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ほとり
近いようで近くない、遠いようで遠くない、ちょっと近い他人。
ラー油をかけたご飯は美味しい。白いご飯を毎日食べる日本人は、なぜ白米アレルギーにならないんだろう。不思議だ。いつもながら食欲は芳しくないが、今日も活動するアラサーの身体に感謝。
人との距離感を間違える度に、正解を探す。近すぎた。遠すぎた。急すぎた。遅すぎた。早すぎた。
実家までの帰り道、乗り換えを間違える度、京浜東北線に乗る。
『次は、新杉田、新杉田』
UncleとかAuntとかCousinとか
語学の学習で最初の壁は『関係性』だ。
私、あなた、彼、彼女、彼ら。ここまでは余裕。
父、母、姉、弟、祖父、祖母。まだいける。
いとこ、目上の女性、甥、既婚の男性。もう無理だ。
主語を変えるという目的のために、自分にとって顔の浮かばない関係性の人間を想像してみる。
自分にとって相手がどんな距離感であって欲しいか。相手にとって自分がどんな距離感であって欲しいか。みんなそうやって誰かを想う。
俺はあなたにとってどんな位置にいたいんだろう。
友達、親友、仲間、知り合い、家族、ブラザー、ダチ、マブ。形容の仕方は様々だが、どうも見当たらない。
湖の、あの、周りの、そこらへん、歩ける範囲の
『ほとり』という言葉を、湖以外に使ったことがなかった。
なんだか優しくて、落ち着く感じがして、静かで、穏やかで。こんなにもいい言葉を、なぜ湖にしか使わないんだろう。
そうだ。自分もあなたにとって『ほとり』になりたい。
あなたにとって、優しくて、落ち着く感じがして、静かで、穏やかで。都会の生活に疲れた時に行きたくなる。森林浴と、散歩と、暇つぶしと、時折リスを見つけたりして、泳ぐこともなく歩く。歩かなくたっていい。ただ、そこにいる。『ほとり』にいる。
ほとりに明確な距離はない。だからこそきっとその距離を測るのは難しい。だけど定義しなくてもいい。『行けばそこらへんにいてくれる』その安心感が、俺が君をちゃんとほとれているのかということなんだろう。
座標に固定された目標地点
『いないいないばぁ』で赤ちゃんは笑う。一旦いなくなってしまった両親の顔がまた現れる安堵が、赤ちゃんを笑顔にさせる。
大人になっても、人はそうやって安心する。だからSNSを確認する。生存報告をする。便利な時代の『いないいないばぁ』が、この時代の安否確認手段として定着した。
どこに向かってい生きているのかわからなくなると、人は不安になる。目的地の座標に向かってコンパスを確認する。いつしかGPSを頼りに画面だけを見る。
たどり着いていない場所ばかりが地図上にピンを刺され、その足で歩いた1歩ずつは累計のキロメートルに変換されてしまう。
この現実から逃げる手段は、心臓を止める以外にもあっていいのではないかなとひたすらに思う。
瞼を閉じても、瞳は機能を失ったわけではなく瞼の裏を見続けている。夢を見ていても、たしかにこの世界で呼吸をし、時間が流れ続けている。それは、自分が認識したい時にだけすればいい。誰かに言われて、世界のすべてを知る義務を背負わなくてもいいんじゃないかと。
歩くことが目的になって、疲れた時には立ち止まることで安らいで、もうこれ以上先には進めないと諦めた湖のほとりに、安らげるログハウスを作るような。そんな進み方が出来たらいい。
最後に
あぁ、誰かにとっての『ほとり』になりたい。
静かな湖の周りの、年に一度、疲れた時に訪れたくなる。
相手にとってのほとりが定義されていなくても、なんとなく『安心するここらへん』を与えてあげられるような人間になりたい。
一瞬先のことさえも明確に決まらない人生の中で、確かな現実に存在する非現実の安心を与えられる居場所でありたいと願う。
関わるすべての人にとって、俺との距離が「ほとり」であるといい。
そんな言葉はなくても、今日もどこかの誰かを、ちゃんとほとれていますように。