ヴィガノ大司教の「第1回世界中絶反対の日」へのメッセージ(2022年9月8日)
ヴィガノ大司教の「第1回世界中絶反対の日」へのメッセージ
2022年9月8日(木)
カルロ・マリア・ヴィガノ
中絶によって胎児殺しをしてはならない。また嬰児殺しをしてはならない。――ディダケー(十二使徒の教訓)V, 2
キリスト教の社会的領域における主な歴史的功績の一つは、中絶および新生児遺棄という恐ろしい罪を根絶したことです。この罪は、異教徒の世界では容認され、道徳的に受け入れられてさえいたものです。カトリックの考えでは、生命の尊重というものは、それが自然法に完全に一致していることから来ているのであって、人間は一人一人、天主を讃美し、天主の掟に従って天国で永遠の至福を得るために創造されたという意識が、この自然法に加わります。
ですから、中絶によって子どもを殺すことは、十戒の第五戒に対する非常に重大な違反であり、犠牲者が罪がなく無防備であり、子どもを全力で守るべき両親の同意によって虐殺される(私たちは虐殺について話していますから虐殺とはっきりと言います)という事実によって、さらに憎むべきものとなっています。そのため、キリスト教社会は、広まっていた罪を排除し、受胎から自然死までの生命の尊重と保護がどれほど不可侵の原則であるかを示しました。
フランス革命に始まる近代社会は、教導権が教えている教理的・道徳的真理に反抗するだけでなく、自らを「世俗的」、つまり本質的に反宗教的、反キリスト教的と宣言するために、社会から天主を追放した後、実定法と自然法の間の超越的結合を断ち切りました。
民族や国家の法を規定していた第一原理がいったん存在をやめるならば、個人や社会が自然法に反する規範――中絶や離婚を自由意志の行使として合法化し、それの犯罪としての結果も道徳的な結果もなくする――を採用することを禁じるものは何もなくなってしまいます。
すべての権威が属する天主――omnis potestas a Deo(すべての権威は天主から)――からではなく、大衆の同意から権威が由来する統治システムは、この理由だけでも、共通善(bonum commune)に反すると考えるべきです。なぜなら、誤った概念の自由の行使を許し、個人と社会に対するキリストの主権を認めないことで、その統治システムは、自らを正当化している目的と実際には対立しているからです。
しかし、悪のために行動するときにいつも起こるように、中絶の支持者でさえ、この恐ろしい罪を何とか「もっと受け入れやすい」(more palatable)ようにし、ほとんど起こらないものの、それでも道徳的に容認できないシナリオによって正当化しようとしました。それは、レイプされる女性のケース、不道徳な老人に誘惑される少女のケース、そしていわゆる「オヴァートンの窓」を移動させるのに役立つあらゆる理論的なケースです。
罪のない人間に対する数十年にわたる大虐殺――イタリアだけでも600万人以上の子どもたちが天からの正義を求めて叫んでいます――は、中絶を合法化するために使われた正当化が口実に過ぎないことを証明しました。しかし、現実には、嬰児殺しはほとんど常に冷笑主義、利己主義、無知によって動機づけられていることを見るのは悲しいものです。冷笑主義とは、自分の個人的な利益のために人を殺すことに頼るという無関心さによるものであり、利己主義とは、中絶をする人々が他の人間の権利よりも自分の意志が優先すると決めるからであり、無知とは、子どもを胎内から切り裂いて取り出すために子どもが実際に受ける苦痛や、その経験によって母親自身がどれだけトラウマを負うことになるかを、ほとんど誰も知らないからです。
冷笑主義、利己主義、無知は、道徳的感覚の欠如に集約され、それは、カトリックの位階階級が、まるでほとんどそうせざるを得ないかのように、このひどい罪に直面している際に取る敗北主義的態度によって悪化させられています。
ヨハネ・パウロ二世の時代には、このような黙認は考えられなかったことでしょう。このポーランド人教皇は、異端の哲学の影響を受けてはいましたが、それでも自然法についての容赦のない誇り高き擁護者だったのですから。ホルヘ・マリオ・ベルゴリオが率いる現在の教会チームは、神学分野での異端や道徳分野での金銭的・性的スキャンダルという混乱をはるかに超えて、新マルサス主義的アジェンダ(行動計画)や、現代社会のいわゆる「獲得物」、例えば離婚、中絶、安楽死、避妊、同性愛、LGBTQ+イデオロギー、ジェンダー論、未成年者のホルモン発達阻害【性同一性障害治療】の最も熱心な推進者になっていると、私たちは認識すべきです。
最近、テレビ番組の中で教皇庁生命科学アカデミー会長が必死に宣言したことは、信者だけでなく、善の守備隊として、真理の導き手として、教会に期待することができるはずだと思っている信者でない人にも、当然のことながらつまずきになるという印象を与えています。パリアの言葉に感じ取れるのは、悪を陳腐なものだとする考えです。言い換えれば、「つまずきの石」になりたくない、野蛮と異教の時代に戻った世界で自分を「逆らいのしるし」としたくないという冷笑的な願望です。
また、ベルゴリオの最高法院(サンヘドリン)による世俗的権力への恭順です。さらには、人間を絶滅させるべき寄生虫とみなす新マルサス主義の妄信的な原理に基づく新世界秩序を形成するにあたって――権力者を喜ばせることで――自らの地位を得たいと願う人々の鈍感な卑屈さです。パリアは、自分が灰色の官僚であることを明らかにし、サイコ・パンデミックの物語(ナラティブ)でまさにそうしたように、自分が発言・承認するよう求められていることが首尾一貫していないことを理解しようとさえもせず、ベルゴリオの新しい方針、つまりグローバリズムのイデオロギー、トランスヒューマニズム、グレート・リセット、グリーン・ニューディール、アジェンダ2030を無批判に受け入れることに自らをとどめています。ベルゴリオと彼の色とりどり【虹色】のキャラバン隊にとっては、稀になされる中絶に反対する発言はメディアに強いインパクトを持ちますが、彼の本当の姿を見られないために、時には従わなければならない台本の一部であるように思えます。
現代社会が推進するあらゆるものと同様に、「妊娠の中断」や「性と生殖に関する健康」(reproductive health)と詐欺的に定義される中絶の推進もまた、深刻な利益相反と無縁ではないと言わなければなりません。なぜなら、この新しい市場を動かしているのは、中絶クリニックや製薬会社、研究所、化粧品メーカーの経済的利益ですから。
このように、人を殺すという本質的な悪に加えて、薬やワクチン、クリームを作るために使われる運命にある中絶された胎児の無節操で有益な取引も存在します。私たちが知っているのは、例えば、新型コロナウイルス感染症用のいわゆるワクチンの製造者が認めているように、遺伝子血清を製造するために、最初の中絶した細胞株を「リフレッシュ」するために新しい中絶が継続的に引き起こされているということです。巨大製薬会社と、政府や医薬品庁にいるその使者たちの命令(diktats)に教理省がひれ伏すことは、ファイザーとモデルナに、実験的遺伝子血清を支持する権威ある証言を提供する代わりに、財政支援と資金提供という報酬を受けた位階階級の共謀姿勢を、容赦なく明らかにしています。
「第1回世界中絶反対の日」を今日開催することは、勇気ある選択です。なぜなら、それは生命と人間の運命についての水平的【天主を無視するので水平的】で功利的な考え方――バチカンの最高レベルがよそ者とは言えずに広めている考え方――に反対するアンチテーゼとして立っているからです。
彼らは常に時代遅れに見えることを恐れ、常に自分たちが流行の先端であることを示そうと望んでいるのです。それはトランスヒューマニズムを受け入れるというところまで行っています。ところがこのトランスヒューマニズムにおいて、人間と機械の融合とは、この思想を創作した者らの妄想の中で、天主に対する人間の復讐、創造主に対する被造物の復讐、生命の主に対する初めから殺人者である者【悪魔】の復讐を表すはずのものなのです。
皆さんの闘いは、存在論的に勝利する運命にあります。死と罪の文化は敗北し、贖い主であるキリストから永遠の裁きを受ける運命にあります。しかし、もし勝利が確かなものであるならば、皆さんの行動は決然としたものでなければならず、皆さんの社会的・政治的な取り組みは勇気あるものでなければなりません。
市民として、共同体の一員として、皆さんにはこの犯罪の恐ろしさ、前代未聞の残酷さ、イデオロギー的・経済的な利益のための冷笑的な搾取を知らしめる権利と義務があります。皆さんには、母親だけでなく父親に対しても、赤ちゃんは迷惑な障害物でもなければ、細胞組織の塊でもなく、二酸化炭素の生産者でもないことを思い出させる権利と義務があります。子どもは天主による被造物であり、愛され、次には創造主を愛し、創造主を讃美するように運命づけられています。そして、この無力な小さな者たちは、少なくとも、自分たちの母親や父親に拒否されずに、光の中に入るというチャンスを得る資格があるのです。
非難する人々におびえないでください。彼らは、皆さんに対して、(ダボス会議で言われているように)「食べるだけの役立たず」で地球を人口過剰にしたがっているとか、女性に母親になることを強制したがっているとか、自分の意見を共有しない人々に押し付けたがっているなどと言うでしょう。
中絶の権利は、中絶を望まない人々に対して中絶の義務を課すものではない、と異議を主張する人々に騙されないでください。これは、人間の生命を個人の選択に委ねるという詭弁ですが、真実は、誰も自分の子どもの生死を決定する権利を主張することはできないということです。なぜなら、その子どもは観念ではないからです。その子どもは、考えることもできれば無視することもできるような概念ではないからです。そうではなく、その子どもは人間であり、その子どもには名前があり、人生があり、親族があり、未来があります。洗礼によって天主との友情を再発見し、天主を愛し、天主に仕え、ついには天主から永遠を分けていただくことができるようになる人間です。
今日、そのご誕生をお祝いしており、その従姉のエリザベトを訪問なさったとき、エリザベトが胎内で洗者が躍るのを感じた至聖なる童貞女が、諸国がこの罪の恐ろしさを理解し、その統治者らができる限り早くその罪を違法とするよう、皆さんの中絶に対する闘いの遂行に必要な恩寵を天から懇願してくださいますように。無防備な子どもたちを、足並みを揃えた思想のモロク神にいけにえとして捧げ続ける限り、世界が平和を知ることはできません。
皆さんに心からの祝福をお送りします。
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2022年9月8日
童貞聖マリアのご誕生