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アンナちゃんのこと

最近、いつものパブへ行くと、アンナちゃんが働いてはいるが、ひまを見てエプロンの大きなポケットに単語帳を入れていて、英単語をさらってるのをよく見る。話を聞いてるとIELTSを受験する予定らしく、ひまを見て勉強をしているそうだ。

鉛筆やらペンやらを使って単語帳にいろいろ書いているのを見るがあまりにもひどい文房具を使ってる。パブで使われてるよくわからないボールペンやら、どこかで拾ったんだか持ってきたんだかわからないちびた鉛筆、あまりにひどいので、私が持っている文房具をパブへ持って行って、アンナちゃんに寄付した。日本の蛍光ペンのセットや、3色ボールペンにシャープペンがついたの、クルトガ機能のついたシャープペンに、消しゴム、ほとんどが日本製なので、喜んでくれたと思う。

それにしても、なんでIELTSなの?と質問した。この試験は外国人の留学生が大学に入るために受ける試験である。大学入試というわけではなくて、外国人留学生の英語のレベルを見るためのテストである。xx大学のxx学部に出願するならスコアはこれくらいいります、などという目安があって、その目安を満たしていれば、大学の入学の許可が出やすくなる。外国人の留学生はほとんど必須で受験しなくてはいけない英国独自の資格になる。

「本当のことを言えば、大学に行きたい。でもお金ないから、奨学金狙いになる。それができるかはわからない。でも、この試験のスコアがあれば、英語ができるという目安になって就職がかなり有利になるから、私は頑張る」というのがアンナちゃんの返事だった。

アンナちゃんはウクライナの人である。ロシアのウクライナ侵攻を受け、戦争状態に入った祖国から逃げだすため、アンナちゃんは戦争に関係ない国に疎開することになった。アンナちゃんの疎開を手引きしたNPOはハンガリーにアンナちゃんを配置したかったらしいが、アンナちゃんはハンガリー語の試験に落ちて、イギリスのNPOに拾われて、ロンドンにやってきた。ロンドンの篤志家の家にホームステイしており、その家はパブの真裏の通りにあった。アンナちゃんはロングヘアで身長がかなり高い、細くて首が長くて、結構目立つ子である。

ホームスティ先は60代後半の夫婦で、子供部屋が3つあったが、子供は独立して部屋がいらなくなったので、格安の値段でアンナちゃんともう一人のウクライナ人の女の子を引き受けた。ホームスティ先のご主人が、パブの外を掃除していた主人であるパットを捕まえて、「ウクライナガールズにいい就職先ないかね、バイトに毛が生えた程度でいいのだが」と相談したらしい。パブの主人、パットは「一人なら引き受ける」と返事したらしい。アンナちゃんがパブで働くことになった。そして、パットが同じ通りで新しくオープンするイタリアンレストランがオープニングスタッフを募集しているのを知り、もう一人のウクライナの子がそこで働くことになった。

もう一人のウクライナの子はそこまで背が高くなく、栗色の髪をぱっつんボツに切って、60年代の女優さんのように逆毛たてて、毎日違う色のカチューシャをしていた。真っ黒のアイラインを派手に取り、ミルキーピンク色のリップをつけていた。そして、目が悪いらしく、レイバンのティアドロップ型の色付き眼鏡もしくはアラレちゃん眼鏡をローテーションでかけていた。一目みて「おしゃれ」とわかる子だった。名前を聞いたがよくわからなかったので、私は眼鏡と呼んでいた。(この子はいつも皮かデニムのミニスカートに、ウェスタンブーツかクラッシックな黒いロングブーツを夏でも冬でも履いていた。)

そして彼女たちのホームスティ先の同じ通りに彼女たちと同じ年配の女の子(この子は日本人と言われても、信じてしまうくらい東洋系の顔立ちをしている子だった。)がいて、だいたいいつも3人でつるんでいた。

アンナちゃんは最初の数カ月はパブに順応するのに、相当苦労した。英語もさることながら、お金の種類を一から覚えて、ビールやカクテルの名前やらを憶えて、客あしらいを覚えて、客を相手するための英語やらパブカルチャーやらサッカーチームの名前やらを覚えて、ということで相当苦労していたのを私は見た。そういう時に、さりげなくその当時のバーテンダー頭のジンジャーが根気強くアンナちゃんをサポートしていた。

アンナちゃんは20歳そこそこ、ジンジャーや40近い。年の差があったので変に関係が生生しくなく、アンナちゃんからすれば頼りがいのある年の離れた親戚のいとこみたいな感じで、ジンジャーを慕っているのが周囲から見てもわかった。アンナちゃんの両親は彼女が8歳で離婚し、アンナちゃんの兄が父親替わりになったという。しかし、その兄も今回の戦争で行方不明になり、アンナちゃんの心の支えみたいなのがなくなってしまった。ジンジャーもその辺よくわかっていたようで、何かあれば、アンナちゃんの話をじっと聞いていたり、アンナちゃんがエキサイトすれば、ちょっと二人で席を外して、近所の公園でたばこを吸ってクールダウンさせてから、パブに戻って来ることもあった。

ジンジャーのサポートもあって、アンナちゃんはパブにもすぐになじみ、パブで楽しそうに仕事をするようになった。

パブの仕事に慣れ、英語もある程度操れるようになってから、アンナちゃんは「早く独立して仕事を探して、自立したい」と言うようになった。住み込みでいいから仕事を見つけて、一人前の大人としてイギリスで暮らしていけるようになりたい、と言い出すようになった。

焦りもあったのかもしれない。というのも、眼鏡ちゃんは、イタリアンレストランで夜とランチタイムはウェイトレスをやっていたが、近所の美容院に実習生として雇われていて、とりあえず自分の興味のある世界の仕事を得て、人生の一歩を踏み出したところだった。

もう一人、日本人に似た子は、イギリス人のボーイフレンドができ、その子と暮らすことになり、ホームスティ先を出た。

ホームスティ先の夫婦は何者かは私はよくわからなかった。というのも、家もかなり大きい家だったが、時々、アンナちゃんや眼鏡を社交に連れ出すのだが、その社交先が、普通に生活していたらまず縁のない世界の催し物ばっかりだったからである。

前に、イギリスのコメディアンのほとんどが一堂に会し、1人の出番が5分程度でつないでいく、ウクライナ救済チャリティのバラエティショーが催された。チャールズ皇太子だかが臨席するという催しものである。アンナちゃんと眼鏡ちゃんはそのショーに行くことになり、チケットをホームスティオーナーからもらったが、なんと、皇族の隣のボックス席だったという。この時、オーナーの奥さんだかが具合が悪くなって、引率者として、私が普段お世話になっているおばさんがこのショーについて行って「とんでもないシートだったわ」と後で私に教えてくれた。

そのあともウクライナのサッカー選手が新旧集まってチャリティマッチをチェルシーの本拠地、スタンフォードブリッジで行われたが、その試合も、かなりいい席の最前列で眼鏡ちゃんとアンナちゃんは見てきたらしく、携帯でたくさん写真を撮ってきたのを見せてもらった。

そんな感じなので、どこかにコネクションがある人達なのは間違いないであろう。そして、ホームスティ先はかなり鷹揚な人達で、「別にアンナちゃんも眼鏡ちゃんも焦ることはない、20歳そこそこ、大学生みたいなものなのだから、25歳くらいまではふらふらしていたって、うちが面倒みるからそれでいいよ」という雰囲気らしい。それでも、眼鏡ちゃんもアンナちゃんも、パブの近所のカフェにパソコンを持って集まって、二人でいろいろな就職先に履歴書を出しているのをちょくちょくみかけた。

残念ながら、アンナちゃんの職歴はウクライナから避難してきて、パブで働いている程度、イギリスでの学歴はなく、英語の実力もよくわからない。ほとんど面接にたどり着かないと嘆いていた。そして、一度だけ有名なピザレストランのチェーンの住み込み正社員の面接を受けたが、寮の施設と待遇に納得いかなかったアンナちゃんは面接を受けなかった。

眼鏡ちゃんはやはりそれなりに野望はあるらしく、美容業界で働きたいらしかったが、こちらも「何百枚って履歴書送ってるのに、全然面接にたどり着かない」と嘆いていた。とりあえず、眼鏡ちゃんとしては、地元の美容院である程度のノウハウを身につけたら、ロンドンの中心地の美容院にインターンに出たいというのが今のところの夢らしい。

パットがパブをリースに出し、バーテンダー頭のジンジャーがパブを辞めることになった。ジンジャーは、かねてから念願の介護業界に軸足を移し、大学などがやっている介護のショートコースを収め、地元のグループホームの介護職員及び訪問介護職員として雇われることになった。

ジンジャーを慕っていたアンナちゃんは相当悲しんで、ある結論を出した。私もジンジャーが働いているグループホームで働く、と言い出したのである。

周りの人はアンナちゃんを止めた。二十歳そこそこのあなたがいきなり入ってやっていける世界ではない。話を聞いていたら、ウクライナにいたときはおじいさんおばあさんには縁がなく、身近でお年寄りを見ていたわけでもないから、かなり畑違いの世界に入ることになる。そこまで甘い世界ではない。いくらジンジャーを慕っているからといって、今度の職場はジンジャーも新人扱いになるのだから、あなたをフォローしてくれるわけではない。パブで酔っ払いの相手が嫌になったのかもしれないが、パブの客なんて5分我慢すりゃ目の前からいなくなる。お年寄りの相手はそうは行かない。ホームスティ先の人達も「もっとゆっくり考えなさい」と言ってアンナちゃんを止めた。

結局、周りは説得したが、アンナちゃんは動じず。そして、ジンジャーの上司になる人が「まあ、半日持つか持たないかだろうから、とりあえず、一度体験させてやれ」と言って、アンナちゃんはジンジャーの職場に一度体験入学することになった。

案の定というか、アンナちゃんは半日しか持たなかった。初日のランチタイムになってから、ジンジャーの上司に「ごめんなさい、私やっぱり無理」と言って、帰ってきた。

このごめんなさい事件は後々までパブの話題になった。みんな「思ったより根性ないんだな」みたいな言い方をしていて、私はアンナちゃんを気の毒に思った。そして私の考えを代弁するように、いつも私がお世話になっているおばさんがこの話題になったときに、「確かに根性ないって言われちゃうふるまいだとは思うけど、途中で「できない、ごめんなさい」っていうのも根性いるわよ。ちゃんとできないって言えるのは立派なことよ。そういう気持ちもわからないで彼女のこと批判するのは、どうかなって思うのよ」と言っていさめてくれたのはよかったと思う。

けっきょく、介護は向かない。ということで、アンナちゃんの仕事探しは振り出しに戻った。そして、周囲のアドバイスでとりあえず、英語の実力がわかる目安になる資格みたいなのを一度取って、そこから簡単な資格を取って履歴書を送るなり、どこかにインターンに行くことを考えた方がいいと言われて今試験勉強をしている。

ウクライナ枠という、ウクライナから避難してきた人を受け容れている職場はたくさんあると思うが、正直、ブルーカラーというか、前前から人出が少ないと言われている職場が多い。伝統的に移民で来た人達が最初に取る仕事は圧倒的にサービス業が多いが、ウクライナの人達に割り当てされている仕事もその系統が多いような気がする。

そして、今は若い人達、特に学校などを出た人達の就職難、と言われている。就職市場は流動的で、仕事はいくらでもあるが、企業が欲しいのは即戦力なのである。日本だと新卒はかなり優遇されていると思うが、企業が欲しいのは、大学出た新卒と経験者の65歳がいるとなったら、イギリスの場合、圧倒的に65歳の方なのである。

なので、アンナちゃんの場合、普通のオフィスワーカーになりたいのであれば、イギリス人の経験者と呼ばれる人達、インターンなどを経てその仕事を欲しい大学出た若い人達などと戦って勝ち取っていくしかない。眼鏡ちゃんはどちらかというと、志向している職が手に職系なので、多少英語が怪しくても、なんとかなるのであるが、アンナちゃんはそうは行かないらしい。

ただし、アンナちゃんはウクライナ語、ロシア語、チェコ語が流暢で英語も悪くない。頭の回転も速い、そして見てくれが背が高くて目立つので、どちらかというとオフィスワーカーよりはホテルマンとか、接客の方が向いているのではないか、とジンジャーが言っていた。

この間、ジンジャーが自分の乗っているバイクを買い替えた。今までの黒いカワサキから、真っ赤なロイヤルエンフィールドに買い替えた。アンナちゃんは、ジンジャーに前から「新しいバイク買ったら一番最初に私を後ろに乗せてね」とせがんでいたらしく、ジンジャーが夕方、シフトが終わったアンナちゃんをパブに迎えに来て、二人でどこかへ出かけていった。30分くらいしたら戻ってきて、近所の高速道路にちょっと入って、サービスエリアでアイスクリームを食べて帰ってきたという。

20歳そこそこ、まだまだ子供っぽいところもあるし、年相応にませてるところもあるが、周りの人にうまく助けてもらいながら、アンナちゃんのいう自立した生活がロンドンで送れるようになってほしいと切に思う。










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