現在の危機は第二バチカン公会議というがんの転移であることを確信するべきだ。多くの人々の目を開かせることが必要だ。不正に取り去られてしまった善を私たちのもとへ取り戻すことができる。(2020年7月2日)
2020年のヴィガノ大司教、1966年のルフェーブル大司教2020年7月2日 FSSPX.NEWSサイト
修道院住まいの修道女の手紙に対する2020年5月29日付の回答の中で、前駐米教皇大使であるカルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、現在の教会の危機を「公会議のがんの転移」と呼んでいます。この手紙とヴィガノ大司教の回答は、マルコ・トサッティ氏が5月31日に彼のブログ「Stilum Curiæ」に掲載し、ジャンヌ・スミッツ氏が6月2日に彼女自身のブログにそのフランス語訳を掲載しました。
このローマの外交官である大司教の主張の要点は、以下の段落にあります。
「教会の敵たちに対する霊的、教義的、道徳的な戦いを効果的に行うための必要不可欠なポイントは、現在の危機が公会議のがんの転移であることを確信することだと信じます。もし私たちが第二バチカン公会議と過去60年間にわたる公会議の論理的かつ必然的な結果との間の因果関係を理解しなければ、教会の舵を 操舵手なる天主によって示された方向、すなわち教会が2000年間維持してきた道筋へ戻すことはできないでしょう」。
「彼らは、典礼、信仰、道徳的教え、悔悛、修徳に関して、『もう後戻りはできない』という憎むべき言葉を用いて、カテキズムのように私たちに教えました。今、同じ表現が世俗の領域でも盲目的に繰り返されているのを私たちは目の当たりにしており、それによって大衆に、『もう以前と同じものは何もない』と教え込もうとする試みがなされています。近代主義と新型コロナウイルス感染症は同じ種類に属するものです。超越的なものへの眼差しを持つ人であれば困難なく理解できることは、奈落への競争は避けられも止められもしないものであると私たちに信じ込ませたい人々にとっての最大の恐怖は、私たちが彼らを信じず、彼らを無視し、彼らの陰謀の仮面を剥ぐことだということです。今日の私たちの課題は次のようなものです。それは、まだ全体像を認識せず、現実を部分的かつ無秩序な方法でしか見ることができていない多くの人々の目を開かせることであって、たとえそれが聖職者や修道者であっても同じです。いったん私たちが彼らにこの仕組みを理解させられれば、彼らは他のものごとをもすべて理解するでしょう」。
「そうです、私たちは後戻りすることができるのです。私たちから不正に取り去られてしまった善を、私たちのもとへ取り戻すことを保証することができるのです。ただそれには、教理と首尾一貫し、妥協せず、何ごとをも譲らず、日和見主義に陥らないことが必要です。主は、たとえ私たちが弱く、物質的な手段をもっていないとしても、私たちが主と主のいとも聖なる御母に完全に我が身を委ねるという条件において、主の勝利の一部をかたじけなくも私たちに与えてくださることでしょう」。
1976年8月18日、「I Accuse the Council(私は公会議を告発する)」(アンジェルス・プレス、1982年発行)の序文の最後に、聖ピオ十世会の創立者であるマルセル・ルフェーブル大司教は次のように書きました。「第二バチカン公会議以来、教会が経験してきた広範囲にわたる混乱という光に特に照らしてみれば、次の結論は避けられないものです。つまり、カトリック教会およびキリスト教文明全体に生じたこの破壊的出来事は、聖霊の指示によるものでも、聖霊の導きによるものでもありません」。
「この公会議を教会の最悪の敵たちとのヤルタ和平に作り上げようとした教会聖職者たちの策略、これは、現実には私たちの主イエズス・キリストとその教会とへの新たな裏切りであります。この策略を公に非難することは、私たちの主と霊魂の救いにとって、計り知れないほどの奉仕をすることです」。
【注:ヤルタ和平とは、1945年2月にソ連のヤルタでアメリカ・イギリス・ソ連の三首脳が会談を行い、アメリカとイギリスが共産主義者スターリンにあまりにも多くの妥協をした上に成立した「和平」のこと。一年後には冷戦が開始した。】
ルフェーブル大司教は、この本の「題名に関する注釈」の項で次のように述べています。「それゆえ、第二バチカン公会議の周囲に築かれてきた神話を打ち砕くことが肝要です。この公会議は、教義に対する本能的な恐怖心のため、また教会の文章にリベラルな考えを公式に導入することを促進するため、司牧的な公会議となることを望んでいました。しかし、公会議が終わるころまでには、彼らはこの公会議を教義化して、自らをニケア公会議と比較したり、それ以前の公会議よりも優れているとは言わないまでも、それらと同等であると主張したりしたのです」。
1966年12月20日、教理省長官アルフレード・オッタヴィアーニ枢機卿に宛てた手紙の中で、このフランスの高位聖職者【ルフェーブル大司教】は次のように書きました。「私たちは残念ながら次のように述べることができますし、また述べなければなりません。公会議が新たな諸制度を導入したとき、この公会議は、教会の真の教導権が教える真理が間違いなく聖伝の宝に属しているという確実性を、ほぼ全般的に揺るがしてしまった、と」。
「司教の裁治権の伝達、啓示の二つの源泉、聖書の霊感、義化のための恩寵の必要性、カトリックの洗礼の必要性、異端者や離教者、異教徒の中での恩寵の生活、結婚の目的、信教の自由、人間の最期(四末)など、これらの基本的な点すべてについて、 カトリックの大学では伝統的な教理が明確にかつ例外なく教えられていました。今では、これらの真理に関する公会議の多数の文書が、今後それらの真理に疑いを投げ掛けるのを許すこととなるのです。この結果が教会の生活の中に急速に導入され、適用されてきています」(82ページ)。
ですから、ルフェーブル大司教の書いたことに従って、以下のような疑いから来る実際的、司牧的な結果を見てください。
・「教会と秘蹟の必要性に関する疑いは、司祭召命の消滅につながります。
・すべての霊魂らが『回心』する必要性またその『回心』の本性に関する疑いは、修道者の召命を消滅させ、修練期間における伝統的な霊性を崩壊させ、宣教を無用なものとします。
・人間の尊厳の高揚と、良心と自由の自律によって引き起こされた、権威の正当性や従順の義務に関する疑いは、教会から始まって修道会、教区、世俗社会、家族といったすべての社会を揺るがしています。
・救いのための恩寵の必要性への疑いは、洗礼を過小評価させ、洗礼を将来へと延期させ、悔悛の秘蹟を軽視する機会をつくる結果となっています。
・エキュメニズムと信教の自由に関する宣言によって引き起こされた、唯一のまことの宗教、救いの唯一の源泉としてのカトリック教会の必要性に関する疑いは、教会の教導権の権威を崩壊させています。事実、ローマはもはや唯一にして必要な真理の教師(Magistra Veritatis)ではなくなっています」。
「従って私たちは、これらの諸事実のゆえに、この公会議がリベラルな誤謬を伝搬することを、想像を絶する方法で促進した、と結論せざるを得ません。信仰、道徳、そして教会の規律はその基礎から揺るがされ、[第二バチカン公会議より前の]すべての教皇の予言を成就してしまっているのです」(82-83ページ)。
これが書かれたのは54年前のことでした。そして、ルフェーブル大司教はその時すでに、今ヴィガノ大司教ががんの転移とみなしているこの「第二バチカン公会議と、公会議の論理的かつ必然的な結果との間の因果関係」をすでに証明していたのです。
(Sources : Stilum Curiæ, trad. à partir de J. Smits /J’accuse le Concile/DICI – FSSPX.Actualités - 26/06/2020)