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男はなぜコスプレ衣装に制服を選び、それを女性に着させるのか。

アダルトコンテンツはなぜ学校、学園モノが多いのだろうか。風俗店にあるオプションには必ずといっていいほど制服のコスプレがあるのはなぜだろうか。それは制服があなたの性的興奮を高めるからだろうか。それとも満たされなかった学校生活、青春へのルサンチマンなのだろうか。

結論からいこう。女性に制服を着せるのは、私とあなたの関係が先生と生徒であること、ここが学びの場であることを半ば強引に設定するためである。

学校の本旨に即して語るならば、生徒は「知のありか」を求めて学校に来る。そこに行けば「自分に欠けているもの」を満たしてくれる「知者」に出会えるだろうと期待している。先生が先生である条件は生徒のニーズに応えうる人、その人自身も「知ある者を求める」人であったかどうか、今もなお知を求め続けているかどうかである。そういう意味では「板書がきれい」とか「教え方がうまい」などは先生の必須基準にはならず、極論のところ「バカであって」も障害にはほとんどならない。つまるところ生徒の欲望が対象にしているのは先生ではなく、先生が欲望しているものだからある。

学び場、学校というところはすべての制度的虚飾を削ぎ落とせば、「知ある者」に対する欲望を持つ者(先生)の欲望が、「知ある者」に対する欲望をもつ者(生徒)の欲望の対象となる、という「欲望の欲望」の構造に行き着く。

「欲望の欲望」というのは「精神現象学」のヘーゲルの言葉である。人間の欲望が対象とするのは、物や人ではなく「他者の欲望」であり、「他者の欲望の対象となること」「他者に欲され、愛され、承認されること」を欲望するのが人間的欲望だという、欲望についての真意をついた最終解であることは間違いない。

最新ゲームが欲しい思うのは私が最新ゲームをしたいからではなく、その最新ゲームが他者の欲望の対象になっているからである。自分にとってはもう必要がないものなのに、他人から欲しいと言われた途端、先ほどまで無価値同然であったものが突然にして価値あるものに感じ、あげるのをためらってしまうのは他者の欲望によるものだろう。私たちは愛する人を占有、独占したいのではなく、愛する人が私に対して同じように連絡を取りたい、一緒にいたい、共有したいという愛する人(他者)の欲望を欲している。

この他者の欲望を欲望する構造が最もあらわになるのは性行為の時である。私たちの性的快感が最も活発する対象は相手の肉体へではなく、相手の性的快感であり、相手もまた同様な関係にある。

つまり性行為の場面において、自分が性的快感を得るのは、相手が私から性的快感を得ていると感じているからであり、相手が性的快感を得るのは私が相手から性的快感を得ていると感じるからである。二人の性的快感それぞれが相互に活発し合いループの中をぐるぐると循環する。

性行為のときに完全に受け身になり、動いたり反応したりすることなくベッドに横たわっている相手(いわゆるマグロ)との性行為が充実しないのは、この循環がうまく作動していないためであろう。

欲望と欲望が相互に活発し合い循環するという点では、性行為における性的快感も学校の場における学びも共通しているといえる。学びの場を駆動しているのは、知を求め欲する「知への愛」である。

「知はもっとも美しいものの一つであり、美しいものへの欲求をエロスと言います。ですからエロスは必然的に知を愛する者であり、知を愛する者であるがゆえに、必然的に知ある者と無知なる者との中間にある者なのです。」

プラトン「饗宴」

このようにソクラテスに説いたのはディオティマである。学びの場とは「知ある者と無知なる者の中間にあるもの」である。そしてディオティマを信じるなら、「学びの場」とは必ずや「エロスの場」となる。「エロスの場」であるということが学校を学校たらしめている。

それゆえ学校ではたびたびセクハラが起きてしまう。セクハラする先生というのは学校が本質的にエロティックな場だと知らないからである。構造的に与えらた学生の欲望を「おのれ自身」、「おのれが所有しているもの」へ向けられているという勘違いをしてしまう。だからセクハラをする者は決まって、その行為を「セクハラだと思わなかった」という。

生徒が先生に示す欲望は、精神分析治療の寛解期に患者が分析家に性的欲望を示す「転移」の現象に似ている。精神科医のフロイトははじめ、内心の秘密を打ち明けることができ、それに対して有用な助言をしてくる分析家に対する患者から自然に発生するものだと考えていた。しかし、数多の治療現場を経て、この欲望は患者の個人的な感情ではなく構造的に発生するものであることにフロイトは気づいたのである。そしてその欲望を手かがりにして分析治療は劇的に進行する。

生徒と先生の恋愛も、相談相手に恋してしまう現象は、このフロイトの「転移」と同じく構造的に発生する欲望によるものだといえるだろう。

学生が抱く欲望は個人的な感情によるものではなく、先生へ向けられているものでもない、それは「知への愛」の表出に他ならない。それは教育の最良の道具であり、分析治療が「転移」を推力として進行するのと同様に教育もまた「知のありかへの欲望」を推力に進行する。

制服を着た女性が抱く欲望は女性の個人的な感情によるものでも、男に向けらたものでない。美しいものへの欲求、それはエロスに他ならない。男は構造的に発生させたその欲望を手がかりに、エロティックな場で男たちの欲望を叶える。

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