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ハンノイ女性の「野生の思考」

ハンノイについて

ヴィエンチャにはハンノイという、日本でいうとキャバクラに位置づけされる店がある。現地人向けの夜の遊びだが、外国人の私たちでも遊ぶことができる。ただし、日本のキャバクラとは大きくかけ離れており、豪華絢爛な装いはなく、チープなピンクネオンが薄暗く光り、相手の顔もよく見えない店内に、女性も普段着、ときにはパジャマ姿で接待をする。華やかで派手なドレス、煌びやかな日本のキャバクラとは全くといっていいほど異なりはするが楽しい遊びであることは確かだ。

有料記事になるがヴィエンチャン倶楽部では旅行ガイドとしてヴィエンチャンの夜遊びの全てを書き記している。初めてヴィエンチャへ訪れる、また数回しか遊んでみたものの楽しめなかった人をメインとしている。無料部分だけでいいので読んでもらいたい。

バケツがバケツでなくなる時

先日あるハンノイでお酒を飲んでいた時に店内で流れる爆音のタイ・ラオス音楽が急に止まった。原因は不明だが、どうやらスピーカーが壊れたようだった。毎日どこでも流れている、それらの音楽に洗脳される寸前だったため、事なきを得たかと思った矢先、女性がスピーカーを持ってきた。

いや、それは先ほどまで氷が入っていたバケツであった。それでも、今はスピーカーとして完全に機能している。バケツがバケツでなくなったこの時、酔いながらも混濁した意識の中で、ハンノイ女性の野生の思考を私は垣間見たのである。

「野生の思考」

「野生の思考」はフランスの人類学者レヴィ=ストロースの著作である。

いまだに多くの人は、例えばアマゾンの先住民と聞くと未開人、文明を持っておらず、単純で野蛮なイメージを持っていると思う。しかし、レヴィ=ストロースはそれを否定する。実際に彼が調査した結果、アメリカ先住民族は周囲の環境に対する知識について想像を超えたレベルで認知していたことがわかる。植物の分類方法一つとっても、現在の植物学と比較しても体系的で極めて正確なものであり、栽培育成方法に関しても原種の保存、交配に関して高い技術を維持する。盲目的かつ神秘主義的で非科学的な風習と見られていた儀式など多くの慣習についても、論理的な構造を持ち、社会的な効率性を備えた集団行動であることが確認される。

未開人とされる民族と先進的に進んでいたと自負していた西洋人とに差はなく、あくまであるのは考え方の違いであって、いく着く先は同じである。

レヴィ=ストロースはこれらアメリカ先住民族の部族観察から見出した思考形態をヨーロッパ由来の科学的思考と対比させ、それを野生の思考と呼んだ。

これは1960年代に始まった、いわゆる構造主義ブームの発火点となり、フランスにおける戦後思想史最大の転換を引き起こすことになる。今回の記事ではあまり深掘りはしないが、興味のある方はぜひ調べてみてほしい。

野生の思考、科学的思考とは何か

科学的思考とは現在私たちに染み付いた思考といっていい。レヴィ=ストロースは、野生の思考をブリコラージュ(日曜大工や器用仕事と訳され、ブリコラージュする人をブリコルールという)、科学的思考をエンジニアの仕事に例えて、次のように比喩的に説明している。

ブリコルールは多種多様の仕事をやることができる。しかしながらエンジニアとはちがって、仕事の一つ一つについてその計画に即して考案された購入された材料や器具がなければ手を下せぬというようなことはない。彼の使う資材の世界は閉じている。そして「もちあわせ」、すなわちそのときそのとき限られた道具と材料の集合で何とかするというのがゲームの規則である。しかも、もちあわせの道具や材料は雑多でまとまりがない。なぜなら、「もちあわせ」の内容構成は、目下の計画にも、またいかなる特定の計画にも無関係で、偶然の結果できたものだからである。すなわち、いろいろな機会にストックが更新され増加し、また前のものを作ったり壊したりしたときの残りもので維持されているのである。したがってブリコルールの使うものの集合は、ある一つの計画によって定義されるものではない。(定義しうるとすれば、エンジニアの場合のように、少なくとも理論的には、計画の種類と同数の資材集合の存在が前提となるはずである。)ブリコルールの用いる資材集合は、単に資材性[潜在的有用性]のみによって定義される。ブリコルール自身の言い方を借りて言い換えるならば、「まだなにかの役にたつ」という原則によって集められ保存された要素でできている。

クロード・レヴィ=ストロース 著、大橋保夫 訳、『野生の思考』、みすず書房、1962

少々長くて分かりづらい引用だったかもしれないが、とても重要な部分である。

ハンノイにいた女性は計画的に何かを考え、作り上げること(エンジニア仕事)はできないが、計画もなく、その場にあった偶然のもので(ハンノイという限られた、閉じられた世界)、日曜大工のように何かを作ることはできる。

バケツのスピーカーを見た時、これは100円均一で見たことがあると思った方もいるだろう。写真の商品は株式会社大創産業という日本の大企業が企画製造、全国展開するDAISO(ダイソー)で販売している商品だ。

この商品は緻密な計画なもと、何百人という人が介し、数ヶ月に及んで作成された科学的思考の産物といっていいだろう。

これに対しバケツのスピーカーは、計画など何もない、雑多なものに囲まれた環境で、まともな教育などを受けていないであろう、20歳前後の若い、一人の女性が、1分ほどで、そこにあった偶然のもので作った(ブリコラージュした)ことを考えると、野生の思考の破壊力は計り知れない。

繰り返しになるが、科学的思考と野生の思考のいく着く先は同じで、そこに優劣はない。

科学的思考の限界

人類の発展を支えてきたのが17世紀以降に確立されたといわれる科学的思考と呼ばれる論理的、数学的な思考方法である。様々な世界、とりわけビジネスや経済界においてはよく取り入れられ、洗練されてきた。

そして科学の大きな進歩は多くを解決してきたにも関わらず、それでもなお、直近ではコロナをはじめとする社会的、経済的に不確実なものに対してはうまく対処ができておらず、スーパーコンピューターの力をもってしても半年先のことを予測することは困難を極める。科学的思考はそういった、未来的、想定外、混沌、無秩序といったものに対しては弱い。それが近年より強調されてきたように思う。

それは科学的思考の「理性」と「感性」を切り離し、数学的、物理的に計測可能なものだけを対象する、宗教的、神秘的な考え方とを分断することによって確立してきた側面からも伺いしれる。ここに科学的思考の限界があり、今後必要なのは、野生の思考ではないかとバケツのスピーカーから流れる音楽を聴いて、この記事を書くに至った。

概念ではなく記号で考える

科学的思考はよく概念で考えるといわれる。簡単にいうとバケツはバケツであり、それ以外には意味を持たない。信号が青いだけでなく、信号が青く光っているから安全、渡っていいと考えるのが記号で考えた結果である。

一義的に定義される抽象的な概念と違い、記号の意味は本質的に曖昧で揺らぎがある。

ブリコルールたちは記号で物事を考えるため、道具や材料らが自分が何であるかを自分では十全には決定できない無力さを、さらけ出しているように見える。それらは私を規定してくださいとブリコルールに訴えかけ、ブリコルールはバケツをスピーカーにする。

こんなものでも何かの役に立つことがあるかもしれない

自分が深いジャングルにいることをイメージしてほしい。歩いているといろいろなものに出会うだろう。それは動物であったり、植物、有機物や無機物に自然なもの、人工物、はたまた得体の知れない物であったり。それらを目の前にしたときにブリコルールは立ち止まる。そして、「こんなものでも何かの役に立つかもしれない」と言って、それらをリュックに入れる。

なぜそれを選んだかははっきりとしない、しかしこれまでにそうやってリュックに入れたものが想定外、混沌、無秩序という生命の危機に及ぶ局面に差し掛かった時に、それらをブリコラージュし局面を脱した、役に立った経験があるのかもしれない。「ああ、あの時拾っておいて良かったな」とそう思う、呟く場面があったのかもしれない。

小さい時よくわからないものを拾ってきては、親から叱られ捨てられた時なのか、学びの場で科学的思考を得るに比例してなのかはわからないが、私たちの野生の思考は非常に弱くなっていると思う。

学校では生徒が先生にする「なぜそれを学ばないといけないのですか、将来に役に立ちますか?」という問いかけは、科学的思考に基づく合理的にも正しい発言だと生徒は思っているだろう。不要なものは学ばない、コスパが悪いものは切り捨てるという姿勢は、あらゆるものを数値化、物理化した考え、直感や感性を切り離した、いかにも科学的思考だ。

生徒が切り捨てようとしたその学びは、ブリコルールにとっては「こんなものでも何かの役に立つかもしれない」「あの時拾っておいて良かったな」というものかもしれない。それは想定外、混沌、無秩序という生命の危機に及ぶ局面に差し掛かった時に唯一助かる方法だったかもしれない。

科学的思考は想定外、混沌、無秩序といったものに対しては弱いことは前述した通りだ。未曾有の大震災や宇宙人の襲来など、真の危機(想定外、混沌、無秩序)とは「何をしたらいいか正解がわからない」ことを指し、それらを脱することができるのは「何をしたらいいか正解はわからないが、とりあえず、あるもので正解をつくる」、ブリコラージュする野生の思考に他ならない。

野生の思考とは生きる力

ここで以前書いた記事”世界一何でもある首都ヴィエンチャン”で紹介したジョージ・カーリンのメールを引用したい。

We've learned how to make a living, but not a life.
私たちは生計の立て方は知っているが、生きる方法は知らない。

DhiPatriotsより一部抜粋、引用

多くは「私たちは生計の立て方は知っているが、(人間らしく)人生を生きていない」と訳すはずだ。前回の記事に書いた通り、タイミングによって翻訳、捉え方が変わると説明した。

科学的思考をする人々は、私も含めて教育を受け、この世の中で稼ぐ能力は未開人・野生で生きる人々、ハンノイで働く人よりも高いと思う。しかし、生きる力、何か説明がつかない無秩序ともいえる危機が発生した時における生存率は後者が優れているだろう。野生の思考とはまさしく生きる力のことと言っていいだろう。ジョージ・カーリンがいうように、私たちは真に生きる術を知らない。

東南アジアのブリコルールたち

東南アジアの屋台やレストランでは必ず調味料があり、人々は自分流に味を変える。経験上そのまま食べても美味しいはずだが、元の原型をとどめいないレベルで変えてしまう。日本でそれをすると作る側への失礼にあたる場合も多いが、なぜそれをするのかとずっと考えていた。それがブリコラージュだとすると納得できる。

なぜフェイスブックのフレンドがああも多いのか、簡単に仲良くなれるのか、友達のハードルが低いのかをずっと考えていた。フレンドたちをいつか何かの役に立つかもしれないと記号で捉えている野生の思考によるものだとしたら納得できる。

ハンノイの女性たちは、私たちでは考えられない、不遇な境遇で生きている、働いている人も多い。それでもなお、底無しの笑顔で、楽しく過ごしているのはなぜかずっと考えていた。それは彼女たちが混沌とした無秩序な出来事、私たちではとうてい対処できないレベルのものを野生の思考で、生き延びている、ブリコルールだったとしたら納得できる。

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