欧米人のバックパッカーが多いのはなぜか
ラオスの首都ヴィエンチャン、第二都市パクセーにも欧米人のバックパッカーがとても多いです。ホステルには毎日のように新しい顔が現れては次の日には旅立っていきます。その街の良し悪しもわからないまま、雰囲気すら味あうこともなく、大きな荷物を背負い乗合バンに吸い込まれていく彼らは見て、「一体何をしに来たのだろう」と不思議に思います。それに対してアジア系のバックパッカーは皆無といっていいほどに見ません。
自分探しの旅
日本では「自分探しの旅」というのはすでに死語だろうと思います。昔は「ほんとうの自分」を探すため海外へ旅する日本人が一定数いました。しかしよくよく考えるとこれは奇妙な試みです。自分をよく知っているのは身近にいる人なのだから、身近な人に「ほんとうの自分」を尋ねるだけでいいはずです。あえて自分のことを全く知らない環境に身を投じ、「ほんとうの自分」を発見しようとする、この奇妙な試みの根底には他人からの評価をいったんリセットしたい、そんな願望からくるものだと思います。都合が悪くなるとリセットボタンを押し、一からスタートするゲームのように、中学校の卒業と同時に自分を捨て、新たな自分として高校デビューする行為とよく似ています。
しかしこの奇妙な試みは日本人のバックパッカーを今や見かけないことや「自分探しの旅」という言葉が廃れていることから失敗したといっていいと思います。「自分探しの旅」をしても「ほんとうの自分」を探し出すことはできません。
自己分析
リクルートなどの就職斡旋業者は、あなたの天職・適職と出会うために「自己分析」をして「ほんとうの自分」を見つけること強く要請します。あなたの強みや個性、「ほんとうの自分」がわかれば、天職・適職というものに就職できる可能性が高くなるというロジックは一見正しいですが、この「自己分析」に就活生は大きく悩まされることになります。なぜなら「自己分析」をしても「ほんとうの自分」を探し出すことはできないからです。それでも就活というゲームを進めるため多くのプレイヤーは書店やネットから「ホントウの自分」を拝借し、面接官へ申告します。この奇妙な儀式を経て彼らは職を得ます。
その後もしあなたが今の会社に馴染めない、合わないと考え転職したいと思うならばそれはあなたの自己分析が足りないからだと就職斡旋業者は告げます。「ほんとうの自分」をわかっていないため天職に出会えない、それはあなたが救われないのは信仰心が足りないからだという構図にそっくりです。
探し物はなんですか?
探し物が見つからないのは探し方が悪いからでしょうか。確かにそういう場合もあるとは思いますが、探し物がそもそも存在しない可能性を私たちは忘れています。これだけ探してもないのだから「ほんとうの自分」なんて初めから無いとした場合に多くのことが解決するように私は思います。
「探し物はなんですか?」というフレーズから始まる「夢の中へ」はシンガーソングライター井上陽水のヒット曲の一つです。CMや映画など多数採用されているため聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。
この楽曲がリリースされた1970年代は同世代の人たちが多すぎて、「私は何者で、何をしたらいいのか」という「自分探し」を半ば強いられた時代ではないかと思います。そんな時代背景に井上は「見つからないのにまだまだ探す気ですか?」と投げかけます。あなたの探しているものは存在しないのに、という皮肉を込めて。
スーパーヒーロー
「ほんとうの自分」を英語ではアイデンティティー(自己同一性)と表現されます。記憶喪失など特殊なケースを除いて、アイデンティティーが一度決定すると変わることはありません。「ほんとうの自分」が変わることは、発見した「ほんとうの自分」が本当ではなかったことになります。
アイデンティティーの一番わかりやすい例はスーパーヒーローが挙げられます。欧米人の彼らが小さい頃から見るヒーローは決まって、ある日、突然にして超人的なパワーを得るところからスタートします。クモに噛まれた少年はクモ人間になり超人的な力を得ます。少年は今際の叔父から「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という言葉を与えられたことを契機に「本当の自分」を発見し、アイデンティティーの確立と同時に彼のパフォーマンスは爆発的に向上します。自分が地球の人間ではなく異星人だというアイデンティティを知ったことを契機にクラークケントとはスーパーマンとなり、文字通り人外のパワーを獲得するのです。
そうやって獲得した「ほんとうの自分」は変わることはありません。悪との戦いなどで建物が壊れ、犠牲になった市民から罵られたり、人間関係で消耗することで一時的にスーパーヒーローとしての役目を降りるかもしれませんが、彼らは必ず戻ってきます。
アメコミのヒーロー物語のパターンはほとんどが同じで、「ほんとうの自分」を獲得すると人間のパフォーマンスは爆発的に向上し、アイデンティティーが揺らぐと一時的に無力になる、そういった話を繰り返し描きます。それは「ほんとうの自分」を発見することを人生の最重要課題であるということを意味し、欧米人の行動基準にも繋がっているように思います。
欧米人の自己主張が強いのは有名ですが、給料の額も自分で決めたいから納得するまで積極的に交渉すること、医師が決定した適切な治療方法よりも自分が選ぶ治療方法を優先する、ランチのサンドイッチにしてもパンのトースト方法から具材、ドレッシングの種類まで事細かにオーダーする(サブウェイやスタバなどが欧米から生まれるのも必然である)ことは「ほんとうの自分」志向から来ているに違いありません。自分が決定したという事実がアイデンティティーを力強く保証し、彼らのパフォーマンス向上に一役買っているのです。
バックパッカーというトレーニング
冒頭のラオスで見かけた欧米人のバックパッカーは、日本人では探すことのできない(日本人にとっては存在しない)「ほんとうの自分」を探して旅をしているのです。アイデンティティーを確立することが最重要課題であるから欧米人のバックパッカーは多いという理屈です。そして彼らは小さい頃から自己肯定を高めるトレーニングをしてきたように、バックパッカーで旅をすることもトレーニングと捉えているように思います。
だから「プッシュアップ(腕立て伏せ)を何回したら、上腕二頭筋が何センチ大きくなる」とか、「このダイエットをしたら何日で何キロ痩せる」というようにきっと彼らの旅のしおりにはいつ、どこに何をするのかというメニューが具体的に書かれているはずです。
あえて重い荷物を背負い、あえて貧乏旅行という設定(自国よりも遥かに安い物価の国なのに)で各地を転々とすることは負荷を高めることにつながり目的達成に近づく、トレーニングそのものです。ラオスで私が抱いた「一体何をしに来たのだろう」という不思議な気持ち、違和感の正体はトレーニングだったのではないかと思います。
修行
アメコミのスーパーヒーローはアイデンティティーを獲得すると人間のパフォーマンスが向上します。一方、日本の漫画では修行することがその役割を果たしていると思います。
漫画家鳥山明さんの代表作であるドラゴンボールでは修行するシーンがたびたび描かれます。主人公である孫悟空の師匠亀仙人(武天老師)は、孫悟空ともう一人の弟子クリリンに修行をつけます。その内容は牛乳配達や広大な畑を手で耕させたり、工事を手伝わさせる、ハチと格闘させる、サメに襲われながら水泳をさせるなど、とうてい武道の大会で勝つためのものとは無縁に思える内容です。それでも孫悟空は師匠を疑いもせずに、毎日同じことを繰り返し行います。今行っている修行がどのような報酬をもたらすのかは事前に教えてもくれない、今の自分が武道の大会で通用するのかもわからない、それでもひたすら修行に励むというシーンは印象的です。
きっと悟空もクリリンも途中で、「なんでこんな事をしているんだろう、あのじいさんに騙されているんじゃないか」と思ったはずです。しかしその不満を岩やら木にぶつけた時に、以前とは比べ物にならないパワーを身につけている、以前の自分とは違うということを悟ります(推測ですが)
修行には具体的なメニューも得られる効果も事前にわからない、これがトレーニングとは大きく違います。修行は「いつ、どこに、どのように旅を進めるか」ではなく、「旅する」ことそれ自体が重要であり、その旅が終わることありません。孫悟空はあの世でさえも修行をするのは、「絶対にたどりつけない目的地」をめざして歩み続けているからに他なりません。
ただの通過点に過ぎません
イチロー選手や大谷選手など輝かしい実績を残すトップアスリートは「これはただの通過点に過ぎません」と記者からのインタビューで答えます。周りはその実績を褒めて囃し立てますが、アスリートはその成功体験に留まることが進歩を止める原因であることを知っているからです。
おそらく「ほんとうの自分」というシステムは欧米文化圏からの輸入物だと思います。オンリーワンとか個性的であることがたびたび求められますが、その要請に応えるという受身であることがトップアスリートが危惧している停滞、後手に回ってしまうということを指すのではないかと思います。
先手必勝という言葉あっても後手必勝という言葉がないように、後手側はいきなり圧倒的にに巻き込まれてしまいます(上級者であればあるほどチェスや将棋は先手が勝つ可能性が高いゲームです)
難しいところは勝利することが求められる世界でありながら勝利に執着してはならない、先手を取ることが戦いに有利になることをわかっていながらもそれに固執してはならない、練習した成果を出すことが求められながらも全てを発揮しようと考えていけない。なぜなら執着や固執というものがあなたを緊張させ、停滞させ敗因させることになるからです。
極めつけは執着しないということさえも執着しないという帰結になり、それは無心になれという最終解にたどり着きます。
無心になること
亀仙人の修行は武道の大会で勝つためのものとは無縁に思える内容だということは前述しました。わざわざ武道とは関係ないことを毎日繰り返しさせたのは武道の大会で勝つことを忘れさせ、無心にさせるためだったのではないでしょうか。
戦う相手を忘れ、戦うことの意味すら忘れたとき(自分のことすら忘れるとき)に人は最強となることを亀仙人は知っていたのだと思います。
ここでいいたいのは人間的パフォーマンスを向上させる方法はなにも一つだけでないということです。欧米人はアイデンティティーの発見で人間的パフォーマンスを向上させることに対して、日本人(アジア圏)は修行を通して人間的パフォーマンスを向上させるのではないかと思います。
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