急いで幸せにならなきゃいけないなんて嘘だよ
よく陥りがちな考えで、
「苦しんでばかりいて、人生を無駄に過ごしてしまっている」
というもの。私もそう思ってしまう時はある。それは高校生の倫理の先生が言っていたことが原因しているかもしれない。
「みなさんの成功の定義はなんですか。考えてみましょう。ちなみに先生は、幸せだな、と感じられる時間が多かった人生は成功であると思います」
だから私は(なんでも鵜呑みにするのもよくないけど)、そうか、人生の中で幸せな時間を増やしておかないと、私の人生は失敗作になってしまうのか!
そう思ってガーーーンとした。当時、幸せな時間というものが思い当たらなかったので。
そしてその後も、いまだって「幸せだ」と心から納得できる時間なんていうのはほとんどないか、ほんのわずかなもの。もって数時間とか。人に頼ってしまう時もある。
だから、私の人生が成功ではないような気がしてひどく焦ってしまった。
でも、今思えば、楽しかった時間も、苦しかった時間も、等しく「愛おしいもの」として思い出すことができる。だから私は、成功とは「幸せだな」よりも「愛おしいな」という時間が多い人生を送ることだと思う。
あんなことで泣いてたんだ。あんなこと気にしてたんだ。
そうやって振り返ると、じたばたしていた自分も、翻弄されていた周りの人も、土地も言葉もすべてが愛おしいものに見える。
むしろ、楽しんでいるだけの時間よりも、なにか引っかかりがあるような感情の方が鮮明に思い出せて、今さら輝くことがある。
たとえば、幼少期にディズニーランドに行ったことはほとんど覚えていないのに、両親が毎晩、喧嘩をしていたことははっきりと思い出せる。若い二人。子育ても、仕事も、お金のやりくりも。会社での人間関係もなかなかうまくいかなくていがみ合っていた。
仲が悪いと思ってがっかりしていたけど、そうじゃなかったんだね。
怒りというのは一番近い人に向くもの。一番信頼していて、この人にだけはわかってほしい、という気持ちが強いからこそ向くものだ、ということを最近、本を読んで知った。
よく食べる子供を3人も産んだら、そりゃ大変だよね。夜勤とか夜間待機とかばかりで、子供を家に置いて働いてたら、そりゃ不安だよね。何十年も続くローンがあったら、面白くないよね。
あの二人はちょうど私よりすこし年上なくらい。今の私だってまだまだ子供みたいで、あの二人が抱えきれなかった重みをすこしはわかるようになりたい、と思うようになった。
最近、お父さんと美味しいとんかつ屋さんに行った。ロースかつを食べに行って、それがとても美味しかった。
そういうと、お父さんは「おかあさんに」といってヒレカツの詰めたものを持たせてくれた。
お母さんは、最近は私がお父さんと会うと言っても嫌な顔をしなくなった。お土産のヒレカツも食べていた。美味しかった、ありがとうございます、と伝えておいてね、と言われた。お父さんにもメールをした。
過去は変えられないのは本当だけど、絶対に変わらないは嘘。勝手に変わっていく。移り変わっていく。過去の大変だった事実は少しずつ劣化して、形の丸いものに変わっていく。今この時も変わっている。
家族のカタチひとつをとったってそうなんだから、他のもの、全てがそうだ。
だから、幸せな時間を増やさなきゃ成功じゃないなんて嘘。どんな時間でも今を生きて、それが苦しいほどあとになって輝くものだ、と楽しみにしていればいい。
急いで幸せを見つける義務なんてどこにもないよ。