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ヴィガノ・テープ 【質問11】【質問12】「教会はいかにして変わったか」「キリストの王権を否定する」

【参考文献】ヴィガノ大司教は、今は引退していますが、元バチカンのトップで働いていました。教皇パウロ六世、教皇ヨハネ・パウロ二世、教皇ベネディクト、教皇フランシスコなどを親しく知っている高位聖職者です。ヴィガノ大司教は、正直に、現実的に、第二バチカン公会議のイデオロギーが失敗したことを指摘します。刷新とされているものは何だったのか?教会の破壊だったのではないか?公会議の教会の問題点とは何か?と問うています。

教会はいかにして変わったか
【質問番号11】
大司教様、またしても大司教様は、今日私たちが直面している重大な危険について述べられる際に、世論を二分するような発言や暗いトーンで私たちに衝撃を与えられました。それは、去勢という言葉、医学的手段による毒の注入という言葉です。話を少し変えて、大司教様の真の専門分野である教会の生活についてもう少し詳しく見てみましょう。大司教様はバチカンの役人でいらっしゃいました。教皇パウロ六世、教皇ヨハネ・パウロ二世、教皇ベネディクト、そして教皇フランシスコとも近い関係をお持ちでした。聖伝に対して、世俗世界全般に対して、教会をこのような弱い立場に置いてしまったとは、教会にいったい何が起こったとお考えですか? 今日、教会が直面しなければならない主要な問題は何でしょうか?

【ヴィガノ大司教回答】サタンの煙が教会に入ったのは60年以上前の公会議からですが、もっと前からと言ってもいいでしょう。第二バチカン公会議の革命が可能だったのは、ローマ教皇庁、各司教区、各大学、各神学校、各修道会に侵入した裏切り者たちによって、何十年にもわたって細部に至るまで準備されかつ組織されていたからです。教会の最高位の人々が、無気力で準備ができておらず、新奇なものの風に毒され、現代社会の課題に直面して対応が不十分で、自分たちは時代遅れ・流行遅れであると信じるようにさせた劣等感に苦しんでいたことを、この侵入ができたことが示しています。そして私たちが認識しなければならないのは、このことの主な原因は、超自然的なビジョンの欠如にあるということです。つまり、散漫な行動主義に無駄な力を使ったために、そして、まさに祈りに養われず天主の愛である愛徳に養われていないがゆえに不毛な使徒職のために、恩寵の生活を軽視してしまったのです。

同じことが今日も起きています。たとえそれが古代のものであることを考慮しただけでも、それ自体が廃止の可能性を免除されている典礼に、違法な制限を押し付けるような、教会法まがいの威圧に直面しているからです。

私が何度も申し上げたように、日食の時に月が太陽を覆うようにキリストの教会の上に重なっている公会議の教会の問題点とは、この世と折り合いをつけようとしたことです。私たちの運命は、世に嫌われ、世に迫害されることである、と福音が教えているにもかかわらずです。「この世があなたたちを憎むとしても、あなたたちより先に私を憎んだことを忘れてはならぬ」(ヨハネ15章18節)、「彼らが私を迫害したなら、あなたたちにも迫害を加えるだろう」(ヨハネ15章20節)。「弟子は先生以上のものではない。下男も主人以上のものではない」(マテオ10章24節)。公会議の位階階級は、勇気を持って十字架の道を歩むことよりも、安易な対話の道を選ぶ誘惑に屈してしまい、その結果、位階階級は福音宣教を放棄し、福音に混ぜ物をし、福音をこの世の精神に適合させてしまいました。サタンは、私たちの主によって、「この世の君」と呼ばれていることを忘れてはなりません(ヨハネ12章31節、16章11節)。

しかし、このいわゆる「公会議の春」が大失敗したことを目前にしても、人は自殺的であることが証明されている道を四角四面に頑固に主張します。もし、第二バチカン公会議が少なくとも信者の数を増やしたのであれば、その方法を批判することはできても、質的にはともかく、少なくとも数的な利益を認識することはできたでしょう。しかし、公会議のいわゆる「開かれていること」は、分かれた兄弟たちを一人も改宗させず、法外な数の信者の放棄という結果を引き起こしました。今日、教会に残っている人たちの信仰について知識は、ほとんどの場合、隙間だらけで、不完全で、誤謬のあるもので、霊的生活は完全にないとは言えないまでも貧弱で、成聖の恩寵の状態は消滅し、無視されています。

私は自問しますが、ピオ十二世までのローマ教皇が歩んできた王道を捨て、第二バチカン公会議が採用した道を歩み続けるべき根拠となる、第二バチカン公会議の大成功は、いったいどこにあるというのでしょうか? 人間的な評価だけであっても、公会議のイデオロギーの失敗と、犯した過ちを修復する必要性を理解するのには十分です。

そして、私たちは自問しなければなりません。おそらく無慈悲に、しかしそれでも正直に、そして現実的にです。刷新とされているものは口実に過ぎず、その背後にはキリストの教会を破壊し、偽物に置き換えようとする明確で悪意のある意向が隠されていたのではないかと。この意向は、大多数の司教たちに理解されておらず、共有されてもいないのは確かですが、少数の組織化された有能な裏切り者たちの行動において明白に当然のこととして現れています。彼らが、古い宗教と古いミサについて、新しい公会議の宗教と新しい改革されたミサに対比して語るのは偶然ではありません。彼らが公会議を鋤のように使って意図的に掘ったその溝は、今日、カトリックであるものと、もはやカトリックでないもの、カトリックである人と、もはやカトリックでありたいと思わない人とを分ける差(discrimen)として、現実のものとなって現れています。

キリストの王権を否定する
【質問番号12】
大司教様、公会議の教会は、公会議以前のカトリック教会とどのような点で異なっているのでしょうか? 大司教様は今、私たちに60年間続いたプロセスを説明されましたが、おっしゃるように、そのプロセスで教会はある種の腐敗に直面してきました。大司教様は道徳的な面での腐敗、子どもの虐待を糾弾されました。今、大司教様が糾弾しておられるのは、教理的な面での堕落です。過去60年間に、聖伝のキリスト教の教えからのある種の逸脱があったとおっしゃっているのですね。これがどのようにして起こったと思っておられるのか、そしてそれに関して何をすることができるのか、さらに詳しく説明していただけますか?

カトリック教会は、1960年代、1962年から1965年までの4年間に、一つの公会議、エキュメニカルな公会議を開催しました。公会議の後、教会は "私たちは今、教会の近代化に向けて大きな一歩を踏み出し、教会を現代人にとってより魅力的なものにした"、と言いました。しかし、大司教様は、このことがこの時代の歴史に残る何か根本的な過ちであると考えておられます。大司教様は公会議で何が起こったと考えておられるのか、なぜ教会がそのような道を歩むことがそんなにも間違いだと考えておられるのか、なぜそれを他の人が糾弾せず大司教様だけが糾弾なさっているのか、私たちの視聴者に教えてください。

【ヴィガノ大司教回答】私が思うに、公会議の教会の問題点は、キリストの王権を否定し、そして、少なくとも言葉の上では、主権を平信徒に移譲して、革命的な要求を自らの要求としたことです。聖職者のエリートたちは、平信徒にはどの真理を拒否するか、どの新しい教義を発明するかを選択することができると、彼らに説得しました。

私は、まさに世俗の領域で起こったように、教会の領域でも、平信徒らのために権威が確立されているにもかかわらず、彼らに反する目的を持つ新しい存在によって権力が簒奪(横取り)されてきたことを指摘します。典礼改革が押し付けられてきた方法は、今日、グリーンパスが私たちに押し付けられている方法と大して違いません。常に私たちの善のため【という口実で】、常に私たちのために決定する人々が存在するという理由で、彼らの真の意向を隠すために私たちに常に嘘をつくのです。

もし彼らの真の目的が霊魂の善であるならば、彼らは最初から、悔い改めて、起こった災難を、恐怖をもって見ていなければならなかったことでしょう。しかし、その目的が実際には災難それ自体ならば、災難を抑制し、被害を回復させようとするすべてのものに対する憎悪と嫌悪を何故持っているかが理解できます。このように考えると、「perseverare diabolicum」(固執することは悪魔的)です。そしてこれは、公会議に対する頑固さにも、パンデミックの茶番劇に対する頑固さにも当てはまるのです。


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