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ノラガミ設定考察 終レポート 完全版⑨

以下、聖書的解釈

エゼキエル書/ 16章
 1) 主の言葉がわたしに臨んだ。 2)人の子よ、エルサレムにその忌まわしいことを知らせなさい。
 3) あなたは言わねばならない。主なる神は、エルサレムに対してこう言われる。お前の出身、お前の生まれはカナン人の地。父はアモリ人、母はヘト人である。 4) 誕生について言えば、お前の生まれた日に、お前のへその緒を切ってくれる者も、水で洗い、油を塗ってくれる者も、塩でこすり、布にくるんでくれる者もいなかった。
 5)だれもお前に目をかけず、これらのことの一つでも行なって、憐れみをかけるものはいなかった。お前が生まれた日、お前は嫌われて野に捨てられた。6)しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。
 7) わたしは、野の若草のようにお前を栄えさせた。それでお前は、健やかに育ち、成熟して美しくなり、胸の形も整い、髪も伸びた。だが、お前は裸のままであった。 8) その後、わたしがお前の傍らを通ってお前を見たときには、お前は愛される年ごろになっていた。そこでわたしは、衣の裾を広げてお前に掛け、裸を覆った。わたしはお前に誓いを立てて、契約を結び、お前は、わたしのものになった、と主なる神は言われる。
 9 )わたしはお前を水で洗い、血を洗い落とし、油を塗った。 10) そして、美しく織った服を着せ、上質の革靴を履かせ、亜麻布を頭にかぶらせ、絹の衣を掛けてやった。
〈中略〉
59) 主なる神はこう言われる。お前が行ったように、わたしもお前に対して行う。お前は誓いを軽んじ、契約を破った。 60) だが、わたしは、お前の若い日にお前と結んだわたしの契約を思い起こし、お前に対して永遠の契約を立てる。

 これを見ると、序で神は人間の預言者に、都市エルサレムに対する伝言を頼んでいるかのようである。よってエゼキエル書が預言者の書き残した文であることがわかる。神が夜ト、神に「生きよ」と二度言われた丘の上の都市エルサレムが雪音、人間の預言者エゼキエルがひよりと見られる。この上で1巻から読み直すと、なるほどとなるのである。中略の、神がエルサレムの裏切りを嘆く長い部分も読んでみると、雪音と夜トが何度もすれ違いながら、最終的に共にいることを選んだという結果につながっていくのである。
 では雪音がエルサレムならなぜ女性として描かれなかったのかといえば、エルサレムに与えられた新しい契約を果たすのは、神の子イエスだったからではないだろうか。キリスト・イエスは主なる神を父と呼び、自分を殺せと叫ぶ民の罪を背負って、神に従ってエルサレムのゴルゴタの丘で生贄となり、神の元へ登った。その死によって、十戒の古い契約も死に、代わりに復活したキリストが新約の愛と希望と信仰をエルサレムにもたらすのである。神が、お前に対して永遠の契約を立てると言ったその相手が、エルサレムの丘で死んだ神の子キリストになるのである。これは、神父となることが神と婚姻に喩えられることに名残が見られる。雪音は父に殺されたことも、人間の世の罪も全て飲み込んで、夜トの元に立ち返って懺悔し「この世界は綺麗だ」と言った。それはやはり神への愛と希望と信仰である。雪音が山で死んで丘に葬られたことも、シオン山にあるエルサレムのゴルゴタの丘でキリストが亡くなった様に通じる。
 またこの時雪音は、父様に殺されそうになった夜トを助けている。さらに夜トがひよりの死に呆然とする中、ひよりの肉体を持ち帰って「この子を救えると信じている」と言った。それはアブラハムが息子イサクを神への捧げ物にしようとナイフを翳した時、天使が「その信仰だけで十分だ」として止める様である。同時に、罪深い者を赦さずに裁き殺すのは再びキリストを磔にすることと同じであるとパウロが書き残したことと、キリストが神に祈って死者を復活させたこともに相応するのではないか。もはや人類を罪の犠牲にしないために、自ら神への最後の生贄となって人類に赦しと救いを与えたキリストの想いに深く重なるものがある。雪音は夜トが自らを犠牲として父様を殺すことを決めた時、再び置いて行かれた絶望に苦しんだ。一度は死を受け入れ神に仕えようと誓ったのに、実の父が自分を生き埋めの置き去りにしたときのように苦しんだ。これこそキリストを再び磔にするような赦しも愛もなき世界である。そして、今度こそ父様にトドメを刺せると言う時、雪音は父様をスルーして、ただひたすら主にひよりの復活を信じて願った。キリストは何人も死者を蘇らせたが、それはキリストが主を信じて愛していたことで、一縷の望みが叶えられることがあらかじめ定まっていたからなのである。キリストが、罪を裁くな、裁きは神のもの、隣人を愛し、赦し、わたしを愛することが、神を愛することであると説いたとおりに、雪音はそうしていたのだ。雪音には父親というものに対する復讐も裁きも無い、ただひたすら悪霊を払い、夜トを信じて、ひよりが救われることも確信していたのである。だからこそ、夜トも野良も雪音に突き動かされたのである。そして、父様の鬱憤の犠牲者になろうとしていた人間のひよりは助かり、夜トが手を下すまでもなく、父様にはイザナミの裁きが下って沈んでいった。雪音はキリスト同様、旧約、裁きは死である世界を知り、神が隣人を愛せと言った言葉をこそ便りとする新約も知っている。二つを修めているのである。
 夜トという神にとって父様は、違反者を全て死罪とする十戒を成したモーセのような存在だったのだろう。モーセの後継ヨシュアは、ただエルサレムに安穏と住んでいただけのジェリコの市民を殲滅する。当時のエルサレムには、古い太陽の女神アシェルに対する信仰が残っており、聖書の神にとっては邪教であった。アシェルの石の柱を打ち倒せ、と何度も繰り返す下りが旧約聖書にはある。その頃の聖書の神とは、憤りによる裁きの神だったのだ。十戒に違反したものは石打ちの死刑であった。
 今、夜トは雪音と、誰も殺させないという新しい約束を交わした神であり、雪器を通して隣人を救うことに邁進する神になったのである。雪音は狼であり牧羊犬であり、迷える羊たちの神である夜トを導く。死霊ながら、夜トに生きろと言われ、神の手で丘の上に葬られ、後に大神となった姿は、死後に復活し天に昇って神と一体となったイエスと重なる。犬や狼は聖書において最下層の貪欲で不遇で惨めに死んでいく存在の象徴であり、キリストもまた、女性や浮浪者や病人という社会的地位の低い者を救い、それらの人々よりさらに身を低くして人類の罪全てを背負って、赦して、父なる神の求める最後の生贄となったのである。そして生贄となったキリストは、神と一体となって復活して、裁きではなく愛と赦しを神と人類の間に定めたのである。だからもう誰もこの世で神の名の下に人を裁くことはできない。神は、人の手を介さず直接運命の裁きを下し、キリストは人類にはただ神を信じて隣人愛を行うようにと説く。そして使徒たちはキリストの名の下に悪霊払いをし、キリストの隣人愛を布教したのである。キリストは人類の牧者なのである。キリストは自らの体をパン、血をワインに喩えており、蚕/コメ、莠/アワの原種であることとも符合する。
 雪音は夜トにひよりを救うよう願い、結果として縁切りによって、夜トがひよりを死なせてしまうことを防いだのである。ひよりは雪音のために奔走し、命をさらにすり減らしていたが、雪音はひよりの犠牲を受け取ることはせず、神の手から命を返した。キリストがもう誰も罪の犠牲にしない、自分が最後だとしたとおりである。こうしてキリストの愛の元で人類は罪から自由になったとパウロは語っている。
 一方で、キリストののちの時代、紀元300年ころに、ムハンマドが現れてイスラム教を立ち上げている。雪音が夜トの裏切りを許せなかったようにキリスト教は一夫一妻であるが、イスラム教は一夫多妻である。またコーランに基づいて裁きを復活させており、違反者は鞭打ちか石打ちの死刑であり、復讐も正当化されている。キリスト教が金儲けを一切否定しているのに対して、イスラム教は開祖ムハンマドが商人で大金持ちであった。夜トという神について、雪音がキリスト的な新約と愛と赦しと自由と聖貧と貞節を表しているのに対して、兆麻は後のイスラム教の復讐と多重婚の正当化を表していると考えられる。ただし、ムハンマドは自ら、自分は決してイーサー(キリストイエスのアラビア風の名)に勝るものではなく、また否定するものでは無いとしている。キリストが示したあるべき神の道についていけなかったアラビア文化圏のために、もう一つの選択肢としてイスラムを提唱したのが自分だとムハンマド自身が言っている。故に、キリスト教は常にイスラムを否定し続けている。主人が死んでもしばらくは貞節を保つことが理想とされるキリスト教に対して、ユダヤ教やイスラム教はすぐに次の夫を持つようにとしているなど、反目する部分が多々ある。ひよりでさえ夜トに毘沙門天を助けて欲しいと犠牲を要求した。その結果、夜トは自分が犠牲になるつもりが雪音が犠牲になった。ひよりはユダヤ人の群衆のようである。誰かが神に犠牲や復讐を要求するたび、何度も犠牲になるのが雪音であることは、キリストを再び磔にするようなものだと生贄と復讐と裁きを否定するパウロの言に通じる。
 よって、神である夜トに対して雪音が唯一無二の伴侶であり、兆麻は毘沙門天に対してほどほどいるようにとする掟の軛になっているのである。夜トと雪音はキリスト教的な関係であり、兆麻と神々の関係はイスラム的であると言える。雪音には莠の字が残っているが、キリストの妻という説があるマグダラのマリアは、元々淫らで放蕩な生活をしていたとされる。マリアはキリストの話を聞いて涙し、改心して、妻であり一番弟子になったとされる。あるいはパウロやキリストにも施されていた割礼である。割礼は旧約の申命記の掟である。
 また生前の雪音は手紙を書いており、これはキリストの降臨によって彼の聖霊を賜り改心したパウロの、その手紙のようでもある。パウロの手紙(書簡)は新約聖書の3分の2ほどを占める、新約聖書のもっとも古い部分であり、初期キリスト教の礎となった。現在のキリスト教の信仰は哲学者で聖書学者であったパウロによって築かれたと言われている。パウロはずっとキリストを迫害し、ユダヤ教に従って十戒に違反した者を次々裁いて死刑にしていたが、キリスト降臨により聖霊を受けて劇的な改心をした人物である。初期に禊を受けた雪音や、一度は父様と共に怒りの力を奮った雪音が再び夜トの元に立ち返る様子と重なる。元はサウロという名前だったが、キリストが降臨の際「パウロ、パウロ」と呼ぶ声に応えてからはパウロと名乗っている。パウロは後年、ローマ皇帝に面会にいった末に斬首刑に処され殉教したと言い伝えられる。パウロは聖貧を守りつつ、信者の寄付は全て貧しい人のために使い、自分の食い扶持は自分で稼いだと書き残している。ここまでピッタリ雪音と符合する。
 では、その手紙を受け取って姉へ届けたひよりは、パウロの弟子のひとり、ギリシャ人のテトスや、バルナバなどの七十門徒に相当するのではないか。テトスはパウロから「仲間」「協力者」と高く評価されており、コリントの信徒への手紙では、テトスがエルサレムへの募金を募ったり、コリント人へパウロの手紙を届ける役割を果たしていると書かれている。これは雪音の手紙をひよりが姉に届けた様子と合致する。また、けっきょく仮名もなく死なず、神器にならなかったひより同様、テトスはユダヤ人の証である割礼(生殖器の一部を切除する儀式)を受けておらず、殉教もしていない。パウロが彼に直接宛てた「テトスへの手紙」も聖書の一部になっており、雪音がこっそりひよりに手紙を送っていた様子とも符合する。テトスはパウロと別れたのち、クレタ島でゆっくり余生を過ごして亡くなっている。クレタ島は温暖な気候で観光地としても名高い。ひよりも七十門徒のように多くの人を救うために奔走し、地道に布教し、余生を謳歌して年老いて、安らかに亡くなるのだろう。
 実は、パウロも人間をひとり復活させている。パウロはとても話の長い人だったため、パウロの話を聞いていた青年が寝こけてしまい、座っていた3階の窓からずり落ちて死んでしまったのである。人々が衝撃を受けるなか、パウロが駆けつけて青年を抱き抱え、「騒ぐな、まだ生きている」と言ったのである。2人は再び上に行って朝までパンを食べつつおしゃべりしたという。人々は生き返った青年を連れて帰って大いに慰められた、と記されている。これもまた、雪音が寝こけて死んでしまったひよりの体を背負って連れ戻し、神に祈って復活させた様子に符合するのである。
 毘沙門天は、自分が一体誰に祈ったのだろう…と考えるシーンがある。また夜トも天を見上げて希望を探す。そして、まるで人間のように、自身の内に、裁きの力は無く、ただ主なる神の隣人愛を実行する力がすでに備わっていること、それしかないことに気が付かされるのである。雪音がすでに信じていた希望、それは夜トの愛情と行動力であったのはまちがない。救われたひよりは、2人から、生きて多くの人を救う運命を託されたのである。それは我々、聖書の神の元にある人間全てに託された、愛と信仰と希望と同じなのだろうと思う。サンタがいるなら聖書の神もいるのである。
 夜トは人間との古い契約(旧約)で裁きの神とされていたもの。雪音は、エルサレムへの預言から始まりキリストによって実現してパウロの哲学によって完成した、神と人間の新しい契約(新約)そのもの。だから旧約である十戒が聖櫃に収められていた様に、雪音は冷蔵庫や石棺に閉じ込められていた表現が続いた。しかし、今ある新約は、石ではなく人間の魂に聖霊の火で焼き付けられた、形なき自由なものなのである。よって雪音は夜トの手で冷蔵庫から取り出され葬られ、救いを経て自由な身となったのである。エルサレムは「自由な身の女、不妊の女」と呼ばれ、新しい契約を得ることで、子供を産んだ女よりも多くの嗣業を世に残すとされる。
そして、ひよりは預言者という神の言葉の書記官であり、パウロの哲学が綴られた手紙を聖書にまとめ、後の世まで伝えた七十門徒の語り部なのである。

またエルサレムに関する以下のような予言もある。雪音が夜トの声に応えた様子のいくつかに符合する。

ヨハネの黙示録/ 21章
1)また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降って来るのを見た。
3)そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、4)目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。」
5)すると、玉座におられる方が言われた。「見よ、私は万物を新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」
6)また、私に言われた。「事は成った。私はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。
7)勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。私は彼の神となり、彼は私の子となる。
8)しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らな行いをする者、魔術を行う者、偶像を拝む者、偽りを言うすべての者、このような者の受ける報いは、火と硫黄の燃える池であって、第二の死である。」
9)さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使の一人が来て、私に語りかけてこう言った。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁をあなたに見せよう。」
10)天使は、霊に満たされた私を大きな高い山へ連れて行った。そして、聖なる都エルサレムが神のもとを出て、天から降って来るのを私に見せた。
11)都は神の栄光に輝いていた。その輝きは最も高価な宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。

 これ以上私から作品に対する感想的なことはあまり述べまいと思ったが、ひとつ書き残したい。過去の考察の繰り返しになってしまうが、とても大事なことである。
ノラガミの最も大きなテーマは犠牲である。自殺の否定、世の不条理の犠牲、救いのための犠牲者の苦しみと昇華、闘いのための犠牲者選び、他者に要求する自己犠牲、他者をも傷つける自己犠牲、裁きと復讐のための犠牲、無意識の自己犠牲、そして何の犠牲も求めない愛と救いを求める心である。先述したように、キリストは自らが最後の犠牲となって、愛が救いであり掟であるという契約を、人類を代表して神と交わした。キリストは死ぬ前に森で神に祈り、その恐怖を訴えて懺悔している。雪音は罪を犯して懺悔し、愛を求めて愛を返して神に仕え、何者の犠牲も復讐も良しとせず、救いの実行を求める。夜トの自己犠牲は雪音の愛を踏み躙り、夜トは苦しんでその理を知った。だからこそ、雪音と同じだから、とひよりを世に返した。夜トは雪音のみを道とする。愛の前ではいかなる犠牲も復讐も裁きもあってはならないのである。
 夜トは自殺を忌み嫌っていたはずなのに、雪音のために自殺しようとした。それは自殺しそうだった姉を逃し守るために、父親の元に残って殺された雪音にとって、どれほどの裏切りだっただろうか。自分の死を受け入れ、夜トに誰も殺させないと誓った雪音にとって、愛する神が自分を置いて死を選ぶとは、どれほどの絶望だっただろうか。しかし、雪音は夜トを問い詰めることはせず、ただ自らの罪を懺悔し、夜トの元に帰ってきた。それは自分の死の咎を顧みず、夜トを愛することをこそ道としたからであった。雪音が、夜トが自分の亡骸に捧げた愛情を知ったからであった。ついに雪音と夜トは互いに、自分が愛されていることを知ったのである。神は愛であり、愛を知ることが神を知ることなのである。夜トはやっと雪音を知ったのである。
 キリストに愛されるように自分を愛し、キリストが隣人を愛するように隣人を救う。キリストは、自分を愛することだけが、父なる神へと至ることのできる道であると言う。こうして夜トは雪音を愛して雪音から学び、導かれ、神は善であるという言葉にやっとふさわしくなった。父なる神の愛を信じること、キリストを愛して、新約の実践に務めること。雪音が夜ト神を愛して、夜トもまた雪音を愛して、隣人愛に勤めること。それこそがたった一つの善と言える。祝になるとは、神から祝福を受けて、罪人が新しい命を与えられる様に似ている。

・サヘルとサレム 聖書の源流のひとつであるウガリット神話において、サヘル(シャヘル)は明けの明星の神、サレム(シャレム)は宵の明星の神であり、双子の神である。サレムはエルサレムの名前の語源であり、神の平安を示す。またはサレムの家という意味。現代でもイスラエル人は挨拶として「エル・シャローム」と言う。雪音がエルサレムで宵の明星なら、夜トは暁の明星である。暁の明星はルシフェルのモデルである。
 生まれた時の夜トが掴んだ星は辛酉の方角である。辛は北、酉は西である。辛酉の方角は西北西であり、十二支の戌の方角である。同時に西北西は宵の明星の方角であり、金星が見える位置であり、エルサレムを表す。そして雪音が見る夜明けの星が夜トである。2人が寝る位置を見ると、頭の方向を北として本人達から見た場合(雪音は死者なので北枕で正解)、夜トは左で東であり、雪音は右で西である。
よって夜トが掴んだ星は雪音である。そして真名を知った雪音は、聖書のエルサレムのように夜トの元に降ってきて、夜トが抱き止めた。
辛酉は天命が覆られる年である。

 また白道とは、浄土真宗において、生きた人間が阿弥陀如来の教えに導かれる道のことを言う。右に怒りの沼、左に貪欲の沼があり、その間を通る細く白い道が、阿弥陀如来、または三尊へ至る道なのである。キリスト教の三位一体は神とキリストと聖霊であるが、浄土真宗では三尊来迎といって、阿弥陀如来が勢至菩薩と観音菩薩を連れた姿で現れる。元々、浄土真宗とプロテスタントは思想が近いため、親鸞聖人が何らかの形でキリスト教の経典にヒントを得て、三尊来迎の概念に至った考える向きもある。
 阿弥陀如来、如来とは入滅し悟りを達成して仏となった存在である。慈悲の光によってこの世の全てを照らし出し、罪人もそうでないものも、必ず救って成仏させる力を持つという。
 勢至菩薩と観音菩薩は、菩薩という生きた人間で、因位(悟りの種)を得て、本当は如来に昇格する力がありながら、あえて現世に留まることで人々と苦悩を共にし、そばで助けてくれる存在である。
 勢至菩薩は中国では狼山という修行の場で鍛錬したとされている。狼山には白い狼が住んでおり、勢至菩薩は狼と問答し、その山を受け継ぐことを許されて修行の場としたという。そのため勢至菩薩は知恵を司り、白い狼を遣いとすることがある。
 観音菩薩は三十三観音とも言われるように、世の人々を救うためにありとあらゆる姿に変身して人々を救うという。中でも白蛇観音は日本でも篤く信仰されており、病気から人々を救い、人間の犠牲になった蛇や動物を救うとされる。
 つまるとこと、白器の登場によってヤスミに罹った人々が救われたあと、夜トと雪音と野良が3人で街中を疾走する羽目になったが、これは白道の向こうの三尊来迎図を表す可能性が高いと考えられる。
 これはもうコミケで三尊来迎図コスをやるしか…本家の浄土真宗(東本願寺派)は至って寛容でお寺に聖歌隊を招くような気風なので、余裕でお目溢ししてくださることと思う。

コリントの信徒への手紙一 13章 愛
1)たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
2)たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
3)全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
4)愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5)礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
6)不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
7)すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
8)愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
9)わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
10)完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
11)幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
12)わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
13)それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

テトスが届けたパウロの手紙の一説である。これが雪音の手紙のモデルである。

ルカに寄る福音書13章 29〜30節
「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
これが最終回の宴会の元ネタとみえる。

 ちなみに、カトリックでは動物は天国に行けないとする思想が一部あるが、例外もある。スペインのバレアレス諸島マヨルカ島の聖アントニオという聖人である。聖アントニオは犬や馬、羊などの手厚い保護活動をした人物である。毎年聖アントニオ祭で祝福を受けるために数万頭の動物が島にやってくる。多くの妖に名を与え、慕われていた父様に少し似ている。
 同じくスペインには聖ロクスという犬を連れた聖人がいる。彼の母が、彼を孕った時に松明を咥えた犬の夢を見て、神から遣わされた牧羊犬がこの子に聖霊を下さったと感じたという。20歳で両親が死ぬと、ロクスは両親から引き継いだ遺産を全て投げ打ってペストの治療にあたったため、ペストに対抗する守護聖人である。ロクスが病人の額に十字架を描くと治ったという。ロクスが自らもペストに罹ったとき、人に伝染させまいとし、森で倒れていると、天使とパンを咥えた犬が現れた。犬がロクスの傷を舐めると、ペストが癒され傷がみるみるうちに塞がったという。天使に遣わされたその犬は以後もロクスと共に旅し、貧しいロクスが困窮するとどこからかパンを持ってきて、彼の傷を舐めて癒したという。最後、ロクスは貧しい身なりのため他国のスパイと言いがかりを付けられて投獄され、獄死している。犬がどうなったかは定かではない。(スペインではサグラダファミリアの建築家ガウディも貧しい姿のために、馬車に轢かれたあと手当をされずに亡くなっている。古い時代のお国柄があった) 犬は天使の化身と信じられ、怪我したロクスとパンを咥えた犬は多くの絵画となり、今も共に信仰の対象になっている。コロナ禍でさらに信仰が広がった。聖ロクスの日には聖ロクス教会に犬を連れた飼い主が多くやってきており、犬は心を癒してくれると日本のテレビインタビューに答えていた(世界不思議発見だった気がする)のを覚えている。聖ロクスとその犬は、タダ同然で見返りなく魔を払い続ける夜トと雪音に少し似通っている。この漫画もロクスと犬のように永く、世界中で愛され続けることと思う。
 以前、他ジャンルの二次創作でスペイン教会をイメージしたため、この手のネタが出てしまった。ワンコの話は涙腺崩壊しかないので、共有しておきたい。

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