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夫婦は並んで歩くものと思っていた

長野に帰ってきて、なぜかまずチャルメラが食べたくなった。北海道でも食べられただろうに、21時に帰ってくるなりどうしても食べたい、となりコンビニに行ってもなかった。

翌朝、ドラストへ。夫はそこでランチパックを買っていた。それはコンビニでもあったよ!


いい夫婦の日というのがあったっけ。11月22日なのかな。もうすぐだから忘れないようにしたい。私たちは、ここしばらくいい夫婦ではないので、それを目指したいと思う。

いい夫婦というのは、じゃあなんぞや、と聞かれると難しい。はっきりとはわからないけど、わたしは、二人の足並みをそろえて並んで歩く人たちのことを思い浮かべる。

夫とそうなりたかったけど、最近ではそれが難しいかもしれないって思うようになった。

2人でいるよりひとりでいるほうが気楽だ。2人でやるより、ひとりでやる方が簡単だ。そんなシーンが増えてしまって、そう思う日々を送っていた。

気づいたら「休んでていいよ」という。それは優しさじゃなくて、ひとりでやった方が効率がいいから。そして楽だから。

そう感じる自分を恥じていた。
口が裂けても夫には言わないほうがいいって思った。

でも、先日、大きな喧嘩をして、ついに言ってしまった。もうひとりでいるほうがいい。一緒にいるとうんざりする、ひとりの方がうまくいく、と。



ひとりでいたときは、確かにぶつからずに歩くことができたと思う。自分の頭の中で作り上げた最短距離をすいすい泳ぐ感じだ。


買い物に行っても、手続きも、旅行も、人とのやり取りも。自分が思った通りの順序で、自分を推し進める。
いちいち、だれかを説得する必要もなく「これするね」「あれ行くね」と言わなくていい。脳がぴしぴしっとアイデアを出して、その通りに向かうだけだ。


でも思い起こせば。
だからと言って、全てがうまくいくわけじゃない。落とし穴は多くあった。そのたびに、自分はひとりぼっちであると痛感した。自分が本当に頼れる、一番に打ち明けられる相手はいない。いたとしても、相手にとって自分はそうではない。そんな時間が続いた。


ひとりはいい。とくにいいのは、傷つかなくていいこと。そう思う。傷つくことはあるけど、それなりに流れていく。えぐられない。


傷つくということは、ほとんどの場合こちらにも原因がある。相手のささくれがひっかかるような服を、私が着ているということだから。あるいは、相手の変哲のない布地に、ひっかかるだけの突起を持っている。


それでも、ひとりでいるときというのは、相手のせいにしていられる。傷ついたあとは、自分の部屋に逃げ込んで、生姜焼き弁当を食べながら好きな音楽を聞けば、あとはなんとかなった。


でも、ふたりでいるとそうはいかない。
部屋に逃げても布団に入っても、どれだけ自分の中に潜り込んでも、もう一人にはならない。だから、向き合わないといけない。


私はなぜ、そんなひっかかりやすい服を着ている?
ひとの神経を逆なでするような鱗をつけている?
なぜ、それを捨てられないんだ?


目の前で相手は傷ついている、泣いている、怒っている。私はそれに対して、向ける顔と言葉を選ぶ。いいものを選べばいいけど、私はそうじゃない。それができるほど強くないから。


もう相手のせいにはできない、というところまでくるとき、私はえぐられる。いままでうまく乾かしてきた傷口は見事に開いて、また別の手術が必要になる。麻酔はなし。だからひどく痛む。


そしてその傷を治せる名医は、どこにもいなくて、ここにいる弱いのふたりだけなんだって気づいたらもうどうしようもなく、孤独になる。コンパスもないのに迷い込んで、お互いにうんざりしながら身を寄せ合うしかないような。


でもその孤独は、すくなくともひとりではないんだな。そう思うようになった。



独りでも生きられる二人が結婚するべき。とても正しい言葉だと思う。
それぞれが離れても、それでも自分の足で立っていけるような、そういう強い二人が一緒になったら。


そしたら、うまくいくだろう。喧嘩もない、喧嘩の前にそれぞれが解決するから。泣きあうこともない。それぞれが涙の止め方を知っているから。


上手くやれるだろう。独りで生きられる人たちが結ばれるのは、正しいと思う。
でも、素敵じゃない。その言葉はまったく、素敵さを帯びていない。


そして私は、素敵なほうを選ぶ。


だから、今日もばかみたいにもがいて泣く羽目になったりするのだけれど。



ある時、ドイツでこんな風景をみた。美しい緑に囲まれた公園のなかを、おじいさんとおばあさんが手をつないでいた。お互いの顔をみて微笑みあい、肩を抱いて、仲睦まじく歩いていた。
私は、それを見てえらく感動してしまい、普段は絶対にしないことをした。追いかけていって話しかけたのだ。


2人みたいな恋愛ができるといいな。そんな人が見つかるといいな。
失恋したばかりだったせいか、私は上気した様子で伝えたんだと思う。2人は顔を見合わせて、そしてこらえきれないように大声で笑った。


僕たちが出会ったのは一週間前だよ。出来立てほやほやのカップルなんだよ。


お互い、パートナ―を失って、ホームで出会ったのだと言った。自由時間にこうして二人で散歩して、近所に”見せつけている”んだ、と。


君みたいに、恋愛映画を見すぎたような若者が、よく話しかけてくるんだよ。息を弾ませてさ、俺たちみたいになりたいっていうんだ。


そして女性が私を見上げていった。


2人の人間が、同じ方向を見て同じ歩幅で歩くなんて。せいぜいできたって1か月よ。私たちだって、それ以上はするつもりなんかないわ。無理だもの。


舌を出した。それを見て男性は悪びれる様子もなく言った。
そうそう、永遠の愛、とか死ぬまで仲睦まじく、なんてさ、

そして私に顔を近づけていった。

真っ赤な嘘なんだぜ。

そして2人で手をつないでいってしまった。女性が背中にかけていたレース編みの上着を男性が落ちてしまわないようにしっかりと支えていた。私だけが天地がひっくりかえったみたいに、身体を支えるのに必死だった。



私だって、結構つよいんだよ。そして、あなたといると傷つくんだよ。岩にでも傷はつくように、強くても傷ついてしまうんだよ。


でも、傷つかないままひとりでいるのと、傷がついてでも一緒にいるのなら、どっちがいいかな、と考えたとき、この先もまだ傷がつくとわかっているのに、それでも一緒にいたいというのは頭がおかしいのかな。



大学生のころ、私を支えてくれるような人がいた。
その人は、苦しんでばかりいる私を見ていつも励ましてくれた。夜にヨーグルトを買ってきてくれたり、銀座にある映画館に誘ってくれたりした。


古着が好きだというと、知り合いに古着のバイヤーがいると紹介してくれたり、誕生日には変な顔のワニのキーホルダーを贈ってくれたりした。


私はその人に迷惑をかけて申し訳ない、と感じその旨を話すと


救う側が救われていると感じることもあるんだよ。


そういっていた。とてもできた人間だな、と思いながら私はその人と距離を置いた。どうしても、救う側が救われることなんてあるとは思えなかった。


守ることで強くなる、なんていうありきたりな恋愛ソングみたいなのは嘘くさくて御免だった。救うのは失うことだ。身を削ることだ。自分を減らしてまで、人にいい顔を見せる意味が分からなかった。


でも今、その人の言っていたことが少しだけだけどわかる気がする。私は、たぶん、いま救うことで救われていて、そして救われながら相手に安らぎも与えているかもしれない。


私は、自分を「コミュ障」なんて自嘲することがよくあるけど、こういうのをコミュニケーションというのかな、と、あるいはコミュニケーションの一種なのかなっておもうようになった。


夫とやりとりをしながら、「人は一人じゃ生きられない」っていうこれもまた本当にありきたりな事実の一部に触れているのかもしれないなって思ったりした。





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