ドゥルーズと安定した存在
ドゥルーズ哲学と安定した存在
「安定した存在」という言葉は、一見してドゥルーズの思想と矛盾するかのように見える。なぜなら、彼の主眼は常に生成と変化、さらには不確定性と不安定性に置かれていたからだ。しかし、よく読み解けば、そこには安定した存在への道すら示唆されているのかもしれない。
ドゥルーズが批判の対象としたのは、固定化された観念的なアイデンティティだった。つまり、「私とは何か」という問いに一つの定義的な答えを与えようとすること。こうした試みは、生の流動性を見落とし、私たちを画一化された枠組みに押し込めてしまう危険があるのだ。
そこでドゥルーズは、生は常に変容し続け、アイデンティティは可変的で一時的なものにすぎないと説いた。私たち自身が「リゾーム的で分子的」な様態を取り入れることで、より豊かな生の地平が切り開かれるはずだと。つまり安定を求めるあまり、アイデンティティに固執してはならないのである。
しかし同時に、ドゥルーズは変化そのものを絶対視することもなかった。むしろ彼が目指したのは、変化と不変の狭間で「生成の契機」を見出すことだったといえる。それは制度化への回帰でも、無秩序な混沌でもない。安定と不安定の両極を行き来しながら、新たな生の様式を生み出し続けることなのだ。
この考え方を安定した存在に適用すれば、どうだろうか。つねに同一の状態を保とうとするのではなく、変容への開かれつつも、動揺しすぎずに生成し続ける。そうすることで、私たちは固定された実体からは自由になれる。しかし同時に、ばらばらに分散してしまうこともない。むしろ、どんな変化が訪れようとも、そこから新たな生を見出せる柔軟性を手に入れられるはずだ。
安定と変化の接点で私たちが獲得するものは、永遠の本質ではなく、ただ一つの生の様式に過ぎない。しかしながら、その様式は今ここで確かに存在するのであり、それ自体が私たちの「安定した存在」と呼びうるのかもしれない。ドゥルーズ哲学の掲げた不安定な生のただ中に、自らの確かな足場を見出すことができるのだ。