伝承伝統 V.9.5.9.4 (2018/2/18投稿)
お邪魔いたします。シカゴ大学太田です。
私は「餅は餅屋」理論崇拝者です。素人が下手に何かするよりその道のエキスパートに任せた方が良いに決まっている。医療の現場においても同様に思っています。特に自分自身がトレーニングを通して専門性を高めていくにつれその思いは強くなってきました。一人の患者さんの治療に対しても様々な専門分野が存在しそれぞれのエキスパートが自身の仕事・責任をきっちり全うすることでより良い医療を提供できる。しかし、たまに複雑な病態の患者さんで複数の専門分野が入り乱れ治療方針にconflictが生じたり、治療に二の足を踏む状態が起こります。そのような時は各チームの意見を聞き治療の優先順位をつけたり、二者択一などのギャンブル的な決定をするのもアテンディングの仕事のうちです。ゆえに自分の専門分野以外はド素人というわけにはいきません。度あるごとに勉強したり教えてもらったりしながらなんとかちょっと物知りの素人でいようと努力しています。その代わり心臓外科領域において、質の高い医療を提供するのが私の役目であり、そのためにできる限りの努力と準備をするのが当然であると認識しています。特に手術室における仕事においては他の医療チームにとっては絶対不可侵の超専門的領域であり、だからこそ外科医は手術室では常に精励恪勤であるべきだと思っています。
私は心臓外科医であって教育者ではありません。「教育」はそれ自体が奥の深い学問であり、ちゃんとした教育論を学ばずして人を教育することなど不可能、もしくは非常に効率が悪くしかも道を誤る可能性が高い、ゆえに教育は教育のエキスパートが担うべきで素人が手出しすべきではない、と長年思っていました。シカゴ大学にきてレジデントやフェローの教育の一端を担うべきポジションにいる自分をして、教育の素人をつかまえて教育をしっかりやれと言われても困る、と当初から思っていました。しかし、北原先生がシカゴ大学に来た頃から指導、教育について考える時間が増えるにつれ少し考え方、というか考える視点が変わってきました。今でも変わらず教育に関しても基本的に「餅は餅屋」理論を持っているものの、よくよく考えれば教育学を極めた心臓外科医というものは滅多に存在しないはずで、にもかかわらず「後進の指導」は脈々と受け継がれ世界中で立派な外科医は時代を越えて日々発生していますね。これはつまり教育の素人である先人の心臓外科医の先生方がいろいろ試行錯誤し後進を、心臓外科医が心臓外科における「餅屋」あることを体現し、指導してくれている結果だと思います。私も例にもれず今まで散々いろいろな先生方に指導いただき現在に至るわけです。ゆえに、心臓外科を極めるにはまだほど遠い私でも持ちうる全ての知識及び技術を、素人ながらに教育というものを解釈、昇華しその時々のベストだと思う教育論法で後進に伝え指導するべきだと思い始めたのです。
最も学ぶのが難しく、でも最も学びたいのが手術手技ということになるのではないでしょうか。手術室にて一人の訓練生を目の前にしてどのように心臓外科手術を教えるか?私の場合はやはり理想とする心臓外科医の最終形を思い描き、それに近づけるように各ステップを順序立てて教えるべきだと思うのです。私のような未完成な心臓外科医がこの手法で教える場合、理想とする最終形態はつまり自分の目標とする最終形態と一致するはずです。そうでなければ自分に嘘をついているか、訓練生に嘘をついているかのどちらかということになります。ゆえに自分のたどってきた道、これから進もうとする道こそ最終形態へと導くもののはずであり、結果的に訓練生には自分が通ってきた道を同じように進むように望んでしまうものだと思うのです。そう思うと自分のやってきたことと比べて「近頃の若い者は。。」「私が若い頃は。。。」と思わず口をついて出てしまうのは、あまり褒められたことではないのは承知ですが、ある意味真っ当であると思います。
今までも何度か言ったとは思うのですが、私は外科医にとって最も大事なのは自身で成長できる能力だと信じています。トレーニング期間というのは限られており、トレーニング修了時に「完成」に達する外科医など存在せず、外科医として大成するかどうかは、その後いかに自分自身で能力を高めていけるかにかかっていると思っています。その自己成長能力の一番の基礎かつ最も重要なのがコピーアンドペーストだと思います。究極には卓越した外科医の手術を見学したりビデオを見たりして、それを自分のものとできる能力の基盤となるものだと思います。ゆえに私はレジデント、フェローには手術にはいろいろなやり方があり、私の方法が一番だとは思うなという大前提を踏まえた上で、私の手術においてはまず私のやり方を事細かにコピーアンドペーストするように指導しています。まずはwatch-and-learnしコピーに専念し、コピーが完了したと自負した時点で私の申し出れば、私の症例をskin-to-skinでやってよい、コピーは頭の中ではできているがペーストが思うようにいかない場合は私が指導し手助けをする、ただしコピーが間違っていたり程度が低い場合、また症例を自分で進行できなくなった時点でケースは取り上げ、その後その症例は助手に降格、困難症例で私の指導処理能力を超えてしまった症例は申し訳ないが私が術者側にまわる、またコピーアンドペーストが一見しっかりと出来ていても手技が極端に遅く手術が遅延する場合は完全なコピーではないと判断し取り上げ、というルールでやっています。この手法は訓練生が「今日は私が手術をする」と進言した時点で、患者さんの疾患、背景、手技の順番、各ステップの予想されうる困難と各チームとのコミュニケーション、起こりうる術中問題の対応策、術後管理の注意点などを何度も頭の中でシミュレーションしているはずで、手術手技だけでなく患者さんのトータルケアをする訓練になり、重要な能力の一つである「手術を終わらせる」力が身につくと思っています。
この手法は賛否のあるやり方ではあるが日本の皆さんなら「あーそういう感じでやってるんだ」「まーそういう人もいるね」と最低でもある程度の理解を示してくれると思います。しかし、アメリカのレジデントには全く新しい概念のようで理解されません。ゆえに最初にきっちりと話をしてこちら側の要求とトレーニングのやり方を伝えます。個人差はあるものの基本的には手術手技を学ぶのに手技をしないで学べるわけがない、手技をさせてくれないなら手術には入らない、と言う考え方が主体のアメリカ人にとって私の要求は苦痛以外の何ものでもないようです。中には私のポリシーを伝えたにもかかわらず、何の準備もしないまま症例に入ってきて、さあ俺はここにいるぞ、俺には手術する権利がある、さあまずはお前が俺に何をどうして欲しいか言ってごらん、そして俺に手術を教えるがよい!ってな輩もいます。そんな場合は冷静に返り討ちにするのですが、基本的にはこちらが真剣になればなるほど相手にとってはウザくなるようです。まあその通りですね。確かに逆の立場だったらウザいです。対してチーフはその辺は適当でレジデント・フェローにはいきなり何も教えず閉開胸を任せたり、ちょっと右房の閉創させたりしてフェローを楽しませたりしますが、手術のキモをさせることはありません。個人的には系統立てない単発の手技や手術全体を理解していない思考回路での手術手技は効率が悪く「時間の無駄」に近い行為だと思います。実際、しばらくチーフと時間を共にしたフェローを観察していても何の成長もしていないと思うことが多いです。とはいえちょっとでも手技をさせてもらえるチーフの手術には入りたいし、私の教育方針はウザいしあまり手技をさせてくれないってことで、結果的に私の手術は敬遠されること常でした。今まで誰も第一段階(コピー)をクリアした人は出現せず結果的に私の手術は私が全部やるっていうように認識されるに至りました。しかし、北原先生が来てから状況が大分変わりました。北原先生は第一段階をすぐにクリアしどんどんと私の手術をするようになりほぼ全ての手術をskin-to-skinでするようになりました。正規フェローもチーフの症例では絶対にできないような手技まで北原先生が私の症例でやっているのをみて、ちょっと自分もやりたいと思うようです。今までと違い、私の教育方針によるある種の「結果」である北原先生を目の当たりにし、自分もああ成りたいと思うようになり、多少私に返り討ちにされてもしぶとく食らいついてくるレジデント・フェローが出現しだしました。たまに北原ブログに出てくるラザもその一人です。彼は現在のポジションは正規フェローではありませんが、外国出身で打たれ強い感じです。先日、彼が「俺はコピーの段階はできたから、手術はreadyだ。今日の症例をさせてくれ」と言って来ました。シカゴ大学に来てから4年以上経ちますが、この申し出をした人は北原先生を除いて初めてのことです。何でよりによってこんな重症例を選ぶんだろうなとは思いましたが、そういうことならどうぞと手術してもらいました。結果は予想どおり散々でしたが、こちらも半ば意地で手助けしまくりながら完遂してもらいました。最後の方は完全に集中力が切れて「頼むから代わってくれ」オーラが出てましたが、「手術を終わらせられないなら手術を始めるな」ときつくお灸を据えておきました。大分打ちのめされてましたが、自分の今の立ち位置がわかり、これからの課題も見えるはずですし良かったのではないかと思っています。少なくとも「やったー胸の閉開胸やったぞー、サンキュードクターオオタ!」なんて程度の低い教育よりはいいものを与えられたと思っています。
自身の専門分野にしっかりと責任を持ち、その道を極める努力をすることに関しては私は自分にも(?)他人にも厳しい方だと思います。ただ今の私のやり方は賛否あるのは重々承知です。もっと気楽に適当でいいじゃん、みんながみんな自分の「弟子」になるわけでもなく、人それぞれ目標も、実力も、生き方も違うんだから、楽しくやりゃいいよ!って思うこともあります。というかその他の事象において私の大半の生き方はそちら側です。しかし、この件に関してだけはどうしても妥協というか、そちら側の楽な生きた方ができないでいます。結局は自分の知っていることやできることしか教えることができない、自分の通って来た教育論でしか教えることができない、自分自身が不完全であると知りつつ教えるという矛盾、異なる相手に対して変化する能力に乏しい自分など、考えれば考えるほどネガティブな要素が湧き出る私にとっての心臓外科における「教育」は本当に難題です。本当に優れた教育者というのは存在するはずもなく、結局は指導者が優れているのではなく学ぶ側が優れているだけなのではないでしょうか?ちょっと哲学的なことを言って結論をぼやかしつつ、「教育」を通して自分が心臓外科医として次のステージに行けると信じて精進したいと思います。またみなさんの教育哲学も聞かせていただければ幸甚です。
写真:上の写真は別に何の意味もありません。具体的にはテキサスのドーモ大野先生に日頃送りつけているインスタ写真の一部です。この記事を北原先生に見せた際、「な、なげー。。。長すぎるのでカットするか、間に写真を入れて和ませてください」と言われたので挿絵感覚的な写真です。
で、本題のこの写真なんですが:
私の興味を全くそそらないものの一つが車です。車がないと生活できないので持ってますが、何の追求欲も湧きません。今年のシカゴはよく雪が降ったので車はすぐに除雪剤で真っ白になります。車が汚れに汚れると手洗いの洗車屋さんに持って行って洗ってもらうのですが、まあAmerican Qualityですので汚れが落ちていないことも多々あります。今回はそれがひどかったので自分でワックスがけがてら靴磨きよろしくピカピカに磨いてみました。鏡面仕上げです。写真に撮るとあまりわからないのですが、納得のピカピカ具合です。いつもはボーっと見ているだけの洗車ですが、いざ自分で磨いてみると細かい傷や汚れだけでなく、ちょっとした車の構造や材質なんかもわかるようになって来ました。見るのとやるのは大違いってのはよくわかってますが、理屈や理論を知らなくても、また作業の全体をやらなくても新しい発見があるんだなあと思いました。手術を完全に把握してなくても、手技の意味を理解していなくてもできるところはさせることで何かしら新しい発見をさせるように促すこともできるんだろうなあと思いつつ、またぐちゃぐちゃになる頭の中、慣れない作業でパンパンになる腕。翌日、いきなり雪が降って真っ白に逆戻りの車に閉口する。
縄田先生。最後まで読んでいただいてありがとうございます。