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夜明けのブラウニー、感謝のリスト
最近、深夜過ぎに目がさめるようになった。スマホを枕元におかないように、時間を確認しないようにしているけれど、どうしても眠れなくなって起きる。
白湯を飲もうとすると大体、0時半くらいなのだった。
寝始めるのは21時半ごろ。だから3時間くらいよく寝れたことになる。
眠れないことは悪いこととは思わない。私の場合、眠れるときと眠れない時の差があって、眠れる時はなんら問題なく8時間や9時間寝てしまうのだから、ずっと眠れていないわけではない。
でも、やっぱり眠れないとちょっとした固いものができて体の中に転がり込む感覚がる。冷たい石みたいな、軽いプラスチックのおもちゃ見たいな。体の中は暖かいのに、そのカラカラとした音に日々がなんとなく色あせて見えることがある。
眠れないことは仕方ないこと。
前にどこかの記事で読んだことを思い出す。テレビだったかな。睡眠は幸福度はあげない。不幸度を下げる効果は抜群にある。
私はそれを見て、それなら寝たり食べたり運動をして不幸度を下げておけば自ずと幸福度は上がるだろうと思っていた。シーソーみたいに。どちらかが下がれば、黙っていても片方は上がる。
でも、最近よく思うのは、幸福と不幸はあまり仲良くないということだ。つまり、二人でシーソーにのったりしない。
不幸度は下がっても、幸福度は上がらない。そんなこともある。一人でそう思いながら暖かい抹茶でラテを作って飲んだ。
夜中に、ブラウニーを焼く。
冷蔵庫に生クリームとチョコレート、バターとレーズンがあることに気がついたからだ。このレーズンはカシス酒で戻してあって、はてどうしようかなと思っていたけれどブラウニーに入れてしまうことにした。
焼いている間、少し外を見た。すると、駅の、一番最寄りの駅がうちから見えるのだけれど、そこの灯りがパサっと落ちた。誰かが業務を終えて、家に帰る。そのために、駅の戸締りをしたのだ。そこを初めて見た気がしたら、なんだか少しだけラッキーな気がした。
私は、幸せになるためでも、不幸を止めるためでもなく、たまに、眠れない日に5つのリストを作ることがある。
それは感謝をしていることのリストだ。
いくつも作らない。よく、100挙げる!というやつがあってそれも頭の体操にはなると思うんだけど、今、本当に集中して見つめたい5つのことだけを挙げるようにしている。
リストを作っている間、私なりのダジャレで、リストの『リーベストラウム』をかける。とてもとても小さく。何度も。
これを聞いていると、たくさんある感謝のリストも、または1つも浮かんでこない感謝のリストも、必ず5つにまとまる。
出来上がりを見てみると、いろいろと日々のことはあっても、根本的に感謝をしたいことはこの5つにまとまってしまうんだなと思う。
生まれたこと、生かされてきたこと、今生きていること、関わってくれること、信じてくれること。
ここには抽象的に書くけれど、実はもっとかなり詳しく書いてある。
そして、その中には家族やパートナーだけでなく、noteの仲間たちのことも書いてある。私は、28歳の時に帰国して誰とも会わなくなって以来、この場所がなければなかなか自分を信じて楽しむことはなかったと思う。ずっと一人のままだったと思う。
リストが小さく、終わった。ブラウニーが焼きあがった。
私の毎日は次から次へと、移っていく。みんなの毎日も、次から次へと。時間のせいだ。時間が水みたいに、とろとろと流れ続けているせいで、私たちは1つのところに止まったり、1つのものを持ち続けることができない。
私は、だからできれば一緒に持ちたいしたいと思う。世の中では「シェア」とか「共有」とかいうけれど。重い荷物を、片方ずつの取っ手で二人で持つみたいに。どちらのものとも言わず、重さも価値も誰かと共有できるように。
そんな風に、時間も顔も言葉も人といるために使えたらいいと思う。
ブラウニーを食べるために、こんな時間なのにコーヒーをいれた。コーヒーなのに、飲んだら眠くなった。
しばらく、黙って、外を見ていた。それからあまりに寒くなって、布団に入ってまどろんだ。隣は夫が寝息を立てていて、それを聞いていたらいつの間にかすっかり眠っていたようだった。
少しだけ夢を見た。
文房具がたくさん並んでいる店に入った時に、目の前にパステルカラーのコピー用紙が30枚入ったものが売られていた。
別になんのためでもないけれど、それを買うことにした。パステルカラーが欲しかったのか、色のついた紙が欲しかったのかわからないけれど、家について開けて何かを描いてみようとすると、妙に胸が高鳴った。
ただ、いつもの白に色が付いているというだけで、大人なのにこんなにはしゃげるとはすごい。それくらいはしゃいだ。
そこに、試しにナポリタンの絵を描いてみた。次にとんかつの絵。とんかつだけではなんだかわからない。ただの茶色い塊に茶色いソースがかかっているだけだ。
では、カツ丼にしたらどうか。器があったり、グリーンピースが載ったりしていれば、それがなんだかわかるだろう。そう思って書き足した。
私は小さな頃から、本当に食べることが好きだった。私の文章を読んでもわかると思う。いつも、食べ物ばかりが出てきてしまう。
授業中は先生の話をそっちのけに、家に帰ったらどんなおやつを食べようか、と考えているような生徒だった。お腹が空いて我慢できない時には、図書館に行って、美味しそうな絵のある本を選んで読んでいた。
私が重宝していたのは「こまったさんシリーズ」と「小さなおばけシリーズ」。特に『スパゲティがたべたいよう』という素晴らしい児童書があって、そればかりを読んでいた。
起きたら、いい匂いがした。
スパゲッティではなかったけれど、夜中に設定しておいたホームベーカリーからの匂いだった。食パンが焼けたのだ。
じゃあ、今朝はサンドイッチにしようか。卵を茹でて潰そうか。そう思って布団をたたんだ。
丸くなって行く布団を見ながら嬉しくなる。
そうしよう。マヨネーズを惜しみなく入れて、パセリも少し振ったりなんかして。
今日はサンドイッチを食べて、また、流れる時間の中を泳ごう。