なぜ、僕たちは海外で夜遊びをするのか
ラオスのパクセーは第二の都市(サワンナケートと並ぶ)にもかかわらず、他の街ルアンパバーンやヴァンヴィエンと比べて認知度が低いように思います。それはSNSや検索エンジンでの検索ヒット数からも明らかです。
ダラダラすること
パクセーに滞在していると「ダラダラする」ことの重要性を感じます。日本では「ダラダラする」と聞くと罪悪感や「何もしていない人」というレッテルを貼られ、ときには攻撃の対象になったりします。日本人は真面目すぎて趣味や遊びの領域にまで、必死になって知識をかき集め、それに基づきお互いを格付けしたがります。国民性かもしれませんが、なぜだかダラダラした中途半端なものを極端に嫌うように思います。
「ニワカ」というのは、サッカーやラグビーのワールドカップなどそういうイベントがあると急に選手名やルールに詳しくなる人のことを指します。そういう途中から参加した人を「昔からのファン」が罵って、「お前たちにはそれについて語る資格などない」といって黙らせます。
社会にとって役に立たないこと、社会的有用性のない領域においてさえも査定し、格付けすることは時として自分自身を縛りあげ、首を締め、息を詰まらせます。中途半端なことやダラダラすることが許せない、これは日本の風土病、いわゆる閉塞感といっていいと思います。
嗜好品をたしなむこと
2020年頃コロナが急拡大する中で嗜好品やファッション、エンターテインメントが「それ、いまいるの?」という合言葉をもとに不要不急がスローガンとして力を持ちました。そもそも何が生きていくうえで必要か、何が生きてゆく支えになるかなんて、外部からは簡単にわかるものではありません。生きるか死ぬかのギリギリまで追い詰められたとき、文学や音楽や演劇が最後の救いになったなんていうことは多々あるでしょう。
「嗜好品」というのは日本語に特有の言葉で、他言語に翻訳するのが難しいらしいです。初めてこの言葉を使ったのは森鴎外だといわれますが、彼は嗜好品を「人生に必要」で、「毒」にもなるものと表現しました。確かに煙草やお酒は度が過ぎると人体に害をなすのは事実です。しかし、一見すると生存に不可欠ではなさそうなものが太古から途切れることなく愛されるのは、何かしらの価値があるからに違いないと私は思います。表面的な有用性だけを見て、「ダラダラする」ことも「嗜好品」も排除していくと、いつの間にか大切なものまで排除してしまうと思います。
快適であること
さてパクセーの滞在では同じ時間に起きて、同じレストランで食事をして、同じカフェに行って、同じような動画を見て、同じような本を読んで、という日々を過ごしていました。これが私にとってのダラダラすることなんだと思います。
安定な日々や生活を誰もが求め、生物が変化を嫌うのは暖かい布団から出たくない冬の朝を想像すれば難しいことではありません。しかし私たちは快適だけに従って行動しているわけでもありません。「快適だ」といって布団から出ずにいつまでも寝ている生物は仕事を失うだろうし、いずれ飢えて死ぬ、そもそも配偶者を得ることができないからDNAの複製も叶いません。
だから生き延びようとするならば、快適を延期し、快適から派生するさまざまな可能性を断り、不快を一時的に受け入れることが必要です。いま一生懸命に勉強をするのは、よい学校へ行って、よい就職先につき、よい人生を獲得するため、だからいまは不快であっても遠回りに見えても、それは最終的には快適を得るためなんだよ、と説明され多くの人は納得します。
しかし、現実にはそういう理屈では説明ができない現象が起こっています。例えば、夢で単位が足りず大学を卒業ができない夢を私は何度も見ます(無事に卒業しているのに)。そんな不快な夢を見るよりかは忘れてしまってぐっすり眠った方が心身的に最良であることは明らかなように思います。
しかしそうなっていないのはなぜなのか、それは不快に耐えることがある種の快適をもたらしているからだ、そう考えたのはフロイトであり、彼はそれを「反復脅迫」と呼びました。その例として三回結婚して三回とも夫を死ぬまで看病することになった女性の例を紹介しています。
不快が快適に変わるとき
その女性はおそらく病で死にそうな男性をあえて選んで結婚しているのでしょう。夫を死ぬまで看病するという不快な経験の反復が、反復することで不快を上回る快適を得ている、女性の行動はそうでないと説明ができません。
赤ちゃんをあやす遊戯の一つである「いないいないばあ」というのは、赤ちゃんにとってはかなり不快な遊戯であるはずです。なぜなら、生存するのに欠かせない唯一の存在である親が一瞬のうちに目の前から消えるからです。それでも赤ちゃんが、消えては現れるという一連の動作に喜びを感じるのは反復する動作がその不快を上回っているからでしょう。
東南アジアではあるあるですが、夜のお店に従事する女性に約束を反故にされては振り回され、心を乱されることを繰り返す人をX(旧Twitter)で多く見てきました。でもその反応を見るに彼らは嬉々としているではありませんか。きっと繰り返される悲劇の反復は彼らにとってはすでに快適になっているんだと思われます。不快な思いをしにわざわざ貴重な連休に海外旅行をするさまは、悲劇の反復が喜劇であることを彼らが知っているからに違いありません。
快適が最大化するとき
それではどんな時に快適が最大化するのか。それは性行為や排出行為における快適から考えるに欲望が消失するまさにその瞬間に最大化するのではないかと思います。つまり、生きていながらギリギリで死に触れている、生死の境界線上をなぞる、そんな瞬間ではないでしょうか。
昔そのように歌ったグループがあったのを思い出します。KAT-TUN(カトゥーン)の”Real Face(リアルフェイス)”です。冒頭「ギリギリでいつも生きていたいからさあ」で始まるこの楽曲は多くの若者に支持されました。これは彼らのデビュー曲であり、グループの方向性を歌ったものだと私は捉えています。KAT-TUNというグループは当初6名で構成されていましたが、その後次々とメンバーが辞め、現在3名になっています。グループがグループであるギリギリのラインが2名だと考えるとKAT-TUNはいままさに生きていながら死の境界線の上をなぞっている、そんな状況です。私の予想だとあと一人辞めるのではないかと思います。
そうやってグループにとって一番不快であるはずの「メンバー脱退」という反復を繰り返す「生きていながら死んでいる」状態をリアルフェイスとして本当の快適を手に入れる、KAT-TUNというグループはそういう物語なのではないかと思います。
なぜ、僕たちは海外で夜遊びをするのか
東南アジアの夜遊びは整備された日本の夜遊びとは幾分かリスクがあるのは事実です。借りたバイクは故障するかもしれないし、荒れた道路のせいで事故に会うかもしれない。野犬に襲われても、病院にいけないかもしれない。言語も通じない現地人に騙されて一文無しになるかもしれない。それでも日本での夜遊びではなく、繰り返し反復して海外の夜遊びを選択するのは、「生きていながら死にも触れることができるギリギリのライン」に身を置くことが、私たち生物が生物として経験できる最大の快適につながることを熟知しているからだと思います。
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