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あの茶畑を追いかけて
昔、掛川に知り合いがいました。
知り合いと言っていいのかもわからないくらいの人です。
大学の後輩で、ひとり、わたしのことをすごく慕ってくれる子がいました。
周りが呆れるようなことばかりするわたしを「尊敬している」と褒めてくれました。
わたしがたまたま、田舎の良さを伝えるような小冊子を作りたい、と口走った時にその子は言いました。
うちの実家は静岡なんです。ばあちゃんがお茶農家の知り合いを知っています。
それがきっかけで彼女のおばあさんの家に行くことになりました。
後輩も「おばあちゃんにはしばらく会っていない」というのでいい機会だな、くらいに思っていました。
おばあさんはもう使われていないこぢんまりとした工場の奥にひっついている小さな家で暮らしていました。お一人のようでした。
迷惑も知らないでのこのこ出向くと「よくきてくれました」なんて頭を下げるのです。
わたしは自分が偉くなったような気がして、どうもどうも、なんて言いました。手土産のひとつも持っていかないような無知な大学生でした。
その夜はおばあさんの手作りの料理を食べました。助六寿司や、ひじきの煮物を食べました。大きな油揚げの中に五目と豆腐を詰めて蒸したものが出てきて、それが気に入り夢中で食べました。
生姜の天ぷらもありました。枝豆の入ったご飯をお代わりもしました。小さな風呂に入り、トイレに寄って寝ました。
次の日の早朝、おばあさんが運転する軽自動車で、細い道を上って行きました。
ずっと上り坂なので、車はだんだん妙な音を立て始めました。
夜の青と朝焼のオレンジ。そんな矛盾した空の色をしていました。わたしは後輩と、その空の様子をほう、と眺めていました。
一面、お茶畑ばかりでした。緑の匂いが気持ちよく広がっていて、何度も息を吸いました。
おばあさんの知り合いだというお茶の工場長を紹介してもらいました。広い茶畑を見せてもらい、そのあと客間で淹れたてのお茶をいただきました。
急須には蓋がありませんでした。それが一番おいしく入るのだ、と言います。
お湯も熱くない。どちらかというとぬるいのです。
淹れたてのお茶はすこしどろり、としていて濃い色をしている。いかにも苦そうです。戸惑いながら小さな湯飲みに口先を近づけると、広い茶畑の真ん中に立つようでした。
わたしはふと、インドを思い出しました。
ムーアという、茶畑しかない小さな村に迷い込んだことがあるのです。すっかり日が暮れて、ホテルも見当たらないのでタクシーの運転手に泣きついてその家族が住む家に泊まったのでした。
早朝、外に出ると霧が出ていました。ほんの向こう先も見えないのです。
青白く光る茶畑の中で、数人の女が茶摘みをしていました。不思議と日本のようにみんなお揃いのおもしろい形の帽子をかぶっていました。
女たちは異様なほど細く、背中と首を丸めているから顔がみえないのです。いっぽんいっぽん、葉の先っぽだけを摘みました。それが、異界に浮かぶなにか人間ではない者のように見えて、わたしは慌ててタクシーに乗り込み逃げるようにその村を去ったのです。
その話をすると、茶畑の社長、専務、おばあさん、そして後輩は興味深げに聞いていました。世界には私たちの知らない茶畑があるのだ。いい話を聞かせてもらった。そう何度も言いました。
小さな黒糖のまんじゅうをいくつも食べた気がします。
お土産に、と茶葉をたくさん持たせてもらいました。わたしはやっぱり頭が悪くて、どうもどうも、なんて言いお礼の一つも置いていかなかったのです。
その帰り、掛川駅まで車で送ってくれました。
降り、頭を下げてロータリーを歩いて行きました。
振り向くとおばあさんと後輩はこちらを見てにこにこ手を振っています。振り返して改札へ行き、妙に喉が渇いて販売機でお茶を買うとびっくりするほど美味しくないのでした。
それから数年して、後輩に連絡を取りおばあさんの住所を聞きました。ハガキを一枚、あのときはお世話になりました。失礼なことをして、と書きました。
しばらくしてスミレの花が描かれたハガキが届きました。そこにはボールペンで「あの日のことを今もわすれません」と書かれていました。