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最初から「誰も選ばないもの」を選べ。それが正解だから。

これは今はもう亡くなっている、英国で数々の伝説を残している天才クリエイターといわれていたポール・アーデンの著書にあった言葉。その著書には所々にハッとする教訓があるのでいくつか紹介したい。

やらないより、やっておけ

多くの人は自分が40歳になった頃、ひとつの重大な事実に気づいてしまう。それは、自分は今までとてももったいない人生を送っていたという事実だ。たしかに、人生の大半は順調で幸せだったと言えるかもしれない。唯一、「人生最大の勝負をする」という勇気が持てなかったことをのぞいては。

あなたは穏やかで、安全な毎日を望んでいるかもしれない。しかし、ふとした瞬間に「何かを失っている」と感じているときがある。そういう人生をこれからいつまで続けるんだろう。

PAUL ARDEN,PLAY・JOB ,Sanctuary books,2008

後悔には2種類ある。「何かをしてしまった後悔」と「何かをしなかった後悔」である。普通は前者を思い浮かべることが多い。「あのとき飲んでいなければ」や「酷いことを言わなければ」、「着けておけば良かった」という具合の後悔である。それで捕まろうが、友人を失おうが、病気になろうが、それらは自分の欲望に応えるために行った結果であり、大概はすぐに忘れる。問題なのは、私たちの心の奥を長い時間をかけてゆっくりと酸のように浸食する、私たちの生涯にかけてまとわりつく「何かをしなかった後悔」である。

あの時に何かをしなかった後悔は、ふとした瞬間に何かを失っていると感じさせる、あの時に何もしなかった後悔は、何も起こらなかったが故にいつまでも私たちを煽り続ける。

警戒心を忘れろ

お年寄りのゴルファーは勝てない。絶対ではないが一般的にそうだ。
なぜだろうか?

お年寄りたちはショットをミスったら、どんなひどいことになるかを知っている。だから注意深くなる。若いプレイヤーは無邪気なのか無鉄砲なのか、どうしても注意することができない。それが若者の強みだ。
それはゴルフだけではなく、すべてにおいて同じことが言える。
知識は私たちを警戒させる。
勝つためには、どこか幼稚っぽい気分が必要だ。

PAUL ARDEN,PLAY・JOB ,Sanctuary books,2008

この教訓はビギナーズラックの正体をうまく表している。なぜビギナーズラックが起こるのか。それはビギナーには知識や経験がないからである。経験豊富なプレイヤーは目的地までの最短距離を知っている。しかし王道はいつも混雑しており、時として王道を知らないビギナーに負ける。大型連休の高速道路が良い例だろう。誰も行ったことがない道を無邪気に無鉄砲に進むことが一番の近道であることをビギナーズラックは教えてくれる。

願望を捨てろ、欲求を持て

願望とは「なんかいいことないかな・・・」という意味である。
もしあなたが、他のみんなのように「正しく安全な判断」を続けていたら、他のみんなと同じような人生になる。

欲求とは「それが十分あれば手に入る」という意味である。
欲しいものを手に入れるためには、「欲しいものを手に入れる」という決断をしなければいけない。

一度、勇気を出して「保証のない選択」をしてみよう。そうすれば常識では考えれなかったようなことが、考えられるようになる。
そしてその考え方が、さらに別の考え方を生んでくれる。その連続こそが、
欲しいものを自分の手を届かせるための手助けとなるのだ。

PAUL ARDEN,PLAY・JOB ,Sanctuary books,2008

「保証のない選択」とは経済学者マルクスの言葉を借りれば「命がけの跳躍」と同じだろう。商品を生産する人はその商品に価値がある、売れると思って生産しているがその答え合わせはそれを市場に出して売れるまでわからない。もっと大きな利益を出すには生産を拡大しないといけないが、何かのきっかけで商品は売れなくなり、大打撃を受けるかもしれない。それでもこの商品の「命がけの跳躍」無しに、勇気を無くして価値の答え合わせもお金も得ることもできない。

乳幼児が自己を認識をする過程として鏡像段階を経る。鏡に映った物体が果たして誰なのか、自己は勇気を出して「命がけの跳躍」するほか獲得することはできない。もしかすると認識の対象が鏡に映ったクマのぬいぐるみだったかもしれないし、犬だったかもしれない。

ポール・アーデンの教訓ともいえる内容をほんの少し紹介したが、どの教訓も気持ちが良いほどの逆張り戦略である。

コスパ、タイパ? なにそれ? おいしいの?

現在コスパ、タイパという言葉が世の中に蔓延っている。支払った費用に対して、使った時間に対してどれだけの効果やサービスが手に入ったかそれを私たちは異常に気にするようになった。

コスパ思考では値段のついてないもの、効果がよくわからないもの、自分が知らないものは選択肢に入らない。支払ったコストに対するパフォーマンスが算出できないからだ。

それを学ぶことは将来に役に立ちますかと教師に問いただし、学ぶことを拒否するコスパ思考の学生が危ういのは、現在のモノサシだけで判断し、自分にとっていずれ死活的に有用で有意になるものを切り捨てていることだろう。学ぶことでその価値観が変わるということを彼らは無視をする。私たちの世界はその有用性や意味のわからないようなもので埋め尽くされていることを彼らは知らない。

タイパ思考は倍速で鑑賞する映画、切り抜かれた動画、ファスト教養など時間を短縮できることでパフォーマンスを向上させることに重きを置く。そして時間が短縮できない、答えが出るのに時間がかかることへの優先度は低く見積もられる。今日のビジネスではより短期でより利益、成果を求められることが多くなったように思われる。それは臨床哲学者の鷲田清一の言葉を借りれば「プロ(pro-)に象徴される前のめりの姿勢」という時間意識の過剰だと思う。

「労働」の現在を分析する仕事をしていた頃のことである。ある日ふと、企業のさまざまな活動や業務にある共通の接頭辞がつけられていることに気づいた。それを順にたどり、そしてあきれかえったというより驚愕した。
たとえば──
あるプロジェクトを立ち上げようと提案する。そのプロジェクトの内容を検討するにあたっては、そもそも利益の見込みがあるかどうか、あらかじめチェックしておかなければならない。なんとかいけそうだということになれば、計画に入る。計画が整えば、それに沿って生産体制に入る。途中で進捗状況をチェックする。支払いは約束手形で受ける。そして儲けが出れば、企業は次の投資に向けてさらに前進する。事業を担当した者にはそのあと当然、昇進が待っている……。ここでポイントになるいくつかの用語を英語になおしてみる。プロジェクトはプロジェクトであるが、次に利益はプロフィット、見込みはプロスペクトである。計画はプログラム作りと言いかえることができる。生産はプロダクション、約束手形はプロミッソリー・ノート、進捗・前進はプログレス、そして昇進はプロモーション。なんと、「プロ」という接頭辞をつけた言葉のオンパレードである。これらはみな、ギリシャ語やラテン語の動詞に「プロ」という接頭辞(「前に」「先に」「あらかじめ」という意味をもつ)がついてできた言葉である。
こうした前のめりの姿勢はだから、じつのところ、何も待ってはいない。

鷲田 清一,「待つ」ということ

現代人が待つことができなくなっていることはまた別で書きたい内容なのでここで深入りはしないが、タイパやコスパと関連する。

少子化の原因は子育てにかかるお金が不十分、育てる環境が整っていないとされているが、私はそうでないと思う。子供が生まれてから親離れまでという期間を親になる人(実際は親になる前)は待てなくなったからではないかと思う。子育てとは待つことであり、時間短縮することはできない。同様に一次産業である農業に人気がないのは、米や野菜といった成果物を得るのに時間短縮ができないからだろう。

コストパフォーマンス、タイムパフォーマンスはそのキャッチーな言葉に、最小の労力で最大のリターンを得るという魅惑的な大義名分に人気が出るのもわかる。今回はポール・アーデンに倣い、これに逆張りしたい。コスパ、タイパの根源である「時は金なり」の認識を改めたい。

TIME IS MONEY 

「より効率的に、より短い時間で多くの成果」を唱えた根源ともいえるのはベンジャミン・フランクリンの「Time is money」だろう。「時間はお金である、だから無駄にするな」という論理はとてもシンプルだからこそ、およそ全ての人にストンと腑に落ちるワードである。

しかし現在の私たちに必要なものは「時間はそれほど大事なもの、だから気前よく人にあげる」という「Time is money」だろう。

誰かが相談するのは、相手からの適切な回答が欲しい訳でない。ほとんどの場合、相談者はすでに回答を持っている。共感してもらい寄り添ってもらう時間が欲しいから相談するのである。そして、その時間は相談者の背中を押すのだろうと思う。

「時間が解決する」という言葉があるが、それは当の本人に流れる時間をさすだけでなく、誰かから与えられた時間も含まれるのだろう。

コメダ珈琲店がなぜあれだけ人気なのか、それは他店が回転重視、コスパ・タイパ重視の経営方針なのに対して、「くつろぐ、いちばんいいところ」という逆張りのコンセプトを持っているからだろう。

このコンセプトの言い換えは「どうぞ好きなだけここに居てください」という時間の提供である。

最初から「選ばないもの」を選べ。それが正解だから

私たちは選べば選ぶほどに間違える。

例えば配偶者を選ぶ条件として、収入が多い、美しい、背が高いなど客観的基準を条件にする人が多い。そういった客観的基準に照らし合わせて合致する人は何もあなただけではない。それはあなたがその人の配偶者である必然性がないことを意味し、あなたの代替はいくらでもいるということである。誰でも自分と代替可能であるという自己認識が人を幸福することはあり得ない。

会社を辞めると告げた時に会社からの引き止めにあう、これを嬉々として誰かに話したい気持ちが膨れ上がるのは会社からあなたは代替できない人材だと認められたと感じるからだろう。

逆に「別にあなたじゃくてもよかった」といわれて嫌な気持ちにならない人はいない。それはあなたがこの世の中に存在しなくても何も思わないよ、という死の宣告に近い。

繰り返しになるが、多くの人の羨望の対象であるということは、あなたの代替はいくらでもいる、ということである。

あなたの配偶者が誰が見てもすばらしい人間であれば、周囲の人々から羨望の眼差しで見られる、そのような配偶者を手に入れた満足感をきっとあなたは得られると思う。しかし、だからといってその配偶者をどんなことがあっても大切にする、守るといった使命感はもたらされ無い。

なぜならあなたの手に入れたすばらしい配偶者の客観的なすばらしさは、
あなただけでなくても、あなたの代替者に評価され続ける。これは私は存在しなくてもいいのだという認識に拍車をかけるだろう。

誰もが羨む配偶者の夫または妻が不貞行為に走るというニュースを幾度となく見てきた。これは手に入れた満足感だけが残り、大切にする、それを守らなければならないという使命感がないからに違いない。

私たちは選べば選ぶごとに間違える。だから選ばないものを選ぶという逆張りはあなたに正解を導く。配偶者選びは「できるだけ、誰も羨まない人間を選ぶ」これ一択である。

「なぜ私を選んだの?」
「だって、君のことを愛しているのは世界で誰もいないから」
というような会話の行く末は誰もが知るところだろう。

だから「だって、君の素晴らしさを理解しているのは世界で私だけだから」
と言わなければいけない。この二つの言葉は同じ意味なのである。

誰も選ばなかったからこそ、その配偶者の素晴らしさを理解しているのは私だけという確信は、あなたを唯一無二の存在に昇格させる。私がいなくなったら、配偶者のすばらしいさは誰にも理解されないままに終わる可能性がある。だから大切にする、それを守らなければならないという使命感が生まれる。









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