寿司が食える僕らに、怖いものはない話
最近は寿司がどこの国でもブームらしく、日本の寿司屋でも
「デリシャス!」
「しゃっす!!」
というような、外国人と大将の会話を見かけることが多くなってきました。
日本の味がグローバルに広がっていくことはとても喜ばしいことでありますが、同時に「マジか?カジキか?」と思う自分がいることを告白いたします。というのも、寿司ほど恐ろしい料理はないからなのです。
今回は、寿司の恐ろしさを考えていきたいと思います。
恐ろしさその1:おっさんが握っている。
寿司をよく考えてみてください。
家では娘に「お父さんのパンツと一緒に洗わないで!」と不潔扱いされているであろうおっさんが素手で握っているんです。しかも、極め付けに手汗を入れるかのようにぎゅっとする。中には多汗症の人もいるわけで、酢と汗の配分がとんでもないことになっている可能性も。
「うちのシャリには酢を入れてねーんだわ。その必要がねーの。なぜなら・・・」
と、食べた後に恐ろしいことを言い出した大将がいるとかいないとか。ここまでくるとホラー話か、ホラ話。人が握るんだから体調によって味がが変わることもあるはずで、それもまた恐ろしい。通は味で大将の喜怒哀楽がわかるとかわからないとか。
「いつもより塩気が多い。さては大将、失恋したな?」
ってやかましいわ。
それでも、機械がにぎる大手回転寿しチェーンの寿司よりも、人が握る寿司の方が圧倒的にうまい。シャリが口の中でほぐれるし、ネタとの一体感もある。機械だとこうはいかない。うまい!うまいんだけど、おっさんが握ってるんだよな。。友達のお母さんが作ったおにぎりは食べられないのに、どこの誰かもしれないおっさんが握った寿司は大丈夫な人はよく考えてみてください。
恐ろしさその2:究極の食べやすさを求められ、生み出されたクリーチャー
寿司をよく考えてみてください。
寿司の要素で外せないのは一口サイズであるという点だ。シャリに対してのネタの大きさがもう本当に「一口!」と思わず叫ぶほどに、見事としかいいようがない。ここまで一口サイズな食べ物は他にないのではないだろうか。エビに至っては、一つのシャリにエビ1匹という奇跡のジャストサイズ。エビは寿司になるために生まれてきたと言っても過言ではない。
あれだけ大きかったマグロが、華麗に一口になっていくのを僕らは楽しげ見つめているが、あの華麗さから醸し出されるのは「食べやすさをもとめる人間の変態性」だ。計算に計算をされ無駄を残さず一口サイズにしていく。
しかもショータイムにしてしまっているという、まるでマッドサイエンティストかサイコパスの所業である。この執着が一歩間違えば、人間を脅かすクリーチャーが生み出されていたかもしれないと思うと恐ろしい。
恐ろしさその3:サイケデリックな光景に生み出されるトランス状態
寿司をよく考えてみてください。
マグロ、玉子、キュウリにエビと、カラーチャートを全色網羅してそうなほどにカラフルで、まるでチベット僧が修行で作る砂曼陀羅を思わせます。
ここまで色鮮やかな料理もない。
そんな修行めいた物が、レーンの上をぐるぐる回っているのを見ていると、こちらの頭も回り始め、トランス状態になりかねない。
LSDの幻覚症状のように物と自分との距離感がわからなくなり、玉子が黄色のヘルメットに見えてきたり、いくらが大仏の頭に見えてきたり、広大な砂漠が広がっていると思ったらウニだったりする。
そのような幻覚症状に悩まされながらも「おいしいおいしい」と子供も大人もヘラヘラとジャンキーのように笑って寿司を食べる僕らは、どんなに野蛮なストリートカルチャーに巻き込まれても、クラブでドでかい外人に絡まれても実はなにも怖気付くことはないのである。
さて、いかがでしたでしょうか?
他にも、アフリカだと海苔が怖いらしく、海苔をとって食べるほど寿司は恐れられている中で、日本人の海苔への慣れ方はやはり異常であるという点も付け加えさせてください。
これを逆手に取って(取りまくって)、ふと悩んだり、落ち込んだりというようなわさびが効きすぎた時は、
「僕らは寿司を食べることができるほどに恐れ知らずなんだ」
と、思い出してみましょう。きっとなんでも乗り越えられるはず。寿司にはそんな啓発的でスピリチャルなパワーが秘められているのですから。
以上。
(文・すし太郎)