バインセオの恩返し
これはわたしが北欧のノルウェーで生活を始めた頃の話です。それからしばらく海外生活が続きますが、これははじめてそれに挑戦したときのことです。7年ほど前になりますが、読んでくれたら嬉しいです。
こんなホームレスまがいの生活はもうできない。私は霧の中で考えていた。いや、何も考えられなかった。ここは閑静な住宅街で、オスロからは少し離れた郊外。時刻は朝3時。北欧では夏至が近づくとこの時間にはもうすっかり明るい。そしてそれが今は何よりも救いだった。
夏なのに、どうしてこんな霧が発生しているのだろう。じっとりと水を含んだ濃い霧は私の頭の中そのものだ。
私は、売り物件の中に他のホームレスたちと生活を共にしていた。なんらかの事情があって、家を持たない人々でそこはいっぱいだった。シャワーも出る。水だけれど、いまはありがたいことに夏だ。しかし、私の番が回ってくるまであと2日はある。この家にだって、ルールがある。これだけの人間が住んでいれば。
ここで知り合った人々。彼らの名前を私は知らない、ただ、お互いをYOUと呼ぶだけ。ここでは誰も名乗らない。その必要がないから。いつかは出て行く、いつかはもう会わなくなる仲だ。
私は、少々の服と、最低限の日用品、それからノートとペンを持っていた。スマートフォンを教授の家に置いてきたことに気づいて、取りに行こうとしたがドアを開けてくれないだろう。諦めた。
その教授とは、日本で出会った。わたしは当時学生で、東京浅草でツアーガイドのボランティアをしていた。そして、彼は私のツアーに参加していたのだった。とても真面目で気さくな彼の性格を信頼し、また、気がよく合ったことから4年間連絡を取り合い、ノルウェーに滞在する間、間借りさせてもらうことになっていた。ビザを申請した時も、住民票を彼の住所で登録した。今はもう彼の家には住めない。こう言う場合はどうしたらいいんだろう、また市役所に行って、今度はホームレスになりました、と言うのだろうか。そしたら私は、日本に帰らなければいけないのか。
全ての事の発端は、もう1ヶ月も前から起こっていたことだ。本当はすべてわかっていたはずなのに、見て見ぬ振りをしてきた。毎晩洗っているはず私の下着が、時折見当たらなくなったのだ。
普通であれば、盗難を疑うだろう。しかし犯人の目星はついていた。私は、外には干さず、乾燥機でしか洗濯物を乾かしたことがないからだ。
それからは日々、怯えながら暮らすことになる。減って行く下着を数えて、自分は檻の中にいるような感覚に陥り始める。ある日、勇気を出して教授に事情を話し、家を出たいと伝えた。行くあてはなかった。けれど、そうせずにはいられないほどわたしは精神的に衰弱していた。すると教授は顔を真っ赤にして、私の荷物を、何処かで見たテレビドラマのように窓から外へ放り出した。
私は、今がチャンスだと思った。何が放り出されようがどうでもよかった。靴を履いて、家を飛び出した。荷物をまとめて、道路を一人歩きはじめたのは深夜2時。これで本当に一人になった、とつぶやく。母国から遠く離れたこの国に、頼れる人はもう一人もいない。
のどが渇いた。なにより、空腹で倒れそうだった。ここ数日、教授に怯えてキッチンに行けず、満足に食べていなかったのだ。この時間に開いている店はスターバックスと駅前のベトナム料理店しかない。まだ仕事がない私にとって、物価の高いオスロのスターバックスは敷居が高かった。
迷わず、ベトナム料理店に入る。他にも客がいることにホッとした。この時間帯に起きていて、私と時間を共にしてくれる人が一人でもいることに感謝した。席に座ってタバコをくゆらせる女性。派手なドレスからして、夜の仕事だろうか。何かまくしたてるように店員と話している。あらかた、客の愚痴だろう。私は席に着き、女性が食べているフォー・ガーに目を止めた。レモングラスとパクチーがたっぷりと乗ったそれは、唐辛子の香りを放ちながら、湯気を天井まで送っていた。皿の隣に添えられたみずみずしいライム。長い爪を持った指を使って、それを器用に絞り切っている。
私にも同じのを。ノルウェー語もベトナム語もできないので、身振り手振りで伝えた。すると、働いていた女性は「大丈夫よ、英語でも」と優しく笑いかけてくれる。私は、瞬間に、堪え切れなくなった。他の客も見ている。迷惑とは知りながらも涙は止まらない。
すると、その店員は私の背後に回り背中をさする。そして耳元でこう囁く。
いい事を教えてあげる。あなたが持っている全ての困りごとは、これから順番に解決していくわ。そして、いい未来が待っている。
You think so? 私が顔を上げると
I know so. その人は言う。必ずね。
それから朝になるまで、その店に滞在した。その人はアリシアといった。アリと呼んでね。
彼女はオスロ大学の心理学科で学ぶ大学生で、いまは家賃を払うためここでアルバイトしているそうだ。あと1年で国家試験を受け、心理カウンセラーになると言う。なるほど、私が泣き出したときのあの対処の早さはそれと関係があるかもしれない。
フォー・ガーを食べ切っても腹が空いていた。壁に貼られたメニューを見て「バインセオ」なるものを食べたいと思った。それは、ベトナム風のオムレツに見えた。黄色くパリッと焼かれた生地になにかが挟まっているらしい。が、物価の高いオスロ。手持ちの金を減らしたくなくて、目をそらした。アリは見透かしたように、キッチンに向かって何か叫んだ。
おごりよ。
え、どうしてわかったの。
アリはおかしくてたまらないというように言う。
心理士は相手の表情で出来るだけ多くの情報を読み取らないといけないの。みんな、話したくないことが山ほどある人たちだからね。
アリは休憩に入ったようだ。赤いプラスチックの皿に黄色いバインセオを2つ乗せてやってくる。
ここはベトナム中部のバインセオしか出さないの。私は南部出身だから、気に食わないんだけど、仕方ないよね。
二人でバインセオにかみついた。私は驚く。じいっと、自分の歯型がついたバインセオを見つめた。アリはからからと笑う。オムレツだと思った?バインセオの見た目はオムレツそのものだ。しかし食感はカリ、の次にモチ。
モチ?
その正体は卵ではなく、米粉とターメリックだった。惜しみなくフライパンに注いだ油で生地を焼き上げるのだが、これが米粉とココナッツミルクに大量のターメリックを入れたものなのだ。生地は躊躇せず一気に流し込み、フライパンを回して全体に広げるのがコツ。カリッと焼きあがったら、半月型に野菜やハーブ、ニョクマム、ニンニクや唐辛子、海鮮や豚肉を出来るだけ多く乗せ、残り半分をパタン、と閉じるように挟む。中の具の量を見ればその店がケチかどうかすぐにわかる、とアリはいう。幸運なことに私たちはなかなか太っ腹な店にいたようだ。
初めは卵を食べたいと思っていたが、食べ進めるうちにこれも悪くないと思えてきた。日本を出てから、もちもちした食感に飢えていたし、なにせ胃に留まってくれる。
満腹になったところで、アリはまたまたバイト代でベトナムコーヒーをご馳走してくれる。笑顔でコーヒーを運んでくるアリを見て、私の視界はまたにじみ始めた。
どうしてそんなに優しくしてくれるの。
それはね、あなたが半年後、すべての問題を解決して、また私とここに座るからよ。
内緒話をするみたいに顔を近づけて言う。
そして、あなたは勝ち取ったお金で私に、バインセオをご馳走してくれるわ。一つじゃないわよ、お腹がいっぱいになるまで。食べきれないくらいのバインセオをいくつもいくつも注文するの。
アリはからからと楽しそうに笑う。私は言った。
きっとそうするよ、きっと。
オスロの空が明るみはじめた。
それにしても困ったわね。どこで寝るつもりなの。
私は、わからないと言うようにため息をついた。
私のところに泊めてあげたいけれど、私は外部者が入れない学寮でくらしているの。
それからアリは様々なつてを頼って、わたしが住めそうな場所を探してくれた。しかしどこも断られてしまった。これが最後の手段ね
と彼女に連れてきてもらったのが、この売り物件だった。一時的に住む場所がなかったり困っているとき、ここに来るの。家出をした子も中にはいるわ。危険ではないと思うけれど、早く次を見つけた方が賢明なのは明らかね。アリから借りた寝袋を敷いて、荷物を隣に置く。夜は眠れずに霧の中を歩き、昼は街に出てアルバイトを探す日々を送った。
私は、公園の水を飲んだ。さまざまな仕事に応募した。夜の仕事も紹介された。スーパーに入れば、臭いがするのか、周りの人が私を見た。売り場では最も安いものをいつも探した。食べたい食材が目に入っても、見えないふりをした。そんな生活を1ヶ月も続けているうちに、自分でも頭がおかしくなってくるのがわかる。わたしは冷静でいるよう努めた。アリの言葉を思い出した。順番に解決していく。未来が待っている。街の雑踏の中で、何度も唱えた。
◇
半年後、私は空腹をこらえながらその店をもう一度訪れた。半年前とおなじ曜日、おなじ時間に。アリはそこにいて、わたしを見るなり、持っていた銀色のトレーを脇に挟んで拍手をした。
私たちは好きなだけ注文をした。バインセオだけではない。アリのすきな卵と餅の炒め物、蒸し春巻き、春雨や魚の煮付け、エビの酸っぱいスープ。私はあの時と同じように、フォー・ガーも。
私たちは食べた。アリは、いい未来が待ってると言ったでしょう、と得意げに何度も言った。そう、これが私たちの未来だったのだ。
わたしにはもう、仕事があり、寝る場所があった。はじめての海外生活で、仕事を得、アパートを契約したのだ。住民票には自分の家の住所が載っている。自分の力でオスロ市民になったのだ。
この半年間で、何が一番誇らしかった?アリが口の中にいっぱい含ませながら聞いた。
わたしはよく考えてから答えた。
それは、家のポストに自分の名前を大きく書いて、貼った瞬間だった。
アリは、そうでしょう、そうでしょう、と頷いて、次のバインセオにかぶりついた。