時間がかかることをあきらめない
今日は絵の話をしたいと思う。
先日、絵を描いていて、愕然としたことがある。
それはあることに気づいてしまったから。
私は、若い頃から今まで、絵を描く時に
手っ取り早く表現したい
できるだけ近道をしたい
と思っていた気がする。
それは自虐でも何でもなく、本当にそう思ってしまっていた。
絵の具が早く乾かないか、乾くメディウムを使おう。
もっといい表現はないか。いい表現とは何か、を考えることもしないで、つまりは手っ取り早く「すごい」「うまい」「なんとなく好き」を求めて小手先のことをしようとしていたんじゃないだろうか。
正直いうと、短気な方だし、複雑で時間のかかることは嫌。
だから、そんな自分がいたとして、別に不思議じゃない。私は、そうしていたんだと気づいた。手っ取り早く、絵も自分も騙せたらいいな。
こう書くととても残酷だけど、そう思っていたんだと思う。
絵は騙し合いだと思う時がある。
自分と絵の騙し合い。
出来上がって、いい絵だなあ、と思って、5分後に戻ってくるとゴミみたいに見える。
ああ、騙された、とおもう。
ほら、千と千尋で、金の粒を拾い集めるけど、後で全部、土くれになってしまうシーンがあるよね。あれにすごくよく似ている。
これはすごい出来栄えだ!
そう思って、何分、何日、何週間の後。もう捨ててしまう。ゴミにしか見えないからだ。
そういうものを生み出してきたのは、自分の責任でもあると思う。でも、その責任を取らなかったわけだから、どうしても、ゴミばかりと対峙してきた。
いつしか「私はゴミみたいな絵を描くんだな」って思うようになってしまった。
(ここでいうゴミというのは価値のない、という意味とは違っていて、決してネガティブで言っていない。だって、排泄するのだって、結局はゴミとして終わるけど、それまでの過程を思えばゴミ出会って当然なわけだ。この話は長いから、また今度)
でも、昨日。
幸か不幸か、気づいてしまった。私は、サボろうとしていたんだっていうこと。
脳みそはサボることが好きで、少しでも楽に、手軽に済ませてしまえるよう工夫するのだという。それが文明につながって、新しいものが生み出され、より「便利」になっていくんだという。
だから、私もそれに従ったんだと思う。絵を便利なものにしようとしていた。こんなに簡単に、気軽に、私の中の
もうどうしようもならないアレコレ
が、ちゃちゃっと外に出て、綺麗なものになって、みんなの前に開示される。そんなドラマみたいなことが起こると本当に思っていた。
人生が2時間の映画にまとめ上げられれば、みんな見て涙をするけれど、人生はもちろん2時間ではない。それがもし、観るのに80年間かかる映画だったら?誰も見ない。
絵もそうだ。綺麗にまとめ上げられているけれど、全部を知りたい人なんていない。完成品が見たいのだ。私だって、完成品が見たい。80年間もかかる映画なんて退屈だ。付き合いたくない。
でも、真実は。リアルは80年間の映画なんだ。
そっちに付き合わなきゃいけない。そうしないと、2時間の映画は出来上がらない。
私は、2時間の映画を作るために2時間だけ対峙していた。本当は80年間、辛抱強くしていないといけないのに。
1つのものを作るということは、甘いことじゃない。
甘くやって、たまたま完成してそれを好きになることはあるかもしれないけれど、それではまた土くれになる。
とにかく、恥も時間も捨てて、となりに引っ付いて付き合う、逃げようとしたら叱る、泣くなら髪をひっつかんで説得するような。そういう、すぐ隣で面倒を見ることをしないといけない。
そしてその面倒を見ている相手は、どうにもわがままな子供で、顔をよくみると小さい頃の自分にそっくりだったりする。
だから、その人を諦めてはいけない。
初めて、絵を描いた日。
そんなものはもう覚えていないし、親が話すそれも美化されていそうでどうにも信用できない。
子供の頃に何が好きだったか、何が得意だったかなんてこの際どうだっていい。今の私にできることであり、やらねばならぬこと。
勝手に、誰にも頼まれていないのにミッションと捉えられること。それこそが、私にとっては絵だから、今日もこうして描いている。
自分、時間がかかるよ
自分、心底イヤになるよ
苦しみをアートに変えて昇華しよう
人を感動させて唸らせよう
どこの馬鹿がそんなことを考え出したんだろう。