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安楽椅子探偵による『150年』超推理

展覧会というものは極論、動線を定義さえすれば作ることができる。

できる、というより、できてしまうと書いたほうが正しいかもしれない。
実際、本質的にはその空間に動線しか存在していないのにもかかわらず、あたかもなにか重大なテーマが込められた芸術作品がそこにあるかのようにカモフラージュされた展覧会が跳梁跋扈している。そしてそのような悪しきフォーマリズムが蔓延した芸術的な同時代性こそが、本邦のリアルな状況だ。

この「動線を定義する」というプロセスは脚本の執筆のようなもので、新人アーティストたちはたいてい展覧会を作っていくにあたって空間をアナロジカルに論理化し、校正していく技術を学んでいく。そして、空間を論理や脚本として認識するようになるということは、ほとんど建築や都市空間について考え始めるということに等しい。

現代において脚本というものは必ずしも、一人称でリニアなタイムスケールであることを意味しない。むしろ、ソーシャルメディアや人工知能によって物語生成のシステム化が推進された現状においては、ノンリニアで多視点的なナラティブのほうがデフォルトとなっている。

こうした条件の実践的な分野は、いわずもがなゲームだ。

選択肢を最大化し、ほとんどシミュレーター化したオープンワールドゲームでは、従来のような特定のリニアな脚本が機能しない。そういった作品では、脚本的タイムスケールを用意する代わりに、空間的スケールをとにかく大規模化するという方向付けが為されることがある。それは、空間がリテラルに拡大するという意味でもあるし、空間に対するプレイヤーの選択肢を最大化する方向付けでもある。

『150年』バナー画像 (引用: https://note.com/kantaro_tnkpero/n/n2eaf5e28e498 )

2025年1月18日(土)から2025年1月27日(月)まで豊島区は南池袋で開催された展覧会『150年』は、家屋におけるリニアな動線を、単管足場(仮構的な道)を用いて多重化し拡大解釈することで、ウォーキングシミュレーターのアセットのようなノンリニアなナラティブに置き換えるという試みだった。それはある種の、アーキテクチャ論的な帰結であるとともに、展覧会のARG化による動員の成功事例でもあったと言える。

先述のオープンワールドゲームなど、動線がノンリニアに設定されたアセットの内部では、その全貌を網羅的に把握することが難しい。だからこそプレイ動画など、プレイヤーの断片的な「証言」がSNSを介して再組織化され、ゲームの評価にフィードバックされる。『150年』も同じように設計されていた。ARG化した展覧会に参加することで、それぞれの鑑賞者はプレイヤーと化し、各々の「目撃証言」をSNSに投稿する。「150年」という漠然とした時間量に対する断片的な情報がタイムライン上で再構築され、バーチャルな展覧会としての『150年』が立ち上がる。

タイムラインを媒介に寺山修司の市街劇をほうふつとさせるような拡張性を展開した点は『150年』の特徴のひとつだった。だが、似たようなブロックバスター展は近年インディペンデントなシーンにおいても何度か起きている。同展がユニークだった点は、カオス*ラウンジが震災以降方針を転向したことで追従者が不在だった、「アーティストによるアーキテクチャへの再介入」というコンセプトを、単管足場を用いた建築構造への介入のパラフレーズとして同時並行的に成立させた点である。

タイムライン上の展覧会『150年』にとって、アーティストと脚本家に仕掛けられていた仕事=ゲームは、家屋-足場-SNSと多層的かつアナロジカルに構造化されたメタ・アーキテクチャにナラティブを付与することだったと思われる。それらは、鑑賞者の間ではえてしてホラーの比喩として語られていた。日本のホラー文学の代表格である貴志祐介曰く「ホラーというのは、ミステリの文脈でまったく新しいものが書ける」ようになるものなのだという。ここからは『150年』を、タイムライン上に目撃証言の散らばったミステリとして捉え、現場に赴くなどして自ら能動的に情報を収集することはせずに、室内にいたままで、来訪者や新聞記事などから与えられた情報のみを頼りに事件を推理する安楽椅子探偵のように推理したい。

なぜなら、私はこんな文章を書いているにも関わらず、
『150年』の展覧会の会場に一度も行っていないからである。

作品をこの目で見てもいない。
この文章は、非当事者による憶測の域を出ないものだ。
だが、そうした非当事者による憶測の集合から、フィードバックとして鑑賞体験を省みることは、展覧会をタイムライン上に展開することを試みた本展の重要な側面でもある。勿論、そのパラフレーズとしての単管足場を用いた建築構造への介入がもうひとつの重要な側面であるわけで、その点においてこの文章が片手落ちであることは否めないのだが、大多数の人間にとってこの展覧会が「行った」(当事者)展覧会ではなく「タイムラインで見た」(非当事者)展覧会であるという事実を前に、非当事者は押し黙るべきではない。本当に重大な問題は、当事者か非当事者かという二項対立ではなく、その非当事者による介入が匿名的か顕名的であるかの差異であり、安楽椅子探偵はそのような仮定から超推理を試みる。

このミステリにおける最後の謎、それは、
『150年』における「監督」とはなんだったのか
という問いである。

我が国のアーティストとキュレーターの関係は最早ポケモンとポケモントレーナーのようになってしまっている。親密だが、決定的に従属的な関係だ。高度な情報社会では、情報を増やす能力より、受け取るべき情報を適切に減らす能力の方が必要とされているからかもしれない。

もし本当にそういう能力に優れたキュレーターがいて、その人が創造的で、評価されているというのであれば、それは素晴らしいことだ。だが残念ながらほとんどの場合、「優秀なキュレーター」という存在はでっち上げで、アーティストはキュレーターという肩書に反応し、従属する。だからこそアーティストはキュレーターと名乗る存在を意識的に突っつき続けなければならないのだが、実際には、日本の、極めて狭小な経済規模の現代アート界隈では、業界内政治が蔓延し、キャリア形成とか、芸術祭とか助成金とか、いろんな忖度が働いて、アーティストはキュレーターのポケモンになる。「監督」という呼称は、そうしたキュレーター概念への忌避感を発端としたもので、小島秀夫監督に代表されるような、ゲームプロダクションにおける総合監督を文脈とした引用だったのかもしれない。

だが、今回のケースにおいて「監督」がやるべきだった内容は、実在の空間をウォーキングシミュレーターのアセットとして再構成することだった。プレイヤーでもありクリエイターでもある実在の作家に、そのウォーキングシミュレーターにおけるゲームルールを正しく理解させることだった。それは、完全にバーチャルで没入的なビデオゲームを製作する監督のような手続きというよりは、実在の人物と対面しながらバーチャルな手続きを進めてゲームを構築していくという意味で、ボードゲームやTRPGのゲームマスター的な立場だったのではないだろうか。その点の齟齬が軋轢を生み、ゲームマスターが自ら用意した盤のルールをプレイヤー(クリエイターでもある)に十分に理解させられなかったことを他責化していくといった形で、問題は発展していったのではないか。

そして、この点から非当事者にも敷衍できる再発防止に向けた行動とは、まずキュレーション一般と見做されているものを即時粉砕し、ボードゲームやTRPGにおけるゲームマスター的な、プレイヤー/クリエイターの両義的フィードバックからキュレーションを再定義することなのではないか。





以上はインターネットに無数に転がる憶測のひとつに過ぎない。
『150年』展の会場に行ってもいないし作品も見ていない、非当事者による勝手な解釈である。

だが翻って、「当事者」とは誰なのか。
物語の脚本において全ての出来事は他人の出来事だ。
ほとんどすべての人にとって、ほとんどすべて出来事は、当事者ではなく、非当事者としてしか経験することができない。
それはタイムラインにおいても変わらない。

当事者性もなく現実離れした推理は超推理と揶揄される。
大量の安楽椅子探偵が喧喧囂囂と超推理を展開している景色を見た。
私も同じように、安楽椅子探偵として超推理をここに書いてみた次第。

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