義者をルフェーブル派とか前公会議派と指定して嘲笑することから始まりました。そして、全体主義体制で使われていた慣習に従って、良きカトリック信者は、社会学者が「異論の病理学化」(pathologization of dissent)と呼ぶように、狂気や病気であると定義されてきました。

私が大げさな表現を使っていると思わないでください。つい先日も、コスタリカのある司祭【Father Sixto Varela】が、彼の司教であるバルトロメ・ブイゲス司教(Bishop Bartolomé Buigues)が禁止しているにもかかわらず、パウロ六世のミサをラテン語で捧げたというだけで、聖職停止になり、精神科の治療を強制的に受けさせられたばかりです(こちら)。

今日、私たちは反体制派が「犯罪化」(criminalization)されているのを目撃しています。彼らが物理的に排除されるのはまだ見られないとしても、彼らの多くが「divinis」(聖職)を停止され、支援の手段そのものを奪われ、教会生活から追放されていることを私たちは知っています。

その一方で、つまずきを与える人物たちや、あらゆる種類の姦淫者たちが処罰されず、職務から追放されないだけでなく、昇進さえし、ベルゴリオの隣に立って写真に納まり名声を得ているのです。ベルゴリオは、彼らを自分の近くに置いていますが、それは、自分に都合のいい方法で彼らを使うことができると知っているからです。では、なぜ高位聖職者たちの堕落が公会議派の計画の役に立っているのかを理解しましょう。彼らの弱点は、教会と信者に対する最悪の残虐行為を実行する上で、彼らの従順と共謀を得るための優れた手段なのです。

「任務を解かれた司祭のための連合」(Coalition For Canceled Priests)の取り組みは、今起きていることへの反応であるのは確かです。なぜなら、このプロジェクトは、不忠実で反逆的な司教による迫害や教会法上の濫用の犠牲者である司祭を支援することを目的としているからです。自分に委ねられた群れを知恵と愛徳をもって治めず悪事を働くために、司教たちの権威は奪われ、その権威が制定された目的に反して彼らが使用した瞬間に消滅してしまうのです。

彼らが権力を握っていることは事実ですが、この権力は専制的に濫用されていて、これについて人は黙ったままでいることができず、また、黙ったままでいてはいけないのです。飢えた狼とまでは言わないにしても、自らが傭い人であることを明らかにした牧者たちの違法行為を断固として非難するために声を上げることは、私たちの義務です。そして、違法で無効な命令に従わないだけでなく、良心的な異議申し立てを行い、これらの羊の皮を被った狼の犠牲者を保護することを目的とした取り組みを作り出すことも、私たちの権利です。

また、この賞賛すべき取り組みと並行して、国際的な財団を設立して、信者からの献金や寄付を、ベルゴリオの現体制と共謀している教区や小教区から転用して集めることを提案させてください。司教たちは、自分たちの銀行口座が打撃を受けていることを知れば、良き司祭を追放するというアプローチをやめるように説得されるはずです。また、民事上あるいは教会法上を問わず、裁判所が迫害されている人々の側に立つならば、迫害者は権力の濫用に気をつけるようになるでしょう。

一方、「任務を解かれた司祭のための連合」やその他の同様のプロジェクトのような取り組みは、憐れみのわざを実践し、天主の御前で功徳を積むという機会を与えてくれます。私たち一人一人が、自分の力に応じて、具体的な貢献をすることができます。それは必ずしも金銭的なものだけではありませんが、自分の献金を、良き聖職者を弾圧するために使う人々に与えるのではなく、献金に値する人々に割り当てるだけでよいのです。

しかし、物質的な援助に加えて、私たちは皆、共同体の感覚を再発見するように求められていることを忘れないようにしましょう。共同体とは、公会議の位階階級が好んで口にする言葉ですが、彼らはカトリック的な意味で実践することはありません。もし私たちがキリストにおける真の兄弟であるならば、兄弟として、司祭たちを歓迎し、宿泊場所を提供し、友人を集めることができる家庭の祭壇を準備することによっても、お互いに助け合うべきです。

今日、司祭館を追い出されて路上生活をしている人々のために、料理の作り方、壁を作ったり屋根を修理したりする方法など、最も謙虚なものであっても、自分の能力を司祭たちのために提供すべきです。私たちは、聖伝の心で司祭や修道者の召命に寛大に応えてきたにもかかわらず、今日公会議派によって押し付けられている教理的・道徳的な逸脱を受け入れなければ、叙階や修道誓願が危険にさらされているのが分かっている若者たちのことを考えなければなりません。私たちは、教導権に忠実であり続ける数少ない司教たちや枢機卿たちに、敵と同盟していることを十分に証明した人々とは対話する可能性がないことを、明確に理解してもらわなければなりません。

そして私たちは、天の元后にして司祭職の母の取り次ぎを通して、天主の御稜威(みいつ)に祈り、今日、頂点から堕落してしまった位階階級の回心のために、私たちの苦しみとこれらの良き司祭たちの苦しみを受け入れてくださるようにお願いしなければなりません。

多くの、あまりにも多くの司祭、修道者、そして聖職者(その中には多くの女性修道者、観想修道会の修道女、活動修道会の修道女がいることを忘れてはなりません)に対して、私は愛情を込めた記念を表し、彼らの苦しみを分かち合い、教会の役務者たちの罪を償うために自らを犠牲として捧げるように、彼ら全員に勧めます。ミサの聖なる犠牲において、天主の、清らかな、聖なる、汚れなきいけにえの奉献に自らを一致させてください。皆さんの人生が、真の司祭の精神をもって、天主をお喜ばせする犠牲となりますように。そして、皆さんが最後の日まで、シメオンの賛歌の言葉 quia viderunt oculi mei salutare tuum[私の目はもう主の救いを見た](ルカ2章30節)を繰り返し唱えることができますように。

私は先に、現在の悪の原因が、私たちの主イエズス・キリストの普遍的王権に対する反逆であることを思い起こしました。私たち一人一人、家族、共同体、国家、そして聖なる教会を、イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心に奉献することで、至聖なる三位一体に御あわれみを起こしていただき、この恐ろしい災いに終止符を打つことができ、少なくともその期間を短縮し、人類の敵に対する王の中の王の勝利を早めることができるのです。これが私の最も切実な願いであり、これが私たちのすべての行動に活力を与えなければならない崇高な意向であり、これがサタンの計画を素晴らしく、かつ避けられない形で終わらせるための土台なのです。Christus vincit, Christus regnat, Christus imperat!(キリストは勝利し、キリストは統治し、キリストは君臨し給う!)。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

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