④感想

・彼はいつものように左手で性器をいじり始めた。彼はいつもオルガスムによって恍惚の境地に着く。しかし彼にとってのそのような行為は単なる快楽を求める行為ではなかった。彼には快楽と苦痛両方が必要だった。苦痛は性的興奮を高めた。

・「私たちは多義的であり、多様性をもつある種の主体」なのだ。それは破壊可能であり、脱出可能であり、幽閉可能なものだ。

・彼はいつでも自分にしか興味がなかった。己に固執し、「他者の現れ」を待つことなどできなかった。(西洋哲学と他者)

・他者と一口に言ってもいろいろある。人知では到底及ぶことのできない力量をもつ大谷翔平も超越的他者であるし、自分とはまったく違う言語を話す異文化をもつ外国人も他者であるし、死んだ偉人も他者であるし、隣近所の人間も他者足りうる。私たちはそんな他者たちと付き合い、自己を生成させてきた。それが個人の経験であり、歴史なのだ。(他者と出会いそして「開け」へ)
・坂口恭平と開け。坂口さんは「開く」のがうまい。普通の人間はあそこまで「開けた」存在にはならない。ドハーティがちょっと似ているか。

・0730に彼は玄関を出る。出た瞬間から風が強くドアを閉めた。

・「自炊」概念。自分で足りないものは自分でつくる。お腹を満たしてあげる。私たちはお腹が減ったらカレーを食べる。心がすり減ったら音楽を作って食べる。そうすることによって自分を快癒していく。これがすなわち「自立」という概念であり自己への配慮へと繋がる。(自炊について)

・操作可能性

・すでにミッションは負託されていたのかもしれない(勇気論166
・自分のヴォイスを見つける(『勇気論』内田樹
・参画」この世界の運動に参画すること。コミットすること。現代の英雄達に、「眼を開いて」いかなければならない。パレスチナで、ガザで、ロシアでウクライナで、それぞれに現代日本人にはわからぬことがある。
・私たちは生を弄んでいるんじゃないか。
・大事なのは学問であり、芸術は余技でしかない。(富岡鉄斎)
・富岡鉄斎という人も今の人の教養とはまったく違った教養をもった人。まず漢文をやり論語をやり、水墨画をやった。今の日本人の一体何割がそのようなことをやるだろう?(富岡鉄斎最後の文人)この人はまず学問をやった。まず自分の人格を磨いた。そして余技としてまたは民衆を教化?することを目的として水墨画をえがいた。

・現代日本では自殺者が後を絶たない。メディアには載らない人々の苦痛があるのだが、それは乘ることはない。

・そのとき私はその人を見れなくなってしまっていた。人を観察することができないでいたのだ。私は観察される方の人間であった。

・喧嘩商売論。佐藤十兵衛の強さの秘訣は強くなるためには倫理も捨てて、頭のストッパーも全部外すことにある。私たち人間は普段は自身を非解放状態に留めている。それはそういう制御機能が人間に備わっているからだ。それを突破する(ブレイクスルー)するには私たちは外部からの福音を待たねばならない。「外部からの福音」は能動的かつ受動的態度から訪れる。
 私たちは内在するものに惑わされる。懊悩し、苦悩を反復させる。その反復からは容易に逃れることはできない。その苦悩から解放されるのは運動によってである。
 私たちは「運動」によって新たな空間と「質」を内在化することができる。
 「運動」とは「外在性」と内在性との反復運動である。私たちがマンネリに陥るのも倦怠を催すのもこの運動が足りないがためである。私たちは出会う「存在」である。
 私たちにとって西洋は外から来たるものであり、私たちを生成変化させる文化そのものであった。
 私たちは今「東洋」や日本という外在性と交流することが求められている。

・強度のある出来事。衝撃的体験。

・私たちは言語の中に住む。言語の論理の中に住む。仕事場には仕事場の論理(ロゴス)があり、国際社会には国際社会のロゴスがある。
 仕事場に書棚があり、そこに根拠があるように。

・分析家の解釈は意味を持つものではなく、むしろ、「意味を切る」ことによって、自分の何気ない発言に潜む〈思いもよらないもの〉に気づかせるためのものです「ゼロから始めるジャックラカン

・家庭に入った男達は仕事を忘れ、子供と遊んだり、妻のご機嫌をとっているうちに、哲学を忘れ、芸術を忘れ、社会問題を忘れ政治経済を忘れて呆けてしまう。そうこうするうちに男はつまらぬ人間になり、中立的でニュートラルになってしまう。現代の英雄たち(イーロンマスクや)はほとんど眠らずに社会を変革していっている。(家庭に入った男たち)

・平本蓮対YA-MAN戦。結果はYA-MANの敗北で負けを喫した。YA-MANはリング上で悔し涙を流していた。かなり悔しかったろうと思う。
 何故私は敗北者を美しいと思ってしまうのだろうか。何故敗北者に共感してしまうのだろう。YA-MANはこの試合の悔しさを武器に再度立ち上がるだろう。(男の悔し涙は美)
・格闘技は出来事なのだ。ある種のチンピラは余剰な力を発散する欲求に取り憑かれている。彼らは血湧き肉踊る身体を体現するためにリングにあがる。

・詩を愛でる」ということがどういうことなのか。私たの抒情がなくなってしまったのはSNSが出てきたからなのか。そもそも私たちに感動が薄っぺらい消費的なものになってしまったからだ。それは一時の感動にすぎない。それはアマプラやネットフリックスで得られるような消費的感動だ。その感動に際限はない。次から次へとコンテンツを変えてトレンディーなるものを消費していくのだ。(感動が失われたのは富士山を描くことを忘れたから)
・詩を愛でるということは感動することだ。自然と一体になることであり、対象と融合することだ。

・加速する自動車。加速するバイク。マイクロ波。Lバンド。Cバンド。Xバンド。私たちを回していけ。リズムを刻め。20分。20分私はリズムだ。舞踏する精神そのものだ。毎日それは祈りのごとく踊られる。私は毎日の単調さに飽き飽きしている。もはや病だ。この現代の病から逃れる(逃走)にはドゥルーズかニーチェ哲学が有効だ。安心が欲しいなら歴史に入っていくしかない。(生の哲学)

・20分文章を書く。20分音楽をつくる。20分ゲームする。20分絵画を描く。20分筋トレする。結びつきあい、生まれるもの。生成変化。

・「反抗」という概念。反抗それは圧政からの自由を求める反抗であり、システムへの反抗であり、人間を抑圧するありとあらゆるものに対する反抗である。(反抗論)
・「反抗」は自分に対する反抗である。今ここにある自分にノン(否)と唱え、イエス(肯定)と肯う思想である。それは常に生成変化する思想でもある。否定感情に対する反抗である。肯定するための思想。それが反抗。
・新しい時間と空間を生み出す思想。それが反抗。仮固定。今ここの時間と空間にノンを突きつけること。うべなうため。
・反抗は既存の「私」なるものを破壊する。破壊の仕方は様々だが、ここでおすすめしたいのは歴史的「私」に回帰することだ。私たちが不安に陥るのはただの「個人」だからだ。一個の砂粒の個人だからだ。その個人は寂しい。その個人には濃密な時間感覚もなく、死者と語らうこともなければ、弔うこともしない。徹底的に自分の生を消費する人種だ。

・インターポールのEVILという曲はシリアルキラーとその妻を題材としているらしい。これは事物に何者かを語らせる手法でフィギュールという。事物をそのまま語るのだ。

・仕事論。後手に回るような仕事をしない。後手に回らないように少しずつ勉強していく。「変身する勉強」をしておくのだ。

・神は完全じゃない。完全ならばこのような不完全な世界は作らない。子が親を殺し、親が子を虐待し、大人が幼児をレイプし惨殺する世界を作るはずがない。完全ではないが故に私たち人間がこの世界に参与するのだ。関わり、コミットして美しきものにしていくのだ。
・米作り。自然と人間との共同作業だ。

・絵を描く(山を描いたり、川を書いたり自然を描く行為)ことは充電であり、ベルグソニスムだ?

・戦前の日本が嫌いな日本人(主に昭和10年代生まれ)は何故日本嫌いになったか。それは彼らが当時のイデオロギーとしての日本を宣伝されて人工的に作られた日本に辟易していたから。
・当時の日本は日本人を一つにまとめ上げる必要があった。そのまとめ上げるのにはイデオロギーが必要だった。
・近代以前は日本はどのような物語のもとでゆるやかに結束していたか。古事記や万葉集や日本の国土のなかにある風景から日本人であることを感知していた。
・日本人であるということはしかし、外国の人間が日本に侵入してきたときにはじめてそのアイデンティティを探して自覚する。

・精神発生論。そもそも精神とは何か?精神は意志であり、意欲であり、高尚な犠牲心に向かう指向性である。精神が発生するとは折に触れて出来事に触れた時である。

・あなたが何故いつも不安に怯えているか。

シュミラクラ的世界にとどまっていては他者に出会うこともない。師や風景や出来事に出会うことはない。

・この世界の本質がデモクリトスのいうように原子論的なものであるならば人間も意志や情熱を失った時点で石のようになってしまう

・生きるのは難しい。『脱獄』のようなものだ。自分で自分の肉体も精神も決められず私たちは幽閉されている囚人だ。私はこの牢獄から脱したい。この馬鹿げたシステムから固定化された習慣から自由になりたい。

・ジャックラカン
鏡像段階論→自分を他者として認識する→自我
      (他者なくして自我は芽生えず)デュエルが始まる。
・人間は言語(象徴界)の中に住む。幼児が言語を習得するのはその世界の中に入ることを意味している。私たちはどのような言語システムの中に住んでいるか?戦後の閉ざされた言語空間の中で。改悪されたメディア言語の中で私たちは「入って」しまっている。
・無意識の中には過去における「経験」がある。

・ニュートン→万有引力の法則

・近代は人間を裏側から見る思想。バタイユのエロティシズムしかり、残虐さの中に審美を見出したり、モラルの垣根を越えて彼らは侵犯し、美を見出す。彼らにとって法はエロティシズムのためにあり、侵犯にこそ美があると考えた。異常犯罪者がしばしば文学やロックミュージックに登場するのはその強度な出来事を「写生」することによって人間というものを描いているからだ。そこには善悪などない世界である。

・近代以前、古代ギリシャはどうか。人間は勇敢であった。あるいは卑屈であった。

・パワハラと哲学を結びつける
・「おれは人生に何を求めていたのか。あるいは期待していたのか」期待しすぎて夢を見ていただけだ。現実が落ちてきた。
・人間関係に苦しんでいる。

・fラン大学生の悲哀というものはtragedyだ。

・ロックミュージックを語る。ロックというのはある種のiPhoneと同じような「装置」のようなものやねん。ロック以前とロック以後では大衆文化も大きく変わって来ている。ビートルズがわたし達の抑圧された欲望を解放したように、ジョブスもまたweb4.0時代にふさわしい装置を開発した。これらの偉人が出現しなければ私たちは狭い鉄格子の中で生活していたかもしれない。(ビートルズとスティーブジョブス)

・自分の心身に心耳を傾けて調整するように組織に対しても心耳を傾けて働きかけて調整するということ。

・精神発生論[差異と反復: ドゥルーズは、精神の発生を差異の反復のプロセスとして捉えています。各反復は新しい差異を生み出し、これが精神の成長と変化をもたらします

・「出来事」とは超越論的経験」に自らを放下すことだ。

・放下す。
・ウクライナとコミットすることは世界の苦痛と残虐さと愚かさと対峙することだ。社会と

●カサビアンの
・イギリスのウェストヨークシャーの精神病院での物語。記憶。歴史を掘り下げる。ここには私たちの知らない物語がある。
・そもそも精神病院とは社会に適応できない人間が収容され、矯正される場所。
・精神病。社会は精神になんらかの支障をきたしたものを狂人とみなし、しばしば病院送りにしてきた。機械仕掛けのオレンジ時計しかり。資本主義社会にとって狂人はお荷物でしかない。しかし現代社会において多かれ少なかれ私たちは「狂気」を抱えている。その狂気を表に出せば私たちは病院送りにされる。私たちは「狂気」を悟られないように隠している。それはパノプティコンのような相互監視社会の到来で私たちは完成した。すなわち私たちは自分で自分を抑圧し、檻に入れているのである。
 近代以降考える「自由」は尊重されてきた。ファシズムは人間の意識を奪い、思考を奪った。(精神異常者と資本主義)

・アメリカ精神医療の父。ベンジャミン・ラッシュ。

・休日の過ごし方を考える。生成変化を促す反復のやり方を模索する。あるいは「取材」をもってその場での旅をするのもよし。すなわち自己から離れて「取材」しコミットメントすること。そこに他者の「ヴォイス」がある。リフレインがある。傷痕がある。ズレがある。(
・ノンフィクション。

・迎田さんというパーキンソン病の人が安楽死した記事を読んだ。何故神様は彼女に苦痛と苦難ばかり与えるのか。幼少期は両親が不仲で離婚。母親が愛人を連れてきてその愛人から暴力をふるわれる。結婚して子供が流産、そして離婚。再婚をしようとするも相手も難病で婚約破断。
 そして彼女は病気の耐えがたさの中で死を選択する。いわゆる安楽死だ。
これは人間の「出来事」としてとらえたらいいのか。彼女の選択を否定する気にはならない。彼女には彼女の「苦痛」があり「絶望」があったのだ。やりたいことはすべてやり、死ぬ。そこには決断した者の痛快ささえある。
 残念ながら今の人間のちからでは「生まれ落ちてくる所」を選ぶことはできないし、パーキンソン病という病を治療する手立てもない。独りで戦い、生き抜いた――〝安楽死〟した日本人女性 病による耐え難い苦痛と、頼ることをできなくした家庭環境(TBS NEWS DIG Powered by JNN) - Yahoo!ニュース
 問題点 
Q人はどのようにして死に至るか。

 (安楽死と決断)

・他者がいて自我が生まれる。鏡像段階において鏡に写る自分というものは他者であり、それを認識し、懊悩するのが自我であり、主体。そこで「こうでしかない自分」との「決闘(デュエル)」が始まる。(ジャック・ラカンと鏡像段階)

・私は何故死にたがっているか→病者としての私
病を治したい→治者としての私

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