自衛隊から医院事務長へのセカンドキャリアの作り方(no.35)
プロフィール
富村 良平さん
現職:とみむら皮ふ科 事務長
自衛隊在職時最終役職:航空自衛隊1等空尉
経歴
ーー本日はお忙しい中、退職予定自衛官、元自衛官のキャリアを考えるインタビューにご対応いただきありがとうございます。まず、富村さんの経歴を教えていただけますか。
富村さん:私は横須賀の防衛大学校を卒業後、奈良の航空自衛隊幹部候補生学校を経て、岐阜の第4高射群に配属され、高射運用幹部として勤務していました。
その後、防衛大学校の理工学研究科の修士課程を修了。修了後は、航空開発実験集団の電子開発実験群に配属され、家族の事情で退職するまで技術幹部として仕事をしておりました。
今は、姉が院長を勤める長崎県のとみむら皮ふ科にて事務長として、人事やマネジメント業務といった医院経営に関する仕事をしています。
技術幹部として歩んだ自衛官キャリア
ーー自衛隊に入隊された背景と在職時の職務内容を教えていただけますでしょうか。
富村さん:私は佐世保の相浦の出身です。
佐世保は海上と陸上自衛隊の部隊があるため、小学校や中学校の同級生にも自衛隊関係が多く、自衛隊に対してはあまり抵抗がありませんでした。
そうした下地はあったものの、父が医師であったこともあり、現役は医学部を受験しました。ただ、残念ながら医学部に落ち、浪人することになります。
その当時お世話になった予備校の寮長が、自衛隊幹部OBだったんですが、防衛大学校も受けてみたらと言われ、医学部受験の練習のつもりで理工学科を受験しました。
防衛大学校は合格したものの、結果的に国公立の医学部には受からず、2浪するか、それとも防衛大学校に進学するか選択に迫られます。
「このまま浪人を続けた結果、また医学部に合格できなかったら」という不安やそれまで生活の全てを親に頼ってきたという自覚から、「医学部を諦めるなら、親に頼らず、自分だけの力でどこまでいけるのか試してみたい」と考え、入校を決めました。
そのため、「国を守りたい」という、崇高な意志で入校を決めたわけではありません。ただ、防衛大学校在学中に受けた教育で、「自衛隊」や「国防」に対する認識は、大きく変わり、行動も変化しました。
在学中に心身ともに強くなるべく、レスリング部へ入部し、2年時には、60kg級東日本大会で3位や全自衛隊大会でも3位と結果を残せました。
その後、航空自衛隊へ配属され、「高射運用幹部」という、ペトリオットというミサイルシステムを装備する部隊で2年勤務。
防空戦闘を担当する部隊で、当時は北朝鮮が弾道ミサイルの発射実験を頻繁に行っていた時期で、弾道弾対処のための機動展開訓練、展開後の防空戦闘の訓練をしていました。
当時最新機器であるPAC-3が配備されている部隊で、防衛の最前線部隊で勤務するという、大変良い経験を積ませていただきました。
その後、高射部隊で仕事をしている時、防衛大学校の理工学研究科へ合格。
防衛大学校理工学研究科では、防衛大学校学生時代の恩師の研究室にお世話になり、制御工学の研究を行っていました。
この時に同じ研究室の先輩から、技術幹部職種の話を伺う機会があり、仕事が面白そうだと感じたことが、その後技術幹部になるきっかけでした。
大学院を卒業後、希望通り、技術幹部になり、東京都府中市の電子開発実験群という部隊に配置されました。それ以後は退職するまで技術幹部として勤務し、開発評価隊では、弾道ミサイルの軌道解析を行う業務に従事。
その後配属された技術調査隊では、要望の上がった場所での電波収集と、それを解析した結果を報告書として作成する電波環境技術調査の仕事をしていました。
ーー技術幹部としても活躍されたんですね。では、自衛隊在職中の思い出に残るエピソードがありましたら教えていただけますか。
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