涙を流さない人生がより優れているとでも思っているのか
エビチリ定食を食べに行った。おいしかった。嘘、私が食べたのはレバニラ。
この記事のお返事として、今日は自分の心をみしみしと音を立てて開いてみようと思う。
この記事の中で、表現や書くことなどは「リングに上がること」と書かれていて、すごく新鮮だった。同じく、コメント欄にも、作ることを闘いととらえている方がいて、やっぱりみんなはすごく真剣にnoteで書くことに挑んでいるんだなって思う。
その一言だけで、尊敬した。私は、そうじゃない。
そう言ってくれてありがたいけど、私はむしろ、リングから降りたところに表現を見つけた。
私にとってリング上は「一般社会になじんで、普通に生きる」ということだった。誤解を生みそうだけど、平たく言えば
どれだけうまく、自分の病気や人との違い、もっと言えば”異常さ”を隠しきれるか
ということに尽きた。ばれないように、みんなと同じに見えるように。
それを「奇をてらっている」「芸術家ぶってる」なんていう人もいるかもしれないけど、全然違うってわかるはず。精神を病んだ人と同じ部屋で寝起きして毎日薬を飲んで、手帳を持って市役所に行けばそれがどういうことかわかるよ。
つまりは、みんながしていることをしていない。出来ていない。私は、すっかり置いて行かれてる。
面接に行くこと。職場に通うこと。そこでうわべだとしても友達を作り、お茶したり愚痴を聞くこと。ラインは嫌でも返すこと。上司とうまくやる、部下とうまくやる。週末のご褒美といって、何かおいしい高価なものを自分に買ってあげる・・・
まだまだあるけど、どうせそのいずれもできない。私は、面接に行くだけで一生分の汗をかくし、家に帰ってむせび泣く。内定しても怖くて断りの電話を入れてしまう。
同じ気持ちで同じ職場に毎日通うことはできない。朝目を覚ます時間もばらばらで毎日が違う、違い過ぎて自分でも対応できないのだ。
うわべの友だちも難しい。先日も、大変失礼ながら3名ほどをアンフォローした。その3名のnoteを私はもうずっと、読んでいない。ときに罪悪感から読んでもいないのにスキをつけたり、アッパーなコメントをしたりした。でも、タイムラインに流れてくる彼らの記事を見ていて、強迫観念のようなものが生まれるとき、もうだめだ、と思った。
それらを、もう読まないであろうことを知っていた。私は、いいと思えないけどとりあえず付き合う、ということが本当にできない。
来年、35歳になる私は、35年弱生きて、わかってきたことがある。私は(普通にふるまうことがかなり無理やりにでも少しずつできるようになってきたとはいえ)やっぱりどうしても
ドコカヘンダ(゜-゜)
薬を頑張って飲む、減らそうなんて贅沢を言わない。「死ぬまで、薬は絶対ですよ」。わかってる。なにがなんでも、明日生きないといけない。そしてその次も、生き続けないといけない。
そのリングを降りたとき、私は一つのパイプ椅子を見つけた。空いた席。私がいままでずっと、腰を下ろすことを許されなかった休息の場所。そこが書くことだったり、描くことだったりした。
◇
例えば、骨折をした人が病院に行って骨をつないでもらった、と言ったら「弱い人間だな」
なんていう人はいない。そうしなさい、早く治るといいね。そういうだろう。
でも、生きることが難しくなって病院や市役所や、警察に行った、と言ったら。みんなが払っている税金を払っていないと言ったら。みんなが払っている治療費を免除してもらっていると言ったら。
私はある時に、パニックになって警察に電話をしたことがある。あの人が、自分を殺しに来る!そう思ったのだ。部屋には鍵がかかっていて、窓も締まっていた。でも、その部屋にはほかにも人がいた。自分だった。
その話をしたら警察はあいまいに聞いていたし、迎えに来たソーシャルワーカーは「職務の邪魔をするのはよくないよ、本当に捕まるよ?」という。だれも、休んでね。早くよくなってね、とは言わない。
私は、その椅子を見つけることができなかったら、今ごろ一体、どうなっていたんだろう。安くて古い、錆びたような椅子にすがって、私はずいぶん幸せになったとおもう。この気持ちが、なん人の人にわかるんだろう。
それをわかってくれることの、ありがたいことは、どれほど自分にとって大きいんだろう。
こんな話をするつもりじゃなかったです。
自分をこんなに開示してはだめだ。もっと普通に見られたい。けど、自分の書いたものや描いたものを受け入れてくれ、一緒に探ろうとしてくれる。この方は、どうやら嫉妬さえもしてくれるみたいで、言葉が見つからないほど恐れ多いです。
私は、みんなが思っている、その何十倍も変だ。
平気な振りと、普通な振りが、だんだんうまくなってきたけど、それは危険だ。そうすればするほど、どんどん乖離して変になる。自分を2人作るのはよくないと知っている。だから辞めないと。
変だと思われないように。生きることが楽しいと、普通のひとと同じ感覚でいるように見せかける。正座でしびれた足を少しずつ崩して、だれにも気づかれないように休息をとる。そして、またきちんと正座をする。またこっそりと崩す。
「双極性ってほんとなんですか?」「全然そうはみえないけど」
そう言ってもらえるように、また正座をする。一人のまともな人間として記憶されたい、そんなつまらないことのために。
私は、泣いて、唸って、叫んで、たくさん苦しんできた。でも、それはみんな同じだって思いたい。おかしいのはみんなもそうだ。薬が必要なのは、医者の偉そうな説教が必要なのは。みんなそうなんだ、そう思いたい。私もみんなと一緒なんだって思いたい。
◇
私はこの本を作った時、本の表紙を洗った。クラフト紙を買ってきて、くしゃくしゃに丸めて、水でごしごしとこすり洗いをした。そして外に干して、アイロンをかけ、表紙にした。
紙を水で濡らしたの?こすり洗いも?破れてしまわないの?
破れないよ。
紙は脆いと、私も決めつけていた。でも、なかなか強くできている。破れないけど、いちど水に濡らしてしまったら、揉みしだいてしまったら、それは元には戻らない。アイロンをかけても、何をしても皺ができたまま。
みんなに、それぞれのリングがあると思う。ゴングが鳴る前にとりあえず上がって、相手を見据えないといけない。私はぼろぼろで、もう長くいられないと思う。だから、また降りて、空いた椅子を探す。座って、また上がる。普通を目指す。
この方にも、これを読むみんなにも、それぞれの大切なものを目指してリングの上で戦ってほしい。戦えば血をみる、涙が出る。
でも、涙を流さない人生がより優れているとでも思ってるのか?
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