日本の漆器 4大産地 :前編
VESSEL Rental Serviceでは、和食器を中心に陶器や磁器を取り扱っておりますが、「漆器」も取り扱いがございます。
ということで、本日は漆器のお話です。
❖漆器とは?
まずは漆器とはなんぞや?というところから・・・
漆器は、紙や木に漆を塗り重ねてつくられる工芸品です。
漆を塗った食器のことを指しますが、広くは漆を塗った工芸品全般のことを言います。
日本を含むアジア・東南アジア・南アジア地域を中心とした国々で、食器をはじめ箱、箪笥、棚など生活の様々なシーンで用いられており、日用品から高度に装飾された美術工芸品まで多くの物が作られています。
ウルシ科ウルシ属の落葉高木「ウルシ」から採取される樹液を加工し、素地(きじ:木製のものは木地という)に対して下地工程、塗り工程など、細分化すると約40もの工程を経て、仕上げられたものが漆器です。利用される素地には乾燥させた木材、竹、紙、金属を使用し、漆を素地の表面に塗ることにより器物は格段に長持ちするのです。
植物のウルシの生息域は東アジアから南アジアに限定されているので、漆器はアジア特有の特産品と言えます。
長い歴史を持つ日本の漆器には、4つの代表的な産地があります。
「紀州漆器 (和歌山県)」「会津漆器 (福島県)」「越前漆器 (福井県)」「山中漆器 (石川県)」の4産地です。
本日は、そのうち2つの産地をご紹介いたします。
❖紀州漆器
紀州漆器は、和歌山県海南市の北西部「黒江地区」を中心に生産されている漆器です。
起源は500年ほど前の室町時代と言われており、もともとは現在の和歌山県岩出市にある根来寺にて僧侶たちが寺用の膳・椀などを自ら作ったものが起源と言われております。これらはいわゆる根来塗と呼ばれ、黒漆で下塗りをしてその上に朱を塗ったところ、未熟練の僧侶たちによるものであったので、使用中に表面の朱塗りが擦り減り、下塗りの黒漆がところどころ露出してしまったそうです。ただし、それがかえって趣のあるものとして喜ばれたことから、人気を得たと言われています。
その後、豊臣秀吉に攻められ逃れてきた根来寺の僧が黒江地区に落ち延び、技術を伝えたといういわれがあります。
江戸時代の初期には漆器の産地として大きな名声を得ておりました。
紀州と言えば・・・江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の生誕地として有名です。
吉宗の時代である江戸中期以降は、紀州徳川藩の庇護を受け、さらなる発展をしていきます。堅地板物の成功や、蒔絵技法の確立などで美術工芸品としての地位を不動のものに。
昭和53年には通産省(当時)から、伝統工芸品の指定を受け、和歌山県を代表する伝統産業となっています。
●紀州漆器紹介サイト
❖会津漆器
会津漆器は、福島県会津市に伝わる伝統工芸品です。
歴史的には津軽塗や輪島塗などよりも早く400年ほど前から盛んとなりました。会津の地に漆工芸が根付いたのは、1590年に豊臣秀吉の命により、会津藩主となった蒲生氏郷が地域の産業として奨励したことから始まります。氏郷は、以前の領地の日野(滋賀県)より職人を呼び寄せて、先端技術を伝授させ、これにより会津の漆器は飛躍的に進歩。漆の栽培から加飾までを手掛ける一大産地となりました。
江戸時代には海外輸出も果たすなど、藩の主要産業として隆盛を誇るものの、幕末の戊辰戦争によって大打撃を受けてしまいます。そんな逆境から、明治の中頃には復活を遂げ、日本でも有数の産地としての名声が定着しています。
会津漆器の特徴的な技法としては、以下のような技法があります。
「花漆」
油を加え光沢をもたせた漆で上塗りしただけで研ぎださずに仕上げる、高度な技術が要される技法。
「金虫喰い塗り」
その漆が乾く前に籾殻を器全面に蒔き、乾燥後に籾殻を取り除いて銀粉を蒔いてさらに乾燥。仕上げに炭で磨いて完成させる技法。
「拭き漆」
木地に透けた生漆を摺るように薄く塗っては布で拭き取る作業を繰り返し、木目を生かして仕上げる技法。
●会津漆器協同組合
残りの2か所の産地については、後編にてご紹介!