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*「#松澤フミ と #杉良太郎 -- 寄留の異邦人と孤児を救え!」

… あなたの苦しみは私の苦しみ、あなたの受けた傷は私の傷。

〝平民宰相〟原敬は、幕末の南部藩に生まれ、戊辰戦争で敗軍となった東北で、親を失い泣き叫ぶ孤児の姿が忘れられなかった。
ロシア革命の混乱期にシベリアでたポーランド人孤児たちが孤立した、救済委員会が欧米各国に嘆願するも、各国は難しい外交関係に巻き込まれるのを嫌って拒否。

救済委員は、それまでほとんどポーランドと関係のなかった日本に最後の望みをかけた。

日本赤十字から連絡を受けた原敬は、ただちに閣議を召集し、「これは政治ではなく人道問題だ」と説得し救済を閣議決定、わずか2週間後にウラジオストックに日本の輸送船が着岸した。

そして、敦賀港に着く孤児の迎えるために、大阪の赤十字安倍野病院に医師と看護婦を待機させた。

劣悪な環境にいた孤児たちはやせこけ、腸チフスに罹っている子供もいた。

その中に病重く不治を宣告された少年がいた。看護婦の松澤フミは、親もいない異国で命尽きようとしている男の子を憐れみ、せめて自分の胸のぬくもりの中で最期を看取ろうと献身的な看護を続け、その少年は奇跡的に蘇生し元気になった。

しかし、今度はフミに腸チフスが伝染し、薬石効なく絶命した。
まだ23歳の若さだった。

◆ 戦後神戸の焼け野原にたたずむ杉良太郎少年

杉良太郎さんは、神戸の人なら誰でも知っている長田町という貧困地区で生まれ、廃墟になった敗戦直後の日本で貧しい幼少年時代を過ごし、多くの孤児の惨状を見て来た。

歌手や俳優として大成功を収めた杉良太郎さんの脳裏からは、貧しかった幼い頃の記憶が去ることはなく、福祉事業を始めた。

ベトナムの孤児院を訪れたとき、子供たちがやせているのを見て、「今度は子供たちが喜ぶお菓子を持って来よう」と思いまた訪越した。

しかし、渡したチョコレートを手に持っても子供たちはなぜか食べようとしない。

どうして「食べないの?」と尋ねると、一人の女の子が「お父さんが欲しい …」とポツリと言った。

それを聞いた杉良太郎さんは、自分の人間としての未熟さを恥じて涙し、自分が里親になると決めたという。

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