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さよならを言う間もない

この間パブで飲んでいたら、二人の若い女性がこちらに近づいてきた。一人は170センチは超えているであろう長身、丸いおでこがなんとなく特徴的で、まだまだ若くてかわいらしい、ベリーショートの女性だった。そして、たぶん姉妹であろう、150センチくらいの丸いおでこのセミロングの女性が一緒にいた。なんとなく見たことがある人達であるが、どこで見たのかはわからない。お化粧はしっかりしてるが、そこまで厚化粧でもなく、好ましい感じのお化粧だった。服装は普通の若い女性の服装だった。私とは何の接点もない感じの若い女子が二人、「探してたんです、あなたのことを」とか言ってこちらに微笑みながらやってきた。「???」どこかでお会いしましたっけ、私、あなたたちと、そういいたいのを我慢して、「ハロー」とか言って彼女たちの挨拶を返した。

「私たちはxxの娘です。パパの最期の日々を知ってる人達を探して、話を聞いているのです。」と彼女たちは言って来た。「話はしたくない、来るな、帰れ」と言いたいのを我慢した。そして私の隣にいた私の連れは、彼女たちのためにイスを探して持ってきた。

xxというのはパブの常連のアイルランド人のおじさんだった。仮名としてジョンとでもしておこうか。北アイルランドにすぐ隣接してるドネゴルという州の出身で、ロンドンに出稼ぎに来ているおじさんだった。庭師+ブロック塀やらレンガ塀を作ったり直したりするのが本職らしいが、内装もやっていた。兄貴がノエル(クリスマスに生まれたからこの名前)といい、この人も外装やらを手掛けているという人で、兄弟で会社を興し、2人で働いていた。2人で家を借りて、出稼ぎに来ていた。私はこの兄弟と行きつけのパブで出会った。

私の二人とも私の大好きなおじさんたちだった。兄貴のノエルは非常に慎重な人で、人ごみがあまり好きでなく、パブにはジョンほど来なかった。弟のジョンは人さみしいのか、パブにはノエルよりよく来ていた。

ジョンは7月の最初の週に、がんでなくなった。

ジョンさんは、サッカーを見るのと、音楽を聴くのが好きで、よく月曜の夜のプレミアリーグ中継を見に来ていた。月曜夜はそこまでみんなサッカーの試合をパブに見に来ないので、ガランとしていることが多かった。ジョンさんはそういうときに必ずいたので、覚えている。音楽も好きだったらしく、住んでいる街の周辺のライブ付のパブにはまめに顔を出していたようで、なんとなく音楽を聴きにパブにふらっと入ると、目の前にジョンさんがいたりすることが多かった。

控えめで優しくて、そして、ちょっと面白かった。基本的にはおとなしい人で、誰かの話をじっと聞いていて、時々毒のある返しをしたり、おちゃめな冗談を言ってきたりして、それが普段のおとなしい彼とのギャップがあり、面白かった。彼が話し手となって、話が進むこともあったが、オレの話を聞けというふうでもなく、そしていかにオレがえらいか、すごいかというふうでもなかった。だから聞いていてラクだったし、話の内容も信用できた。視点は公平で、人種的に偏った話も、性別的に偏ったところもなかった。

あまりにも、自己主張がなく、そして政治的主張もそこまでしなかった人なので、私はジョンさんを最初はIRAか元IRAの人だと思っていた。パブで、ジョンさんとよく話していたダミアンという人がやはり、自己主張がなく、あまり自分の家族や過去を話さず、独特に人と距離を取っていた。普通の太った中年という体の人だったが、時々目つきがおっかなかった。「なんか、いろいろあった人なんだろうな」という風に見えた。私の予想通り、ダミアンは元IRAという話だった。ただ、ダミアンさんに比べればジョンさんは家庭の話もぽつぽつしていたし、両親の話などもしていたので、また違ったタイプの人に見えた。

それでも、ジョンさんを見て、私の住んでいたシェアハウスにいた日本人男性でやはりパブへ行ってた人は「なんか、いろいろ過去にあったぽい人だよね。ものすごい忍耐強い人で優しいんだけど、人を裁いたりしたりしないというかね。あそこまで人間練れるって難しいと思う。」と言っていた。ジョンさんは、確かにはっきりとは言わなかったが、北アイルランド紛争が自分の住んでいた地域にはいろいろあった人だったらしく、この手の話はしたがらなかった。

自分でも不思議であるが、個人的にものすごい心を許していた人だったと思う。普通に話ができる人、そしてジャッジメンタルというか、簡単に人を裁いたりせずに話を聞いてくれる人、そして私のつたない英語に付き合ってくれる人、人間的に信用できる人、そして口が堅い人、だった。正直なんの損得もなく、私のような得体のしれない人間の話も黙ってちゃんと聞いてくれる人なんて本当に貴重だった。そしてなんというか、さりげない気配りができる人で、話し込んでも無駄に長居したりせず、さっといなくなって帰ったり、たばこを吸いに外へ出て、場が落ち着いたころにまた戻ってきたりという気の使い方も「大したもんだな」とこちらがうなってしまうくらいだった。さりげない繊細な気の使い方もできる人で、その辺の心配りは見事、としかいいようがなかった。

正直、「xxってよく言う人はたぶんxxだよねー」などと人をすぐカテゴリ分けしたがったり、いつまでもベラベラしゃべってだらだらしがちな私にとって、彼のような他人に対する態度は非常に勉強になったし、反省させられた。そういう意味では人間がかなり練れている人で、見習いたいな、と思うところがたくさんあった。尊敬の意味も込めて、私は彼のことを「クールジョン」と呼んでいた。

ジョンさんも私も私の連れも、GAA(ゲーリックスポーツ)を見るのが大好きだった。特にフットボールを見るのが毎年楽しみだった。GAAは全部チームが県別対抗で、毎年、エリア内を戦って代表になった県チームが総当たりで戦うというフォーマットになっており、プレミアリーグサッカーが終わった6月くらいから勝負は佳境に入る。私がゲーリックを見始めた年からはフットボールはダブリン県が優勝し、それからなんと6年連続でオールアイルランドを制し、優勝した。まずこれは過去にそんなにない話で、偉業だった。しかし、2021年、ダブリンは準決勝でメイヨー県に負けてしまい、7連覇の夢は断たれた。

その時に、ダブリンの監督だったのは2年目のデジーファレルという監督だった。負け試合が終わって、私たちは「デジーやばくね??デジー首っぽくね?」などと口さがなく話をしていたときにジョンさんがぽつりと「デジーは首にしちゃだめ、育てないとダブリンの損失になる」と言っていなくなった。

ジョンさんはダブリンの人ではないし、ダブリン支持者でもないのは知っていたが、デジーにはやたら肩入れをしていた。?という感じだったが、あとあと兄さんのノエルに聞いたところでは、デジーの母方の実家がジョンさんとノエルさんの実家のすぐ隣で、もともと知り合いという話だった。

その話を聞いて一つ謎が解けた。ジョンさんはなぜかエバートンというプレミアリーグのチームを応援していた。試合を見に行ったり、選手のことをSNSで追っかけたりというタイプのサポーターではなかったが、パブでエバートンの試合がやってる日はできるだけ見に来ていた。

イギリスにいるアイルランド人は、伝統的にエバートンと同じマージーサイドにあるリバプールのサポーターが圧倒的に多かったから、ジョンさんのエバートンというチョイスは、私にとっては不思議だった。エバートンはイギリス人で国教会派が多く、そういう人達が移民アイリッシュサポーターが多いリバプールに対抗しているものと思っていたから、移民アイリッシュのジョンさんが応援してるのが不思議だった。

デジーファレルのいとこは、シェイマス・コールマンというエバートンに14年間在籍しているアイルランド代表でもあるディフェンダーだった。シェイマスのお母さんがデジーのお母さんと姉妹ということで、実家が近いということもあって、コールマンを応援しているというつながりがわかって、私は「なるほど」となった。

今年の3月末、サッカーアイルランド代表は、ユーロ2024の進出をかけて予選とフランス代表と戦っていた。私は連れと近所のいつもは行かない小さくてあまり人のいないパブへ行って試合を見ていた。しばらくしてジョンさんがふらっと入ってきた。

ジョンさんが応援してるコールマンは先発メンバーに入っており、フランスいや世界のスーパースターでエースストライカーのムバッペのマンマークを任されており、35歳のコールマンが、20歳のムバッペをマークするのは休む間もなく、大変そうに見えた。足の速くないコールマンが、ベテランの読みでうまーくムバッペを封じており、アイルランド代表は1-0で負けはしたが、大方の予想を裏切って善戦していた。

試合後、コールマン頑張ってましたね、なんて話をしていた。その時、ぽつりとジョンさんが「最近首が痛くってね、モニターをみるの、結構つらいのよね」みたいなことを言っていた。「お友達に鍼やってる人いますので紹介しましょうか」などという話をして、その日はみんなでバスに乗って帰った。

それからしばらくして、私はジョンさんがパブで将軍様というあだ名のインドとアフリカのハーフの結構年の行ったおじさんと話しているのを見た。将軍様は元気で明るく、北の将軍様の形態模写が得意なので、私は勝手に彼のことを将軍様と呼んでいる。将軍様と何やらジョンさんが話し込んでいるのを見たのが、私がジョンさんを見た最後になった。

そのあとしばらくジョンさんを見ないね、なんて話をしていた時に、パブでノエルさんを見かけた。連れがノエルさんに声をかけ「最近ジョンさんどうしてる?」と声をかけたら、ノエルさんは「もう知ってるかと思っていたけど、実は、具合が悪くて入院している。ガンで、診断はあまりよくない。」とはっきり言った。

連れは何かを悟ったらしく、それ以上何も言わず、ノエルさんの肘あたりをトントンとたたいて、ノエルさんは「じゃ」っと言っていなくなった。

 ノエルさんとジョンさんたちと一緒に仕事を何回かこなしている水道屋に言わせると、たぶん半年はもう持たない、近所のかなり大きいNHSの総合病院にいるが、もうモルヒネ使っていて、ノエルが見舞いに行っても誰だかわからないくらい衰弱してるから、行っても意味ないとノエルに言われたと言っていた。

それからしばらくして、7月の頭に亡くなったという話を聞いた。彼の家族一同がロンドンにやってきて、後始末をしていた。娘が3人いたという話だが、私があったのは彼の娘の一番上と2番目だった。彼の娘は3人とも音楽家で、一人はアイルランドの有名なダンスカンパニーの伴走バイオリン奏者として雇われていて、もう一人はトラッド音楽の専門家で観光客向けのパブや劇場でこれもまたバイオリンをプレーしており、もう一人は音楽教師をしながら、スタジオミュージシャンをしているという。

娘さんは、お父さんとは毎日兄弟がかわるがわる連絡を取って家族の誰かしらが毎日お父さんと話をするようにしていた。ある時からパブへ顔を出すのがしんどいと言い出して、ちょっと心配していた。そして、急に首が痛いと言い出し、病院へ行ったら内臓にできたガンが背中に散らばり、リンパに乗って首まで転移して、ようやくガンに気が付いて入院したけどもう遅かった。家族で、最後に元気だったころはいつ頃かという話をしていて、xxさんがジョンがあなたとxxというパブで話をしていたのを見かけたと言っていたので、あなたを探していたんです、と娘さんたちは言った。

もしかしたらあなたが最後にお父さんがパブへ行ったときに話した人なのかもしれません、だから、あなたはお父さんと何を話したのか知りたいんです、と言われた。

私たちはものごころついたときからお父さんは出稼ぎしていて、会えたり会えなかったりで、最後のしんどい時も一緒にいてあげられなかったんです。だから、最後の方を知ってる人達を探して話を聞いているのです。

正直、もうこの辺から涙が止まらないというか、どうしたらいいのかもうわからない感じだった。だが、娘さんが泣いていないで冷静に話をしてるのにこちらが泣くわけにもいかない。なるべく感情を殺して「アイルランドとフランスのサッカーの試合を一緒に見てました」というしかない。そして、たぶんパブで最後に話したのは私ではなく将軍様だからそっちに話を聞きに行ったらどうかしら、と言った。連絡先はわからないけど、これからすぐにでも調べることはできますよ、と私は言った。娘さんたちは、たぶんこれから葬式の手配がつくまで1週間くらいはここにいますので、毎晩パブに通います、と言っていろいろありがとうございました、と丁寧にお礼を言っていなくなった。

 こんなことを言うのは何だけど、私はすぐにでも娘どもを追っ払いたかった。つらかった。大事な最愛の家族を割に突然に亡くして感情的になってもおかしくないのに、彼女たちはきれいにお化粧をし、そして、あくまでも相手に失礼のない態度で自分たちの父親のかけらを拾い集めるかのように思い出話を収集していた。誇り高く振舞う美しい娘さんたちを見るのもなんだかつらかった。成人して大人になっているのだが、娘さんたちは子供っぽい所作など見せずあくまで大人としてふるまっており、なんだかそれを見るのが私はつらくてしょうがなかった。私だったら、実の父親がそういうことになったら、ああやってふるまえるのか、全く自信がなかった。つらいな、と思った瞬間、ずっと隣に座っていた連れがパブのカウンターのバーテンに「ティッシュくれ」と涙声で頼み、鼻をかんでいた。

そのあと将軍様がパブにやってきて、ジョンさんが亡くなったことを知らされると、真っ先に私たちの方に来て「死んだなんて嘘だろ、冗談はやめてくれよだな」と言って、いなくなった。そしてまたしばらくして、「死んだって話は本当なのかい?」と言いに来て、またいなくなり、しばらくして踏ん切りがついたのか私たちのところにまた来て「亡くなったんだな」と言っていなくなった。目は真っ赤になっていた。

正直、頭は亡くなったと認識していてもまだまだ実感として受け止めきれてないし、やりきれなさばかりが残る。もっとお話ししたかったし、なんという生き方、存在の仕方みたいなのをもっと学びたかった。ただ、今となってはすべてから解放され、ゆっくり休んでくださいとしか言いようがない。

タバコを吸う人で、時々、いつものパブの隣にある、土日しか開いていない大きな教会のエントランスでたばこを吸っていた。平日だと教会は真っ暗で、たばこの火だけが赤く見えて、ジョンさんがたばこをすっているのが暗闇の中でなんとなく見える時があった。目があえば目礼するし、目が合わなくても、向こうから挨拶をしてくるときもあれば、私から「こんばんは」とあいさつするときもあった。未だに夜パブの帰りに教会の前を通る時に、たばこを吸っていないか、彼を探してしまう。








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