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『愛ゎ時空を恋え』 第五話 by 悟行(サトピーって読んでネ)



#創作大賞2023

(第二章 続き)

                  4

まず、上には上がいる❗️って話を添えてから始めるか。そのほうがマジお気ラク⁉️

 というのは、有効な年限・期限というものが絡んでてね。
 教養2+専門4の6年制の大学・学部なら、枠としてはまず、教養をmax4年で区切られる。自分の場合あと半年残っていたが、半年で全単位習得はカリキュラム上無理だった。じゃ、辞めんのかというと。上に、程良い見本がいらっしゃいました。。教養4年で‘アウト!’ し、その直前に出戻り受け直しの手続きを山張ってあって新たに新入生として連続在籍しつつ今8年目だとさ。なるほど、じゃあ僕も単位獲りながら受け直して新たに4年枠取ることに。。

 実際には、復学・再受験再入学含めて1年足らずで、教養修得できた。ので、専門の4月まで、丸々休暇ができてしまった。しかしながら、待望新設の文芸学科に通うため、週一で東京から日帰りでセンダードの講義を受けに来ていた。ーーしかも受け直しの時、ある科目で満点全国1をマーク❗️且つ中学時代‘狂武(キョータケ)’に、
 『そんなのわかるだろう』
とか全く無視されてた当時の不得意現国だったので、
 “ドヤ感”
有り。ですが僕は、決して1番と早トチリせず、1位が50 人いれば実力は48 番くらいと思う。もっとできる人が、同じ百点で停止してるだけだ、とネ。高校文系クラスの名残りか、英・国300点中292点獲れた話を種に、丁寧に化学や数学を教えに女子高生宅に、センダード日帰りの日の帰り寄り道して、国立医歯大生とあってかなり高額なバイトになり、1日の収支は明らかにプラスだった。
 たった週末だけの東京のバイト代1ヵ月分が、何しろ大卒の初任給よか高かったし。

 でです。新1年生に繰り入った時の僕は、30 代でしたが、知り合った同級生たちが、親睦促進とてみんなのあだ名を付けようと、1人1人に名付けていって、いざ僕の段で、ある男が、

 『アン(兄)ちゃん』

て言った。
 言霊(コトダマ)の法則ーー要は、この人は自分が30 になった時のイメージが

 ‘アンちゃん’

なんだ。けっして、’おとうさん‘ではないのだ。逆に、言霊の法則の証明として、小声で“ゴロータイ”と言った姉ちゃんがいた。その姉ちゃん、確かに学生証には19 ってあるけど、どう見てもいわゆる川端康成が一言で片付ける“四十女”
まさしくコトダマ、恐るべし❗️誰1人、その小声には反応せず、結局僕のニックはアンちゃん❗️に。

 この名付け親こそが、戸永君だった。
 彼は、都内の中高一貫の名門の1つに主席で入学している。しかも、ガッツイ。というのも、僕の友人は概して端正なカンジが多かった中では、かなり特異というか異色の存在だったことになる。

 確か、羽柴教授君は数番違いで彼と同じ進学校入学❓
 ーー講義が終わると、別教室の講義でもいつもサッと来る戸永君は、

「ナガハマさん、どこかでおいしいコーヒー飲んできませんか。」

と。
 同じ🎾テニス部だった。部活までの2時間くらいを、ウチラいつもセンダードを歩き回った。・・1番近くでは、教養部脇の

   ‘県立美術館’

カフェ・コーナーがあった。名画を見たあとのスペースという設定なので、ここでは一際、午後の時間が豊かに感じられたのが良かった。しかし大抵は、青葉城の二の丸を右方に仰ぎながら、緑滴る坂道を街に向かって歩いていった。・・途中、広い川に架かる橋を渡ることになるのだけれど、ここで僕は思い出す。
 紺のフードをそそそと被って彼が口にした言葉。

 「ナガハマ兄(アン)ちゃんさァ、’山沿いでは・平地では’って言う天気の境ってどこなんですかねぇ❓❓」

 これは、
“山沿いは少し雪がチラつく❄️ことがあるかもしれませんが平野部では概ね晴れるでしょう”
という、関東人つか南関東のウチラには、
‘❓’
感のある予報についての共通の疑問なのだが。

 「この辺のことかもなあ。。」

と僕は、山から吹いてくる雪に手をかざすようにして答えた。ーー傘なんて要らない。いつもそうだった。山から川に向かって、雪はサラサラ❄️雪虫のようになだらかに追いかけてきた。そして冬ならいつものことだけど、雪虫のような白い
 ‘ハラハラ’
は、ウチラが橋を渡る途中まで付いてきてはそのまま、広い川へ舞い降りてしまう。
 渡り終えて晴れ側の街に着くと、彼が爽やかにフードを取ったこの広い川は、関東人には不思議でキッチリした予報の境界線になった。

 そのまま真っ直ぐ行った通りには、ホテルのティータイムのケーキがあった。会計はいつも、どちらかがサッと万札を出すというカンジで、ウチラいわゆる学生割り勘て只の1度もしたことなかった。
 勿論ファストフードに寄った日もあったし、名曲喫茶へも行った。ピアノ練習室に付き合ったことさえ。。そもそも、テニス部入部のキッカケとは、

 それは新たに、10年ぶりに‘新歓コンパ’に出た時❗️
 
 当然、自己紹介あって、趣味はみんな言う。テニス部の長老(早い話が6年生)の酒田先輩が、趣味ピアノの人をチェックしていて、さっそく寄ってきた、で、

 『ウチラ半分、いまピアノ同好会みたいな🎾テニス部なってるから』

と言うものだから。。ホントに全員がピアノを嗜(たしな)み、その上でテニスを⛷スキーを時に⛳️ゴルフも、というクラブだった。後々リンジツ(臨床実習)で聴診器の使用法を教えてくださることになる”I”先輩は、

「オレ高3まで、受験あってもちゃんと最後までピアノ習ってた。」

って、とてもオチャメでカッコいい兄ちゃんだし、◯子先輩もソナタの話を一生懸命語ってくださるし、ココって何か“皇室ニュース”じみてませんか❓
 部活に僕を誘った酒田先輩は、膨れた🧳バッグを持って部活に寄る日の僕を見た時には、

「きょう、東京帰る日❓」

て訊いては、センダードの駅まで送ってくださるのです!

 午後の授業がない日は、部活までは4、5時間あるので、ランチに2パターンがあった。
 
 ① 官立の大学にはどこでも1つある特別な🍽レストランで食べる。いわゆる‘学食’とは違くて大旨海外からの来訪者の接待などを念頭に造ってあり、当然ウェイトレスがいるので、入ったら‘偉そうに’座れば良い。つまり、そこそこのイタリアンレストランと同じ待遇と考えればいいんじゃ。
 ② これは、この大学のしかも、ここのキャンパスならではかもしれない。教養部に隣接して文学部がある。そこの‘文食’の入口にはお弁当売場がある。そこで目を引く

  “ピクニックランチ”❗️

というネーミングの、そうだなぁケンタとコンビニサンドが合の子ってカンジ⁉️もしそれを買って外に出ると、

  ‘ブンショク‘(文学部食堂)

の脇には、’文食‘窓ガラスギリまで青葉山からの植物が生い茂って押し寄せているそもそもの源、植物園(←理・薬学部附属)へ行く。入口には、

 “学生証提示・無料/一般¥・・”

とあって、まるで野外劇場でもあるかのようにチケット売場には事務のお姉ちゃんが常駐している。
 ので、ココ学内だよねぇ❓と辺りを見れば、大抵午後には観光バスが数台止まっている。ーーこの大学は名所なのだ❗️この理・薬付属植物園、入るや間近に右方の高い茂みからチョロチョロ泉が湧き出て目の前は清澄な、幅1メートルくらいの小川になっている。それを越えると一帯が青葉山植物園で、緑滴る植物の中を登って一周すると1時間以上かかる。一度、体育実技で一コマ使って登らされたので、それはやめといて、小川の脇のベンチで爽やかランチを堪能するのがbetter❣️小鳥の囀(さえず)りが心地よくて良くて。。しかし体育の時のてっぺん俯瞰は忘れられない。おっとみんなクタクタで青芝の上にゴロンとしてから眺め入ったんだけどね。なんすったって、

  杜がある。

 森の中に
 キャンパスがある。
 
 キャンパスの中を
 川が2つも流れ
 橋があり
 街がある。

 街には
 緑が溢れていて
 その緑の中に
 僕は住む。。

というカンジなのです。
 実際ここのキャンパス内だけでも、🚏バス停が7つもあるのには驚かされたワ。日本で5番目に広大な大学だそうだ。ーー1番は北大だかN 大で、北大はピンとくるけど、N 大の方はカネにものいわせて土地を買い漁ってるそうだから、広さを実感できないのでは❓それに比べると、杜の帝国大学は学長が実利主義なのでキャンパス内に株式会社(半導体研究所)があったりする🤭くらいだし植物園もちゃんと運営し土地を使いきってる、と思えた。

 ②の場合でも、②ランチ終えたら、いつも通り少しは街へ降りてゲーセン行ったりする。
 そのゲーセンで。
 戸永君が、バカ揺れするゲームボックスに‘乗車?‘してノッテる時、僕は子どもの頃浅草松屋デパート🏬の屋上でゲームをやったことを思い出していた。脇で父が見守っていたことを思い出した僕は、戸永君に、

 「いやぁなんか我が子に見えたよォ。」

と言うと彼、殊の外ウケたらしく、汗が滲み出るほど笑い出して、

「うん、いるいる、アンちゃんくらいの歳で、もう結構大きい子いる人❗️」

って笑い転げる勢いで痛く喜んだ。
 
 ゲーセン飽き終えても時間がある時は、街中の地下鉄の駅から程近い’アグリ’へ行く。こんな地下鉄のすぐ傍に、かくも羊🐏🐑がいるものか⁉️と誰しも驚き感動すること間違いなし❗️アグリ(農学部)キャンパスの広くて青〜〜〜い草地を、🌤太陽の移動に従って羊たちが木陰から木陰へと首の鐘🔔をカラカラカラカラ鳴らして大移動する光景は圧巻だ、しかも毎日‼️羊飼いも先導の犬も🐕🐩要らない。実に大人しく自主的に群れをなして移動を繰り返す、羊のように大人しい羊たち。。なんて長閑かな風景なんだろう❣️咲いてる花々も綺麗だし。

 🌻💐🥀花で思い出した❗️
 戸永君が、部内に名を轟かせたのは、🌸花見だったんだ。ーーかなり飲んでフラッと立ち上がるのを見たウチラは、戸永のあとを付けた。勿論、見守りだ。
 とどうだ。公衆〇〇で危うくベンツに倒れ掛かるではないか❗️機転を効かした僕が、すぐさま自分のGパンのベルトを外して、戸永のベルトに突っ掛けた。それで後ろからベルトを、中林と僕で引っ張って戸永を支えたのだ。ホンなら‘座る’方へ入りゃって当り前だけどホレ、“勢い”ってもんがあるだろっ!タイミング的にもうそれはムリっつもん。といって抱きつき抱えちゃみっともねぇかもだし。だから、ここはやはり、ベターな選択だったと思ったが、気づくと後方にドッサリ⁉️女子大生の束。。‘ギャラリー’だよ。
 いや勿論、花見で公園の男子トイレを覗く娘なんてフツーいない。つかたまたま目に入っても、すぐ反(そむ)けるよね。がヤッパリ、ウチラの騒ぎ、まぁ相当‘ナニやってんだろう⁉️’感あったっちゅうかさ🤭。でようやく合点した娘は、‘クスクスの娘’と‘ええ゛っ⁉️の娘’になり。女子トイレにも列あるわけで人の波近し❗️なんでギャラリー7、8人になっちゃってさ。そのギャラリーを見て更に物見遊山に釣られて来た娘の、

 「ヤダァ‼️」

とか赤ら様に聞こえてきた。で、
 いよいよ戸永を抱えて戻るウチラを見つめる女子大生は、割りかしウェルカムだった。‘お疲れ様!’かね❓❓しかし、女子大生と見つめ合って終わりではなかった。ウチラのブルーシートまであと一歩というところで、戸永のヤツ突然屈み込むや大量にゲロリやがった❗️幸い、隣席の呉座とウチラシートの間の土の部分だったけど。ーーこれで、ゲロのトナガのニックネームは、

 “ゲロ・トナガ 若くは ゲロナガ”

と名付けられる羽目になった。で、みんなめんどっチーときは、単に、

 “ゲロ”

で通じていた。誠にもって、
  
   🌸桜の満開の木の下、

での珍事だった。
 
 そこは桜の名所公園、脇は広い川。真上てっぺんには荒城の月。照らされてうっすら白く透けて見える桜の花びらはホントにキレイこの上ないのだけど、春コーローの‘鼻’の

 クッション❗️

センダードの夜桜は超冷えっウチラ声が震えきってた。ーー
『ボー移動しばひょーよ‼️』
と。
 上野や千鳥ヶ淵とは気温大違い。サッサと暖かい居酒屋へ2次会。。。

 そこでは、途轍もなくバカな話と共に音楽♪や🎾テニスの話題で盛り上がった。で、あの素晴らしい音楽教室の方は、3年次の解剖学が始まると残念ながら2年間中断してしまった。練習も土曜日しかできず。日曜は次週の学習の下調べを友人宅でやったりして潰れてしまったし。ーー5年次で数ヶ月再開したと思ったら、6年次は臨実で忙しかった。
 なんと臨実終えて病院出たのが夜中の1時という日もあったニャ。ピアノでは、センダードが最後の先生になり、以後20年先生にはついていない。

 そして大学生活最後のアクシデント。忘れもしない思い出がある。
 もう残すとこ1年という頃、僕は突然倒れた。救急搬送された2日間亜空間を彷徨(さまよ)っていた。幸い講義は終了して試験も終わった日なので、誰にも見られずに済んだ。これは、非常にラッキーだった。僕の性格からして、のことだけど。
 さて目が覚めて、翌日退院して試験の結果を見に行くと、12教科のうち2コが追試になっていた。がデス、よ〜く見ると👀、なんと1コ目はその日の午後❗️ってもう始まる‼️え゛っつか、この掲示、2日前の発表じゃん!
 仕方なく、なんの準備もなく、ペンくらいは持ってたから、慌ててパンかじって試験室へ行き、アウト❗️

 の結果を、数日後正式に学生課で確認した時、事務のお姉さんが一言。ーー

『何か困ったコトがあったら〇〇教授のところへ行くといいですよ。』

と。。流石、大鍋が飛び出たくらいのトコだから、万(よろず)相談も承る、ですか⁉️
 
 僕自身の祈祷力やイメージ療法で、半年後には病気の痕跡すら無くなってしまった。しかし、やはり養生中心の暮らしだったので当然、バイトも出来ず、じき再びくる最終学年を乗り切るにあたり、ココは腹を括(くく)って安汚の学寮に入った。何しろ、1ヶ月分がホテルの1泊分+α くらい。
 ここでオフレコ2つ・・①: デッカい音で映画見たくなった時や寮の行事とかの日はホテルに避難。②: 女の子の家に週1、2日は投宿。
 でなんとか、世界に恥ずべき国大寮生活を凌いだ。

 さて新学期が始まって間もなく、掲示板の前に人集りが。。
 僕が、後ろを通ると、それ知ってか小声が聴こえた。

 “あら、ヒロピーさんが通ってる!”

と、コチラをややチラ見🫣🫣🫣の声。

  ‘何故⁉️’

というカンジ。。もう掲示にある内容は知ってたので通過したけど。

 “◯月◯日付掲示・・

  左記の者、今年度の学費を
  全額免除とする、
  6年次 ◯◯◯◯
   同  △△△△    
         以上、2名 ”

 要は、修業年限を越えての在籍者に対しては、原則適用されない制度なのだ。
 だから、落ち着いて考えれば、災害罹災か病の2つの特別な例外が思い浮かぶはずなのだが、どうも同級生は、あんなサボってた人が⁉️あんなに遊んでた人が感、しかなかったようだ。・・この日を境に、僕に対する偏見が始まった。仲の良かった‘ゲロ’戸永はもう博士課程に行ってしまってたし。。
 災害がなかった以上、消去法でわかったのだろう、1人だけ声をかけてきた。ーー

 “大丈夫ですか❓”

って。僕は、何の話かピンときたので、

「あ、きのうはちょっと飲みに行きました」

とフェイントをかけたら、その人、

「そないことしてもう大丈夫なんですかァ❓❓」

と。京(みやこ)の人だった。

 学生課で言われた通り、僕は王谷教授のところに相談に行っていたのだ。
 実はそこで知ったのだが、教授は僕の異変のことを知っていた。というのも、王谷教授こそ僕の細胞を見る部所の責任者だったから。。だから話も省けたし、ある意味‘ツイテた’なのだけど、それよりも僕が最も驚いたのは、先生が白衣のポケットから出した‘モノ’だった。
 それは、漢方薬も含む薬名の一覧表だった。なんと10種類もの薬剤名が書かれてあって、

「僕はこんなに飲んでるんだよ、ーーいいなぁぁ、治っちゃって⁉️」

と、ボソッと告白した。僕は、一瞬涙ぐみそうになった。・・何故って、この先生はとてもコワイ先生ということになってた。それが、こんな苦労してたなんて絶句だった。況してや、弱音なんて絶対言わない人なのに❗️
 追試も大量に受けさせてたし。でもあれは、ひとりひとりを研究室に呼んでさんざん諭した上、最終的には合格の印を押すという、思い返せば親切な教授なのだ。
 だから、何かあるのかなあー😮‍💨とは考えたこともあったけど、こうした状況で、教授と僕は、誰にも言ったことのない超オフレコ情報を互いに共有することになったのだ。で、教授が書いてくださった学費免除申請書への添付文が功を奏し、僕はあの白い目を浴びる日々がスタートしたわけだ。
 
 ある日などは、僕の診療報告書類のちょっとしたスペルだか漢字の書き違いを見つけた同級の1人が、若い女の先生と吊るんで僕を呼び止め、

「これ、違ってますよっ❗️」

 と、2人して大声で騒ぎ立てた。もはや、ミススペルの指摘でないことは明白だった。ここで僕は、

“あなた方は何か含むところでもおありですか❓”

と言うべきなのかもしれないが、辛うじて虐待に甘んじた。だって、話の方向によっては王谷先生のprivacyが知れることになりかねない。あんな優しい先生を巻き込むわけにはいかなかった。

 で、この先生、他の場面でも関わった。カルテ整理がスッゴ遅れて、夜中の1時に病棟実習室を出たことがあった。それも寒〜い真冬日❗️男のもう1人の先生は、僕が謝ると、

「いいよいいよ、気をつけてお帰り❗️」

って、ムリして❓言ってくれたけど、その若い女の先生は、
 「2度とゴメンだ‼️」
とまでハッキリ言ってのけた。ーー確かに、当番だった2人の指導医には迷惑かけちゃったわけだけど、ここまで言われた僕は、

「ご迷惑おかけしました、お疲れ様でした」

と、フツーに言ったものの、卒業の日には、証書を受け取るや、謝恩会場とは反対の方向へサッサと帰ることになった。“2度と”は1度きりでいい。

 サッサと寮室の持ち物を全部業者に引き取ってもらったら、なんとキッチリ帰りの旅費分になったのには、マジ驚いた❗️
 しかしですよ、明け方到着した東京駅は、モンのすごく離れた降車場で、尚且つこれでもか❗️というほどのドッシャブリだった。地獄の池か一面針の山の如き水柱が立ちはだかり。。全く深夜バスってものは最初で最後になったよ。でもそれで良かった、ナニ最近事故の多さ。。ああぁ、それにしても強烈な春の嵐‼️しかもマジ眠い💤・・あの懐かしき、🎾テニス部🌸花見頃の、大学出戻りノーテンキ時代とは裏腹、少し後味ワロシ❗️考えてみりゃ、バブルの絶頂から湾岸での熟考を経、アメ車を売っぱらって清く美しく復学を果たし、全て完了したんだから雨の降りなんてど〜〜でもいいじゃん。ま、人生こんなもんだみの⁉️
   
      5

 さてさてと。。
 緑豊かでキャンパスはいいなあと‘長年’思っていたけど、この年度だけは、

“あんま長くいるもんじゃネーナ”

って実感したネ。
 しかし、そんな年度でも、細やかな心温まる出来事も稀にはあった。それはナースの1人が、いつもタイを褒めてくれたから。何しろ白衣なので、胸の三角地帯の隙間だけがオシャレスペース。そこをちゃんと見てくれる人って少ないのだよ。
 しかも、その幾つかは、あの服美子が見立ててくれたものだから、実際ポンギン時代の彼女のセンスは今も生きていることになり。。で考えてみたら、そのナースさんて多分、今の服美子とそんな変わんないお年頃じゃ❓と思った。。元気にしてるかなァ❓❓あ、いや両方だよ、いまの今となっては。
 あのナースさん、妙にヒップがプリプリしていた。きっとテニスとかバトミントン🏸🎾とかのスポーツ少女だったに違いない。や、そんな話出なかった、つかする余裕もなかったけど、ナースの時も続けてたのかもしれない。

 もう1つ、心温まるストーリーと言って良いのか、卒試に纏わる思い出がある。
 ウチラ大学の卒業試験は、

 “卒業諮問”

といって、教授陣5⁑学生5名の対面形式で行われ、伝統的にネクタイ着用が義務付けられている。忘れたら

   入室禁止、即ち‘失格’

になる。
 
 ある診療科目の患者さん絡みの質問になり、僕の答える番だった。幾つかの問に順調に回答しつつ、ある所で突然つっかえた。早い話、

 ”ド!” 忘れた

わけだが。。5対5の教室に沈黙が漂う。その時だった。診療実習の時によく組む相棒が口を挟んだのは。ーーあの時はこうだった、という答えを、まァ言ってしまったわけだ。彼は、出席番号、次の回答者だったので、試験というか諮問中、余計なことを言うなと言われるかもしれないし、通常の試験なら2人とも失格になる場面かもしれない⁉️
 しかしここで、質問者の女医さんはニッコリした。なぜだと思う❓これこそが、試験と‘諮問’の微妙な差というか。。

 理由は簡単だ。5:5の間に、今日はいらっしゃらないけど、当然患者さんが横たわっているのだ。術中、もし僕がわからなくなって手が止まったらどうなるか❓他の4人が、執刀医が僕の番の日だからって知らん顔したらどうなるか❓相棒が、失格を恐れず口を挟むのは断じて僕のためだけではない❗️何よりも、患者さんの身になってのことだ。誰にも助けてもらえないような学生を卒業させる訳にはいかない。‘チームワーク’・・これで患者さんは救われる。
 勿論、女医さんの科目はパスできたけど、米国の学会にほぼ日帰りする、このスーパー姉御Dr. 、

「国試の時までに今日のところ、ちゃんとやっときなさいよ❣️」

と、教室を出る時に、優しく諭してきた。そんなこともありまぢたよ。。

 病棟実習の時のその相棒は、とてもおおらかな人だった。
 一緒に出さなきゃいけないレポートがあった時のこと。僕が、観測数値が汚くないかって言ったら、彼は、

『自分は、変えて提出するのはあんまり好きじゃないなぁ』

と、ボソッ。そんなのダメ🙅だとは言わずに、僕が自ら気づくのをじっと待つようだった。よく考えれば、かれの言う通りなのだ。
 だってコレは、たとえ誤差の範囲であろうと、患者さんの数値なのだ。おかしくても、そのまま提出することにした。きっと今、広島の大学病院でマジメに且つ大らかに診療されていることだろう。一部の白い目とは別に、僕は肝心の相棒には、どうやら恵まれていたらしい。そんな時ーー

      6

 そーいやトナガ、‘ゲロ’は未だセンダードに残っていたんだ。
 僕が杜の都を去った時、彼は大学院のまだまだ先の長い、Dr.ドクターコースの2年目になるところだったから。あぁ、居処まで離れちゃ益々疎遠になるなぁ。。

 ‘ゲロ‘と一度、青葉山のてっぺんにある、新築間もない学長の金ピカ校舎へ行ったことがある。砂漠の🏜中に忽然と出現したラスベガスのホテルほどじゃないけど、濃い青葉の森の頂上に、忽然と拓けた学内道路からファサードを見ると、学長の‘棲む’その建物は、天に向かってホント金ピカだった。
 
 金ピカの校舎を見つつ、

 「ココ絶対ノーベル賞獲る❗️」

って、ゲロは力説した。いうまでもなく、田中さんや西澤学長の研究室のことを指して言った訳だけど。ゲロは更に続けて、こうも言った。

「あの人は(西澤学長のこと)、世界で唯一、‘役にたつ’研究をした人だ。」
と。そして延々と、その根拠を並べ立てるのだが、その知見たるやハンパなし❗️‘ゲロ’こそは、僕に、この大学の真価を教えてくれた大恩人だろう。

  勿論入るからには、僕とてある程度良い大学だとは思っていた。‘良い’の種類はゲロのテーマとはズレるけど、王谷教授の件は‘当り’だった。というのは、こんな大きな大学なのにあんな細やかな手厚い福利厚生の充実❗️下調べや問合せ段階の対応での直感は正しく、しかも最後6年次で最大のメリットが発揮されることになったのだから、家から通えるという安易な理由でウッカリ選んでいたら、あと一歩というところでコケたかもしれない。大学選びは、よくよく慎重を期すべし❗️先々何が起こるかわからない長丁場の学部へ行く人は、特にネ‼️

 金ピカビルを見た後、ゲロと僕は、青葉山の頂上に広がるキャンパス内を周遊しつつ、青葉城址と街中を結んでいるバスに🚌乗った。それは、ある眺望を得るためには‘高さ’が必要だったからだ。
 金ピカビルのある工学部から、理・薬・・とバス停は、学内に7つもあるのだけれど、山のテッペンから下り始めると

  ‘ヘアピンカーブ’

があり且つそれがかなりの坂なのだ。後部座席の左側に陣取って更に🥵顔を、それこそ潜望鏡に突然張り付いてきたタコのように、窓に押しつけて真下を見る。すると・・そのまま青葉の中に散ってくかのような奈落の底に、カラフルな12面ものテニスコート🎾が一瞬見える。うおぉぉぉっ⁉️ 緑やブルーに塗られたハードコートは見るも壮観だ。しかし急カーブ且つ急勾配で振り落とされそうに体中揺さぶられ、‘ヘアピンカーブ’は2つ目に差し掛かる。と、今度は谷底へ飛沫をあげて落ちていく滝川がクリスタルの輝き、一瞬🌈レインボー。うわっと思うともう直線に戻り、すぐに右側に学長の会社の看板

  ‘株式会社・半導体研究所’

が見えてくる。バス停‘半導体研究所前’も何も勿論、ここら辺全て大学内だ。

 ウチラ、そこで降りて、キャンパスを突っ切って部活のあるメディキャンパスまで15分程歩いて行くことに。
 と、そこでです。学内道路で反対側を、ウチラ隣のクラスの川口果林という娘が歩いてきた。ウチラは直ぐ気づいた。向こうも気づいたカンジしたけど、気付かぬフリを通してる。だと、知ってても挨拶しにくい雰囲気。。
 とどうだ⁉️学内道路の歩道には🌲樹木が続いているのだが、フツーは樹木のこちら側の広めの部分を歩く。ところが彼女、驚いたことに樹木と塀の間の、ひと1人通れるかどうか(実際そこ歩く人見たことない)という、おそらくクモの巣とか有りそうな隙間をムリして?歩き出した❗️同じ側の歩道を歩いてきたのならまだしも、他にだれもいない向い側だ。・・やな相手なら知らぬ振りのまま通過してくれたら、以後避けるだけの話だが、ここまでする人いるかね❓ってことになった。記憶に残り過ぎる。それ目的なんだろうか。
 まァカンジ悪いんだけど、こーゆー時でも、ゲロは公正な意見を述べるのだ。ーー“向こうも相当カンジ悪く思ってるってことだよなっ。ウチラが只、フツーに歩いてるだけでさ。”
って。
 ‘ソレってメッチャ嫌ってるってこと❓❓’ーー
“まぁそーゆーことでもあるしね”
ってネ。。

 ゲロの冷静といえば、幾つか‘ゲロ語録’があるほどだ。

 “誰しも、その人の頂点は決まっている”
 “40になったら、それまでにあったことを逐一書けば、誰でも芥川賞・直木
  賞は貰える”
 “まもなくあの金ピカ学科からノーベル賞受賞者が出る”

 人は誰でも頂点が決まってる、というのは少し冷たく思えたが。2つ目の賞については、
 『40んなったら電話して聞くぞ❗️もし獲ってなきゃ‘いつ獲るんだ⁉️’って』
と言うとゲロのヤツ、笑って、
「いいっすねぇ。。」
と受けて立った感有り。
 3つ目のノーベル賞に関しては、散々噂されてた学長(西澤潤一氏)ではなかったけど、田中耕一さんが獲った。つまり当ってた❗️
 ゲロが言ってから11年目のことだった。予言者なのか❓❓いやいや、事実を正しく評価しているだけ、だとさ。彼は、常に冷静なのだ。がそれは、考え方であって、🤭実はゲロ、喧嘩っ早い❗️
 いつだったか、ホテル🏨で🎾テニス部のレセプションがあった時。。突然ドンチャン始まって、止めに先輩が入るや、

“分かりましたよ”

という、丁寧な大声が聞こえたきたことがあって。どんな時でも、ゲロは言葉が豹変しない。これは、根っからの育ちの良さのようで、どうにもならないらしく、なんともおかしい。だったら最初から騒ぎ起こすなよ、だよね。6年次の時、僕が何かの当番だった日、同級生が、
「これやれぇ‼️」
って言ってきた奴いたけど、僕にいつも敬語使いのゲロが聞いたら、いったいどう思うだろうか❓天と地の差だ。いや、ゲロのことだ、案外冷静に理由を考えて説明してくれるかもしれぬヮ。
 
 ゲロは、結婚も急いでいたらしくて1年次の時には、既にプロポーズしてた。お相手は、関西のお嬢様で、その頃は東京のお嬢さん大学に在籍中で。一度、夏休み中その2人が丁度、紀伊國屋ウラad hocビルの坂を仲睦まじく歩いてる場面に出会したことがあった。
 ‘トモミちゃん’とかいって、その娘を見た人は皆、右から左へ通過してくる通りに目ン玉が首ごと、チャップリンの映画みたいに動くって。で僕も、彼女とゲロをそのように目線追ってしまった。。理由は簡単だ。なるほど聞いてはいたが、Fカップ並みだった。
 こっちも連れがいて、その日はお互い、

“あっ🤭”

て、なんとなく通過してしまったのだけどネ。

 結婚を急ぐ理由の1つは、祖父の大病院の後継者が、彼だからだ。父親が継いでいれば、ゆっくりで良いが、生憎父親は他分野での権威だった。その関係で、ゲロは、IT関連のレセプションなどで父親と一緒に、大抵のCMギャルと知り合っている。
 だから、僕も妹がレコ大で踊っているとかいう話を、違和感なく気楽に話せる相手でもあったし。
 何かを尋ねるときも、ゲロはいつも敬語だった。

「アンちゃんの妹さん、今週のトップ10はお出んなんですかァ❓」

というカンジで。
 深夜番組もチェックしてくれてたようだ。実生活でも、東京に帰ってる時は、芸能通の彼とだけは、僕も安心して‘その手の話’ができた。・・誰々の‘出待ち’の時の会話のこととか、そーゆー話がフツーにできる相手は、杜の都ではゲロしかいなかった。

 ゲローー彼がプロポーズしている、あの巨大バストのお嬢さまのお返事は、今のところ保留にしておいて欲しい、よく考えさせてください、と言われているそうだ。なんか笑える❓❓

 ‘笑える’で思い出した。解剖のときだった。顎から上腕・橈骨(とうこつ)にかけての日だった。僕が、

“正中神経と言えば中森明菜。/顎関節といえば森高・浅香唯❗️”

って言ったら、ゲロすかさず、

「さすがアイドル系と言えば兄(アン)ちゃんだネッ‼️」

と受けてくれたっけなぁ。
  
 東京に帰るとゲロは、彼女の家に帰るのだが、関西の彼女の父親からの電話に、フツーに出るそうだ。そこら辺は、お育ちかもしれぬが、先方から否定的なことを言われることはないそうだ。ーーこれって、実はけっこう重要な点だと、僕は思った。
 何故かというと、僕には苦い思い出があった。それより遡ること数年か。
 あのキャスが、国際電話(←この表現自体いまでは笑える❓けど)をしていた時、部屋の雰囲気を察知したらしい先方から注文が出たらしくて、キャスが、
ウッと俯いてボソッと、

「ネ、ごめん、パパが代わるように言ってるんだけど。」

と。ーーなるほど。今更居ないともイカず、受話器を手にすると。。ほとんどいきなり、挨拶もそこそこに、

『医者はしあわせになれない❗️』

と言ってのけた。全否定。なんなんだか。つか、そもそも僕はその時学業中断中だったし。いずれにしろ、今後も引っくるめて全人格を否定されたわけ。
 ならここで僕は、

『じゃあ、あんたの職は必ずしあわせになるのか❓』

と当然言う権利があったわけだが、僕は言わなかった。人の良い僕は、こんな理不尽な初会話に甘んじてしまった。ーー
 この時、僕は思った。そー言えば、キャスって、

“わたし、素性のわからない人とは付き合えない”

って言ったことがある。けど、そもそもフツーみんな直感的にそーゆーのはクリアしていて、わざわざ口にする人は僕の周りでは、キャスが初めてでギョッとした。その言霊の威力だろうか❓僕は、友人から、付き合ってる女の子に関する‘生まれて初めての質問’ーー『あの人どーゆースジョーなの❓』って訊かれた。

 コレは多分に、そもそもが僕に対して失礼至極なQじゃん⁉️なので、以後そいつとは当然疎遠になったわけだけど。。ですが、やはりですよ、そんなこと彼に言わせるような‘モノ’を感じさせたのは、キャスなのだ。この、生まれて初めての2つの会話、実におかしくなくなくない⁉️

 何しろ、あのチャイナタウンの女を彷彿とさせる、妖しくプアゾン香る厦門の女・服美子の時でさえ、誰1人としてそんな質問はしてこなかった。だから、初めに言い出したキャスのスジョーがどうのというのは、そもそもキャス自身の自分のコトダマ⁉️

 人格全否定❗️
 このような扱いを受けること。人は一生に一度もないかもしれない。僕は、2度あった。あとの一回は、学生時代のバイトの時だ。営業のバイトをした時。そこの営業部長は、こう言った。

 「相手の言うことは、呉々もよく聞くように。相手のやってきたことの全否定というのは厳しいからねぇ。」

と。うんなるほどと思い、納得顔をした僕の方を向いて、その方は、こう続けた。

「オレは、医者なんか何とも思ってないからねっ❗️」

だっと。どーゆー意味⁉️
 ここで僕は、もし機転を効かせれば、こう言ってもよかった。

『なるほど全否定がいかにキツいものかということは、只今身をもって経験いたしました❗️』

とネ。或いは、『営業マンなんて何とも思わぬヮ』
と言う権利すらあったわけなんだ。が、ここでも僕は甘んじて、すぐ辞めた。
 で、よそに移って営業のバイトで、僕は全国1位の賞金ゲット。ところが、辞めるころ気付いたのだけど、東京や横浜の正式な支店名を見て、

 “あ゛っ”

と思った。
 10年以上も忘れてた。そこは、キャスが数ヶ月バイトしたことあるトコだった。

 “イライラして難しいのよ!”

って、聞いていたけど。
 僕は思う。確かに、簡単ではない。でも、結果はオーライ!ーーどうも、キャスの言うことは、すべてに亘って、

 ”ホントはどうなの❓感”

が付き纏う。やはり、

“2階からどうやって(ドロボーが)持ってくの⁉️来るわけない‼️“

って言うだけのこたぁあるワ。

 その前の営業の話に戻るけど、僕は、半生に2度も、全否定に甘んじたのだった。いわゆる、言い返さなかった。
 しかし、これって4次元的には得点になるらしい。いはば‘持ち点’。生きてるうちに、特に先方が生きてるうちに言ってもいい訳だが、遂に言ってない。

  ちょっと人が良すぎ❓❓

 確かにそうかもしれぬヮ。けど、僕が言わなかった分は🪃ブーメランのようになるらしい。が、いやいやソレ知ってどうする⁉️・・忘れることだ。関わってもしょーもない。

 そーいやキャスは”よそ見”の名人だったな。大きな意味のあるの2つ。

① : 市川崑監督に言われ、手塚治虫の火の鳥の主役・高峰さんの両脇を固める近衛兵💂💂💂6人のうち、左の3人に抜擢された映画を🎞みた時。“
近衛兵だから、脇に出るから。”と解説までして見たにも関わらず、いつもよそ見する人間ならピッタリかと思いきや、驚く勿れ!な、なんとキャスのヤツ、あ゛〜っきれたことに、主役のいるド真ん中を見てた‼️

 “あっ、見なかった”

だって、笑ってた。いつもよそ見をする病人の
‘究極のよそ見’
だろうねきっと❗️世の中にここまでバカな人間は居ないと思った、つか明らかに‘病態’だろうけど、その時は未だ気づかなかった。こういう事例だけを数珠繋ぎすれば、立派な病態症例が丸見えだったにな。たまにだから、変わったヤツだ、で済んでたんだろな。
②: 溜池・六本木一丁目首都高下パーキングから六本木クロッシングに向けてなだらかな坂を歩いてたとき。例によってキャスは、僕のことは見なくて、

「あっカバーガールの人❗️」

って。すると、坂の上交差点方面から下ってきた、その美しい方は、聴こえたのかコチラをというか、僕も同時に振り向いたので、丁度僕とその方が見合うことになった。ーー僕は、その目鼻立ちの美しい方の瞳がずっと脳裡に残った。そうーー
 ピエロ🤡のように平凡な人というのは、まるでADさんに指示されたかのように、非凡な人同士を結び付ける役みたいデス❗️なんと20年後、僕はその方が立ち上げたモデル事務所で、社長つまりその方自らのハンディカメラ📹での撮影オーディションを受け、勿論その時は2人だけでお話もし、尚且つ‘手タレ’として新聞広告の全面広告に出るという、そこでの売れっ子モデルになったのだ。まさか、そんな‘オマケ’まで付いてるとは、キャスの知る由もなし。どころか、こーゆーよそ見の理由を

  “あたし、目、いいから”

と言うが、大きな間違いだと気づいてない。目がいい人なんていっぱいいるし、そもそもよそ見なんて近目の人だってできる。よそ見自体が、異常だって一生気づかない病態。

 ともあれ、僕とその美しい方にとっては、この出来事、六本木ストリートでの偶然は、いわゆる

 “引き”

なのだ。どうあっても巡り合う、という。富士山麓の邪馬台国宮殿オープンセットでの、崑ちゃんやジュン©︎のときもそうだったように。あの夜、新宿のディスコ🕺に有名なダンサーが居てくれたのも全てすべてが、この“引き”に関係している。
 キャスはよそ見ばっかしてたから、肝心なことには気づかないらしい。ベッドの上でしか、謝ったことないし。ソレって無効だって、多くの判例がもの語っている。ここが、ノエミとの大きな差で、ノエミは、謝る時は昼間面と向かって言う習慣があるのは

 ‘マトモ’

だった。
 きっと、そーゆー判例を、ニュースをちゃんと知っていたのだろう。そこはホレ、リケジョの’理’だね。まぁ、キャスの‘よそ見’で知り合った、といえる僕とキャスとの違い。
 まるで、“池田満寿夫のエーゲ海”の如く、あの繰り返し出てくる何なんだかという‘トキコ’のように、執拗にアタマに浮かんでは消えるを繰り返した、ポンギン時代の思い出をも巻き込み残像しつつも、さしもの、

  ‘杜の生活’

が、やっとこさっとこ終息した❗️あの、地獄の針の山の如きドシャブリ・ムチャブリの東京駅の春の朝に。

        7  ‘なぁゲロ 。。’

 10年が経った。
 ’ゲロ‘は博士課程を終え、東京の大学病院で指導医をしているようだった。論文を出す研究者としての登録を、インターネットで目にしたから。ところが僕は、関西で開業していて。どうも、玉突きみたいに疎遠だ。
 で、1年くらいの間、新しい論文が途絶えていることがあって。ーー僕は、思った。あぁ、いよいよ大病院を継いで、研究者は辞めるんだな、とネ。その後2、3年ネットに論文見かけなかったし、こんなコメントというかまさしく注意書きすら載っていた。即ち、

『この研究者の新たな論文の掲載は有りません。役職等、現在調査中。』

と。’調査中‘というコメントが、少し気にはなるカンジはしたけど、大学病院以外で行くとしたら、サンザン話題で聞かされていたアソコしか考えられなかったので、兎に角継いだんだ❗️と思っていた。

 ところで、去年の事。
 10年振りに同窓会名簿が届いた。ホントは、2、3年に1度は発行されてるはずだけど、住所変更してなかったりで、暫く僕は、同窓会から’ハグレ’ていた。
 で、会報が届いていても、特に‘ゲロ’に関する話題を探して見たわけでもなく。いや、それだけ疎遠になってしまっていたのかもしれない。何日も経ってから、何気にみんなの住所・役職・病院等の項を見ると、ゲロのゲ行に差し掛かると、みんなの項のような長たらしい住所やアドレス・役職等はなく、漢字2字がポツンとあって、その左右が真白く空白だった。まずは、何というか空白自体が誘う虚無感が。。続いて、括弧して

 “日付”

があった。・・何年も前の日付だ📆。漢字の2字は、

 “逝去”

だった。。。意味が、飛んだ‼️ーー‘戸永道之逝去平成◯年◯月’ … と。

 わかったけど、分かりたくなかった。
 
 3ヶ月経っても‘分かりにくかった’❗️
 だって、◯年前といえば、‘ゲロ’、37才だで⁉️
 おまえモーツァルトか❓

そーいやおまえんち、ピアノ弾くと、全部譜面記録されるし、超IT細工してあったよなぁ。あ゛っモーツァルトナガ⁉️ってわけかよ❓
 
 おまえよく、言ってたよな、

『余生は要らない』

って。でもさ、37じゃ余生どころか人生半分要らないって言ってるようなもんじゃんか❗️ーーそーいやゲロ、おまえ、血圧高めだって言ってたこと覚えてるよ。そもそも、アレがもう始まりだったわけなんだろうな今思えば。

 訃報知って3ヶ月経って、少しわかってきたことがあるよ。なんで、お互い目に入ったかって。
 つまりな、ゲロ、君は19の時には既に、折り返し点を丁度ターンしてコチラに向かってたんだ。僕は、折り返し点の🚩フラグに、18、9のみんなよりは近かったはず。多分クラスのみんなは、折り返し点までの道中まだ未だ半ば。てことは、君がターンした時点でまず目に飛び込んだのが、

 “兄(アン)ちゃん”

て呼ぶことになる僕だったんだ。ーー歳は、生まれた時から=前から数えるだけなら、年上の人は離れてる。けどな、こうして気づいたように、

後ろから=死の時から遡る数え方もあるんだよ。

 若く世を去るというのは、生まれた時からカウントするからだ。いや、なんの話かって❓実はゲロ、君のように若い同級生を(勿論みんな若いんだけど。前から数えるから!)亡くしたのは、今回が初めてではなかった。
 それで、今回ハッと気づいたんだ。なぜ、仲良くなる若い奴に先に往かれるのか。さっきも考えたように、

 ラストから何年前

って数えると辻褄が合うのでは❓ってな。

 つまり、君たち去り行く者たちにとって、1番、歳が近いのは僕だってことよ。いやいや、きっと僕でさえ若くて、況してや同じ新入生じゃ話にならんほど若過ぎ❗️ってことだよ、君らにとってはだ。そこにこそ、気づいたんだ、今回やっっと。それで、、
 
 前回、最初に入学した時は、もっと悲惨だったといえる。何しろ、‘モーツァルト’どころか‘ラディゲ’だ。。わかるだろ、ハタチ(20歳)だったんだ。

     8   ’友は釧路の丘の上’

 ーー竜崎孝太(リュウザキ・コウタ)。
 痩せ型の、元気な野球少年⚾️だった。見かけガッツイ・ゲロとは丸っきり違うタイプだけど、おまえと同様モテたよ。つまりな、1年ときから直ぐ恋人がいた。
 ところで、小テストが好きな先生って、ままいるもんで、GW明けの日だった。みんなボーッとしてるからか、‘やるか’みたいにテスト❗️
 それが、見当もつかない経済の問題だけど、全く同じ当てずっぽうの推論をしたらしく、僕も、たまたま隣席にいた竜崎孝太も同んなじ式を書いていたのが、お互い見えて‘アレ❓’って顔した。
 終わって、どちらからともなく、

“やっぱ、ああ思うしかないよな。”

とまァ、類推力のある2人は、急速に仲良くなった。
 
 で、夏休みには、別々に神戸へ遊びに行ったのに、お互い恋人同伴で落ち合って一緒に‘メシ’喰ったりも。。
 冬休みに入った時だ。リュウ(竜崎をそう呼んだ)は、横浜へ遊びに行きたいと言ってな。まぁ、知ってたら案内して欲しいみたかった。。

 横浜では、馬車道寄りの知ってるライブハウスで、ちょいイケてる姉ちゃんピアニストジャズを聴き、勿論ウィスキー🥃は極上の‘12年もの山﨑’で乾杯した。彼は、北海道出身なのだ!
 モンクのモノマネをするよなピアニストに笑いつつ、そこを出ると、休み休みフェリスの坂を、⛪️山手の教会へと上っていった。どーゆーわけか、フラッとした彼を見た僕は、何度も休んだのだ。そもそも、僕自身のんびりマイペースの方だし、だからその時は、リュウは旅の疲れか❓ぐらいなもんだった。

 山手の教会に着くとお決まり、端からローソクを順番に🕯→🕯隣席の人へと伝え点けていく。その間、神父さんのお話もゆっくり進んでいく。前年は、

 “誕生ほど愛でたい出会いはない❗️”

というご講話だった。今年は、打って変わって、

“死別ほど避け難く哀しい別れはない❗️“

というお話だった。去年とは正反対だなぁと思いながらも、僕に灯った蝋燭をリュウに点灯する番がきて、すぐ、

”はいっ!“

ってカンジで点けたら、か細い羽音みたく‘シュワワン’て萎んだ。
あれ❓
って思いつつ、もう一度灯した。また萎む。・・なんなんだよ。3回❗️えっ⁉️またし・ぼ・ん・だぁぁぁ。。”しょうがねええ、”
 リュウのローソクを手にした僕は、ポタポタ蝋が垂れてくるのも辞さずに、雨の直前の機嫌の宜しくないレンジに面するかのように、僕のローソクをシカと付け、ジックリ灯し続けてみた。よ〜〜し、いいみたいだ‼️全く4回目で灯ったよぉ。“神父さんの話、どこまでいった❓”
 てか、そーいえば、さっきのライブハウスで、リュウの住所を書いてもらおうとしたら、何度書いてもペンが枯れてたんだ。ところが、聴き取りで僕が書くと、書けたんだよその🖊ボールペンで。・・おいチョット待てよ、ローソクといい、さっきのボールペンといい、何かヘンつか不吉❓❓

 その夜は、2人して鶴見にある友人宅へおしかけ、その友人が、親切なことにリュウを翌朝は羽田に送り、僕はリュウを乗せたクルマの後ろにピタリ続き、高速の分岐点(ジャンクション)まで並走した。
 朝日に映える、前を行く後部座席のリュウのカーキ色の革ジャン、アメ横でめっけたって喜んでたリュウのトレード革ジャンが、色合いといい揺らぎ方といい

  “竜の落とし子”

に見えた。高速で、そんなクルマが揺れるわけないし、何なんだろう❓って思ったことをハッキリ覚えている。その不思議を見つつ僕は、第三京浜に向けてハンドルを左に切った。

 ・・まさかこれが、リュウの見納めと判ってりゃ羽田まで行っただろうし、況してやリュウの彼女だって。一緒に遊びに来たってゆーか、ずっと同乗したろうね。フライトまでさ。

 リュウは、その日、阿寒の実家に帰るなり、炬燵に倒れ込むように寝込んでしまい、2階の自室まで行かな、行けな❓かったそうだ。翌日病院へ行きそのまま緊急入院になり、更に翌宵には危篤状態に。。そして、次の明け方までに、帰天してしまった。

 帰るなりコタツに寝込むのを見た、リュウの父親は、

“とうとう来たな”

と思ったそうだ。リュウの妹のかこ(佳子)ちゃんには意味がわからなかったそうだが。
 リュウは、血液の難病を抱えていたのだ。両親は、4年前に事実を知ったが、その時小4の佳子ちゃんには、さすがに言えなかった。無理もない。余りに過酷だ。ーー葬儀は、町を挙げて行われ、前途あるべき若者の死を町中が、嘆き悲しんだ。
 というのも、リュウは町1番の秀才で、経済的理由からでもなく、将来を嘱望され町から奨学金まで出ていたからだ。神主さん・町長さんを先頭にして、鈴の音がシャンシャンシャンシャン響きつつ、竜を載せた牛車は、町の人々を従えてギイコロコロコロと丘に向かって真っ白な雪道を進んだ。ーー僕は、東京では1度も閉じたことのなかった分厚い皮コートのジッパーをグッと引いた。ここは、昼2時でも、氷点下5℃が最高気温で、

“今日は、晴れて暖かく幸なるかな”

って言われたよ。ーー棺が、埋まった。。

 もう竜の姿は、何もない。仕方なく振り返ると、最果ての街が一望でき、葬列の最後尾は見たことないほど長かった。なんて短かったんだリュウ、サヨナラ。

 空港へ送ってくれるクルマに、佳子ちゃんと乗った。すると、座席に着くなり、佳子ちゃんが倒れ込むように僕の肩に寄りかかった。突然、声にならない声か嗚咽を出し、彼女は泣き出した。まだ14だった。ムリもない。流石に車の中は暖かいのでコートは脱いではいたのだけれど、僕のジャケットは湿り始めた。彼女は、全く動かなかった。ーーそっか。そうだよネ。僕らが帰っちゃったら、もう兄のことを言う相手が誰もいなくなる。もちろん両親は話すにしても、ご両親は、先立たれたことで悲しい。だから、兄の現状素顔の生き証人である僕らが帰ってしまうことは、彼女にとっては、いよいよ兄への依代(よりしろ)までもすべて失くしてホントに1人ぼっちになってしまう悲嘆の涙が止まらなかったんだ。
 空港までの20分足らずの間、僕のジャケットは、肩から肘にかけてビショ濡れのようで‘ゴワ’んだ。他に言いようがない。しかも、生温かさが情念のように直接伝わってくる温度なのだ。ーーそのように感じた。そして外は、強烈に寒い、はずだ。


 タンチョウが見えた。真っ白な雪原だ。それは、有名な湿原の端っこだった。僕は、周囲の景色と佳子ちゃんの涙で、冷と温の狭間で身動きがとれないまま空港まで耐えた。別に、嫌なことを耐えたのではなく、できることはそれしかなかったのだ。あと数分、傍に居てあげることしかできない。。


 着いた。バンが停止し、彼女はしっかり起き上がった。そして驚いたことに、中学2年の佳子ちゃんは、若々しく元気に、僕を見送ってくれた❗️

          (つづく)… … ずっと下方に⇩次話クリック有り

#釧路 #湿原 #センダード #テニス
 






 

 

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